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富士山へ届ける新茶の手紙

富士山へ届ける新茶の手紙


 五月の朝、富士山は白い封筒のように立っていた。


 茶畑の向こう、まだ薄く霞んだ空の中に、頂の雪を残した富士が静かに浮かんでいる。冬の富士ほど鋭くはなく、春の終わりの光に少しやわらいでいる。それでも、その姿には人の言葉を寄せつけないような深い沈黙があった。


 幹夫は畝の端に立ち、両手で小さな茶葉を包んでいた。


 今年の新茶だった。


 朝露を抱いた若葉を摘み、蒸し、揉み、乾かしたばかりの一番茶。祖母が「まだ若い香りがするねえ」と言って、和紙にほんの少し包んでくれた。包みの中からは、青く、澄んで、少しだけ苦い香りが立っている。


 その香りを吸い込むと、幹夫の胸はいつも静かに痛んだ。


 うれしいのに、痛い。

 懐かしいのに、苦しい。

 そばにあるのに、遠い。


 新茶の香りは、母の記憶に似ていた。


 母は去年の冬に亡くなった。


 雪の降らない、ただ冷たい日だった。病室の白い壁、消毒液の匂い、窓辺の水仙、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。


 ありがとう。

 行かないで。

 五月になったら、また茶畑へ行こう。

 富士山を一緒に見よう。


 どの言葉も、喉の奥で小さく凍り、声にならなかった。


 それから幹夫の胸の中には、宛先のない手紙が残った。毎日少しずつ重くなり、けれど捨てることもできない手紙だった。


 幹夫は十二歳だった。


 人より少しだけ、心の皮が薄い少年だった。友だちの何気ない一言が、夕方まで胸に残る。父が疲れている日の湯呑みを置く音が、いつもより硬いことに気づく。雨上がりの茶の葉に触れれば、葉が夜じゅう抱えていた冷たさまで指先に移るような気がする。


 父はときどき言った。


「お前は、何でも胸に入れすぎる」


 叱っているのではなかった。心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど、入ってくるものを止める方法など知らなかった。


 茶の若葉だって、光を拒まない。

 露を拒まない。

 風が吹けば揺れる。

 朝日を受ければ透ける。


 幹夫の心も、そんな若葉に似ていた。


 母は、そういう幹夫を笑わなかった。


「幹夫の心は、茶の若葉みたいね」


 五月の茶畑で、母はよく言った。


「弱いってこと?」


「違うわ。薄いから、光を通すのよ」


 母は若葉を一枚、朝日に透かして見せた。葉脈が細く浮かび、緑の向こうに光がゆっくり流れていた。


「それにね、茶の葉は富士山へ手紙を書いているの」


「葉っぱが?」


「そう。毎年五月になると、新茶の香りで手紙を書くの。冬を越えました。今年も光を受けました。山の雪はまだ白いですか、って」


 幹夫はその話が好きだった。


 富士山へ届ける新茶の手紙。


 母は、富士をただの山として見ていなかった。茶畑の遠い見守り手であり、雲の便りを読む人であり、沈黙の中にたくさんの季節をしまっている大きな相手のように語った。


「富士山は返事を書くの?」


 幼い幹夫が尋ねると、母は笑った。


「書くわ。雪の白さで。雲の形で。朝の影で。ときどき、茶の湯気の中にも」


 その言葉も、幹夫の胸に残っていた。


 今年、学校で「ふるさとに手紙を書く」という宿題が出た。


 先生は黒板に大きく題を書いた。


「山でも海でも川でも、神社でも茶畑でもかまいません。自分のふるさとの中で、手紙を届けたい相手を選んで書いてください」


 教室はすぐにざわめいた。


「ぼく、駿河湾に書く」


「私は神社の大きな楠」


「富士山でもいいの?」


「もちろん」


 先生は笑った。


 幹夫は、富士山へ書こうと思った。


 けれど、白い便箋を前にすると、手が動かなかった。


 富士山へ何を書けばいいのだろう。


 母のことを知っていますか。

 母はそちらへ行きましたか。

 僕は泣けなかったです。

 今も、五月の茶畑で母を探してしまいます。


 そんなことを書いたら、富士山は困るだろうか。あんなに大きな山へ、十二歳の小さな悲しみを届けるなんて、少し恥ずかしい気もした。


 結局、学校では一行も書けなかった。


 家へ帰ると、祖母が縁側で茶葉を選っていた。


 細い指先が、仕上がった茶葉の中から茎や細かな欠片を分けていく。祖母の手は年を取って皺が深いのに、茶葉に触れるときだけ、驚くほどやわらかかった。


「幹夫、今日は原稿用紙みたいな顔をしているね」


 祖母が言った。


「原稿用紙みたいな顔?」


「白いところが多くて、まだ言葉が書けていない顔さ」


 幹夫は縁側に腰を下ろした。


「宿題で、ふるさとに手紙を書くんだ」


「いい宿題だね」


「富士山へ書こうと思った」


「うん」


「でも、何も書けなかった」


 祖母は茶葉を選る手を止めた。


 しばらく、茶畑の方を見ていた。


「富士山は、急がない相手だからね」


「急がない相手?」


「ずっと立っているだろう。今日のうちに全部言わなくてもいい相手だよ」


 幹夫は黙った。


「お母さんが、富士山へ新茶の手紙を届けるって言ってた」


 祖母は目を細めた。


「あの子らしいねえ」


「どうやって届けるのかな」


「香りで届けるんだよ」


 祖母は茶葉をひとつまみ掌にのせた。


「言葉で書けないなら、新茶に少し手伝ってもらえばいい」


「新茶に?」


「そう。人の手紙は紙に書く。茶畑の手紙は香りに書く。幹夫の手紙は、その間にすればいい」


 その夜、幹夫は机に向かった。


 白い便箋を一枚出し、鉛筆を握った。


 富士山へ。


 それだけは書けた。


 その下で、鉛筆が止まった。


 窓の外では、茶畑が見えないまま香っていた。夜の新茶の香りは、昼よりも静かで、青さの奥に小さな苦みを含んでいる。幹夫はその香りを吸い込んだ。


 母の言葉が戻ってくる。


 新茶の香りで手紙を書くの。


 幹夫は、祖母にもらった和紙の新茶包みを机に置いた。包みを開くと、細く撚られた茶葉が現れた。畑で見た若葉とは違う姿になっている。けれど香りは、むしろ深くなっていた。


 若葉は姿を変えても、春を失っていない。


 幹夫はそう思った。


 そして、少しずつ書き始めた。


 富士山へ。


 今年も五月になりました。

 茶畑は新茶の香りでいっぱいです。

 あなたは遠くから、毎年この畑を見ていますか。


 そこまでは書けた。


 けれど、母のことを書くところで手が震えた。


 幹夫は鉛筆を置き、便箋を見つめた。


 書いたら、母が本当に遠い人になってしまう気がした。書かなければ、胸の中の手紙はずっと重いままだった。


 そのとき、戸口に父が立っているのに気づいた。


「まだ起きているのか」


「うん」


 幹夫は便箋を隠そうとしたが、父はもう見ていた。


「宿題か」


「富士山へ手紙を書く」


「富士山へ?」


 父は少し困った顔をした。


「先生がいいって」


「そうか」


 父は部屋へ入ってこなかった。ただ戸口に立ち、しばらく黙っていた。


「母さんも、富士山をよく見ていた」


 父がぽつりと言った。


 幹夫は顔を上げた。


「お母さん?」


「ああ。茶摘みの合間にな。俺は葉の色や天気を見ていたが、母さんは富士の雪の残り方や雲の形を見ていた」


「何か言ってた?」


 父は少し考えた。


「富士山は、黙っているけれど忘れない山だと言っていた」


 幹夫の胸が鳴った。


 黙っているけれど忘れない山。


 母らしい言葉だった。


 父は続けた。


「俺は、そのときは分からんと思った。山が何を忘れるのかと」


「今は?」


 父は少しだけ目を伏せた。


「今は、忘れないでいてくれるものがあると助かる気がする」


 幹夫は何も言えなかった。


 父の声の中に、母を失ってからずっと口に出せなかった寂しさがあった。父は泣かない。あまり話さない。けれどその沈黙の奥にも、手紙になれなかった言葉があるのだ。


「お父さんも、富士山へ手紙を書きたい?」


 幹夫が尋ねると、父は少し驚いた顔をした。


「俺が?」


「うん」


「俺は、そういうのは苦手だ」


 そう言いながら、父は便箋を見ていた。


 幹夫はもう一枚、紙を出した。


「一行だけでも」


 父は長く黙った。


 それから、部屋へ入ってきて、畳に座った。


 鉛筆を持つ父の手は大きかった。茶の葉を摘むときは器用なのに、鉛筆を持つと少しぎこちない。


 父はしばらく紙を見つめていた。


 そして、たった一行だけ書いた。


 富士山へ。母さんを覚えていてください。


 幹夫の目に涙が浮かんだ。


 父はそれ以上書かなかった。鉛筆を置き、紙を幹夫に渡した。


「これでいい」


 その声は少し硬かった。


 けれど幹夫には、その一行が父の胸の奥から出てきたものだと分かった。


「うん」


 幹夫は父の紙を、自分の便箋の隣に置いた。


 父は戸口へ戻る前に、低い声で言った。


「母さんのことを書くなら、急がなくていい」


「うん」


「でも、書けたら見せてくれ」


 幹夫は頷いた。


 父が去ったあと、幹夫はもう一度鉛筆を握った。


 母のことを書いた。


 僕の母は、去年の冬に亡くなりました。

 母は茶畑が好きでした。

 あなたを見るのも好きでした。

 母は、富士山は黙っているけれど忘れない山だと言っていました。


 書くたびに胸が痛んだ。


 でも、痛みの中に少しずつ風が通っていく気がした。


 僕は、母に言えなかったことがたくさんあります。

 ありがとうも、さようならも、怖いよも言えませんでした。

 だから、もしあなたが本当に忘れない山なら、母が茶畑で笑っていたことを覚えていてください。

 そして、僕がいつか母の声を忘れすぎそうになったら、新茶の香りで少しだけ思い出させてください。


 幹夫は鉛筆を止めた。


 涙が一粒、便箋の端に落ちた。


 滲んだ。


 消そうとは思わなかった。


 その滲みも、手紙の一部だと思えたからだった。


 翌朝、祖母は小さな茶筒を用意してくれた。


 その中に、幹夫の手紙と父の一行の紙、それから新茶をほんの少し入れた。手紙を茶葉に直接触れさせないよう、薄い和紙で仕切った。茶筒の外には、祖母が赤い糸を結んだ。


「これを、富士山へ届けるの?」


 幹夫が尋ねると、祖母は微笑んだ。


「富士山の麓まで歩いて持っていくわけにはいかないからね。茶畑から届けるんだよ」


「どうやって?」


「湯気と風で」


 祖母は当たり前のように言った。


 父は横で「また変わったことを」と言ったが、反対はしなかった。


 三人は朝早く茶畑へ上った。


 富士がよく見える日だった。


 空は澄み、山の頂にはまだ雪が白く残っている。茶畑の若葉には露があり、朝日を受けて小さく輝いていた。駿河湾からの風はまだ冷たく、茶畑の上を静かに渡っていく。


 父は茶畑の端の平たい石に茶筒を置いた。


 祖母は急須と湯呑みを並べた。


 まず母の分の小さな湯呑み。


 それから父、祖母、幹夫の湯呑み。


 祖母は茶筒から新茶を少し取り出し、急須に入れた。茶筒の中には、手紙が残っている。そこへ向かって、祖母はほんの少し湯気を当てた。


「手紙も、香りを覚えるように」


 そして湯を注いだ。


 急須の中で、茶葉がほどける。


 白い湯気が立ちのぼる。


 湯気は朝風に流され、富士山の方角へゆっくりほどけていった。


 幹夫は息を止めて見つめた。


 手紙が本当に富士へ届くのかは分からない。けれど、湯気はたしかに山の方へ向かっていた。新茶の香りを含んだ、見えない手紙のようだった。


「お父さん」


 幹夫は言った。


「届くかな」


 父は富士を見た。


 しばらく黙っていた。


「届くと、思ってやるんだろう」


 父は言った。


 その言葉は不器用だったが、やさしかった。


「うん」


 幹夫は頷いた。


 祖母が茶を注いだ。


 幹夫は湯呑みを両手で包んだ。


 一口飲む。


 最初に、淡い苦みが舌に触れた。


 母に言えなかった言葉の苦み。

 父がたった一行を書くまでの沈黙の苦み。

 手紙が届くか分からない不安の苦み。


 けれどそのあと、甘みが戻ってきた。


 富士へ向かう湯気。

 祖母の赤い糸。

 父の「覚えていてください」という一行。

 朝の茶畑に立っている三人と、母の湯呑み。


 それらが、胸の中でやわらかくほどけた。


「どんな味だい」


 祖母が尋ねた。


 幹夫は富士を見た。


「手紙が風に乗る味」


 祖母は目を細めた。


「いい味だね」


 父は湯呑みを見つめたまま、ぽつりと言った。


「少し、母さんの好きだった味だ」


 幹夫は父を見た。


 父も富士を見ていた。


 その横顔には、涙はなかった。


 けれど幹夫には、父の中で何かが静かに震えているのが分かった。


 茶筒は、そのまま柿の木の下にしばらく置いた。


 風が何度も通った。


 新茶の香りは、茶筒から少しずつ外へ流れていく。手紙の紙にも、その香りがしみていくようだった。


 そのとき、富士山の頂のあたりに、細い雲がかかった。


 白い雲だった。


 まるで、山が一瞬だけ息を吐いたように見えた。


 幹夫は目を見開いた。


「返事?」


 小さくつぶやくと、祖母は静かに笑った。


「そう思うなら、そうだよ」


 父は何も言わなかった。


 けれど、雲をじっと見ていた。


 富士の雲はしばらく頂にかかり、やがて風にほどけていった。幹夫には、それが白い便箋の端が空へ溶けたように見えた。


 返事は、言葉ではなかった。


 でも、たしかに何かを受け取った気がした。


 その日の夕方、幹夫は学校の宿題を清書した。


 題は「富士山へ届ける新茶の手紙」。


 幹夫は、朝のことを書いた。手紙を書けなかったこと。父が一行だけ書いたこと。祖母が茶筒に新茶を入れてくれたこと。茶畑から湯気と風で富士へ届けたこと。富士の頂に白い雲がかかったこと。


 そして、こう書いた。


 ――手紙は、ポストに入れるものだけではありません。

 ――新茶の香りで書く手紙もあります。

 ――湯気で運ぶ手紙もあります。

 ――言えなかった言葉が、涙や風や茶の香りになって、遠いものへ届くことがあると思いました。


 手は少し震えていた。


 けれど、幹夫は震える字を消さなかった。


 ――富士山は、何も言いませんでした。

 ――でも、白い雲が頂にかかりました。

 ――それを返事だと思うかどうかは、人によって違うかもしれません。

 ――私は、返事だと思いました。

 ――母を覚えていてくれる山があると思うと、胸の中の手紙が少し軽くなりました。


 最後に、こう書いた。


 ――私はまだ、母を思い出すと胸が痛くなります。

 ――でも、その痛みの中には、母がいたことの光もあります。

 ――新茶の若葉が冬を越えて香りになるように、私の悲しみもいつか、誰かを少し温める言葉になればいいです。

 ――そのときも、富士山には見ていてほしいです。


 書き終えると、幹夫は窓を開けた。


 夜の茶畑から、新茶の香りが流れ込んできた。


 富士山は暗くて見えなかった。雲が出ているのかもしれない。けれど幹夫には、そこにあることが分かった。


 見えないけれど、ある。


 母の声も。

 父の胸の手紙も。

 祖母の祈りも。

 富士山へ届けた新茶の手紙も。


 机の上には、朝の茶筒があった。


 中の手紙は、まだそこにある。


 けれど幹夫は、もう届いていないとは思わなかった。


 紙はここにあっても、香りは風へ出ていった。湯気は空へ上った。幹夫の言葉は、幹夫の胸の中で少しだけほどけた。


 届くとは、きっとそういうことなのだ。


 幹夫は茶筒にそっと手を置き、小さく言った。


「富士山、また書くね」


 返事はなかった。


 けれど窓の外で、茶の葉がさわさわと揺れた。


 それは、遠い山から戻ってきた、新茶の香りのする返事のようだった。


 
 
 

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