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少年が世界に触れるまで

世界は、触れようとしなくても触れてくる。朝の光はまぶたの裏まで入り、風は皮膚の隙間から入り、誰かの声は鼓膜の薄い膜を叩く。なのに、幹夫(みきお)はずっと思っていた。——自分はまだ、世界に触れていない、と。

触れていない、というのは変だ。茶畑の露は指先を濡らすし、教室の机は肘を冷やすし、バスの揺れは胃の底を持ち上げる。それでも幹夫の「触れる」は、そういう触れ方じゃなかった。

もっと、別の触れ方。たとえば、誰かと目が合ったときに逃げないこと。言葉を飲み込まないこと。胸の奥の固まりを、固まりのまま抱えずに、外へ出してしまうこと。

それができないから、幹夫は「触れていない」と感じる。あなたにも、似た感じがあるかもしれない。世界は近いのに、自分だけが透明な膜の向こう側にいるような感じ。笑うタイミングも、返事の温度も、いつも少し遅れてしまう感じ。

牧之原の朝は、匂いが先に起きる。茶の葉の青い匂い、土の湿り気、露の冷たさ。空気がまだ白いのに、それだけが鮮やかで、幹夫はその鮮やかさが少し怖い。鮮やかだと、自分の中の鈍さが目立つ気がするからだ。

父は畝の向こうで手を動かしている。言葉は少ない。少ないのに、手つきだけは迷いがない。迷いがない手つきは、ときどき幹夫の胸をざわつかせる。迷いがないということは、決めているということだからだ。決めることは、怖い。

「幹夫」

父が呼ぶ。幹夫は籠を持って近づく。父は受け取って、礼も言わずにまた摘む。いつものことだ。いつものことなのに、幹夫は今日だけ、少し違って聞こえた。

父が自分を呼ぶ声が、世界と繋がっている音に聞こえた。自分の名前が、ただの記号じゃなく、実際の人間を指す音に。

幹夫は、露で濡れた葉に指を差し入れた。冷たい。冷たいのに、嫌じゃない。冷たさは、嘘がない。嘘がないものに触れると、自分の中の嘘が痛くなる。

——平気なふり。——分かってるふり。——もう大丈夫なふり。

幹夫は、葉を摘む指に少しだけ力を入れた。力を入れすぎると葉が傷む。分かっている。分かっているのに、今日は少しだけ傷めてもいい気がした。傷がつくくらいのほうが、「触れた」と言える気がした。

昼過ぎ、幹夫は静岡市へ出た。用事があったわけじゃない。ただ、家の匂いが濃い日に、外の匂いを吸いたくなる。街の匂いは軽い。排気ガスとアスファルトと、人の汗と、どこかの店の揚げ物の匂い。混ざっていて、何がどれだか分からない。分からないほうが楽だ。分からないなら、考えなくていい。

静岡、午後四時。影が長くなる時間。

アーケードの端から斜めの光が入り込み、床に線を引く。人がその線をまたぐたび、影が伸びて、縮んで、また伸びる。幹夫は、その影の動きを見ていた。動く影は、世界が生きている証拠みたいだった。生きている世界の中に、自分も混ざれたらいいのに、と素直に思う。思った瞬間、胸が苦しくなる。

混ざりたい。でも混ざるのが怖い。混ざったら、形が崩れる気がする。崩れたら、もう戻れない気がする。

そんなふうに立ち止まっていると、潮の匂いが風に混じってきた。海は見えないのに、塩は届く。見えないものが届くことが、今日は少し救いに感じた。見えないなら、全部は背負わなくていい。匂いくらいの距離で、世界と繋がれる。

幹夫は、バスに乗って安倍川へ向かった。橋の上は風が強い。手すりに触れると金属が熱を持っていて、掌に「現実」が貼りつく。幹夫はその熱を握り、川を見下ろした。

安倍川は広く、河原は白い。白い石が光を返し続けて、目が痛い。目が痛いから細める。細めると、輪郭が少しだけ優しくなる。世界の角が取れる。角が取れると、胸の固まりも少しだけ柔らかくなる。

河原では小さな子どもたちが遊んでいた。水際で、ボールを転がし、笑い、走る。世界に触れるのが上手な身体。笑い方が迷わない身体。幹夫はその光景を、少し遠くから見ていた。

見ているだけで、胸がざわざわする。羨ましいのか、眩しいのか、分からない。分からないことが増えるほど、幹夫は黙る癖がある。黙ると安全だ。黙ると傷つかない。でも黙ると、世界が遠くなる。

そのとき、ボールが水へ転がり落ちた。子どもが「あっ」と声を上げ、足を止める。水は浅いが流れが速い。ボールはくるくる回りながら流されていく。

大人は近くにいなかった。子どもは困った顔のまま立ち尽くし、誰かを探すように周りを見回した。その視線が、幹夫に当たった。

幹夫は一瞬、動けなかった。目が合っただけで、心臓が跳ねる。「助けて」と言われているわけじゃないのに、言われた気がする。あなたも、そういう瞬間を知っているかもしれない。誰かが困っているのに、動く理由を探してしまう感じ。動いたら、何かが変わる気がして怖い感じ。

でも、ボールは流れていく。流れるものを見ていると、幹夫はいつも思う。止められないものはある。なら、せめて手を伸ばすしかない、と。

幹夫は靴を脱ぎ、石の上に置いた。裸足で河原に降りると、石が熱い。熱さが足裏に刺さる。水へ一歩入ると、今度は冷たい。熱い、冷たい、熱い、冷たい。身体が忙しくて、頭の怖さが一瞬だけ薄れる。

幹夫は流れに沿って歩き、ボールが引っかかりそうな石の前で腰を落とした。水がふくらはぎを撫で、筋肉が勝手に力を入れる。指先を伸ばすと、ボールは逃げるみたいに揺れた。幹夫はもう一歩踏み込み、指でつかんだ。

ゴムの感触。濡れた表面の、少しぬるい質感。「物」をつかんだはずなのに、幹夫はなぜだか「世界」をつかんだ気がした。それは大げさな言い方だけど、胸の奥の固まりが一瞬だけほどけたのは確かだった。

幹夫は岸へ戻り、子どもにボールを渡した。子どもは両手で受け取り、息を吸ってから言った。

「ありがとう!」

真っ直ぐな声だった。沈まずに飛んでくる声。その声が幹夫の胸の奥に当たって、そこに小さな穴を開けた。穴が開けば空気が入る。空気が入れば、固まりは溶ける。

幹夫は、少し遅れて口を開いた。

「……気をつけて」

たったそれだけ。でも自分の声が、河原の白い光の中にちゃんと落ちた。沈まなかった。消えなかった。子どもは「うん!」と頷いて走り去った。走り去る背中が、さっきより遠く感じない。

幹夫は濡れた足を見下ろした。水滴が太陽を拾って光り、すぐに落ちる。落ちても、またつく。その繰り返しが、少しだけ優しい。

——触れた。——いま、たしかに触れた。

そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。痛みは、怖さと似ている。でも怖さだけじゃない。痛みは、ときどき「生きている」の証拠になる。

夕方、幹夫は橋の上でスマホを取り出した。母の名前が画面にある。これまで何度も押せなかった名前。押したら何かが変わる気がして、怖かった名前。

でも、さっきボールをつかんだ指先は知っている。手を伸ばしたら、世界はちゃんと触れ返してくることがある。怖いままでも、できることがある。

幹夫は短い文を打った。

「元気? 今度、茶持って行っていい?」

送信ボタンを押す指が震えた。震えたのに、押せた。押せたことが、今日いちばんの「触れた」かもしれないと思った。

返信はすぐには来なかった。来ない時間が、胸の奥をざわつかせる。でも幹夫は、逃げずに画面を見つめた。待つ、というのも触れ方だ。逃げない、というのも触れ方だ。

スマホが震えた。

「うん。嬉しい。いつがいい?」

文字は短い。短いのに、胸の奥が熱くなる。熱さは怖い。嬉しい熱さは、失う怖さを連れてくるからだ。でも幹夫は、その怖さを抱えたまま、返信を打った。

「今週末。父ちゃんも一緒に」

送信したあと、息が深く吸えた。吸えた息の中に、潮の匂いが少し混じっていた。山と海の間の匂い。どこにも属さない匂い。その匂いが、幹夫には今、ちょうどよかった。

家へ帰ると、台所から湯気の音がした。祖母が茶を淹れている音。湯が注がれる音。湯飲みが置かれる音。いつもの音が、今日は少し違って聞こえる。違って聞こえるのは、世界が変わったからじゃない。幹夫の内側が、ほんの少しだけ動いたからだ。

父は居間でテレビを見ていた。幹夫は一度だけ立ち止まって、喉の奥に言葉を探した。言葉はまだ上手じゃない。でも今日の幹夫には、言葉の“芯”みたいなものが少しだけ残っている。河原の水の冷たさ、ボールのゴムの感触、子どもの「ありがとう」、母の返信。それらが、言葉になる前の形で胸にある。

幹夫は言った。

「父ちゃん。今週末……母さんと会う。茶、持ってく」

父が顔を上げた。一瞬、何か言いかけて、飲み込む。その飲み込み方はいつもと同じで、でも今日は、飲み込まれた言葉の重さが少し違って見えた。父もまた、触れようとしている。触れ方が下手なだけだ。

父は短く言った。

「……分かった。俺も行く」

たったそれだけ。でも、その言葉は沈まなかった。

幹夫は小さく頷いた。頷くという行為が、世界に触れる指先みたいに感じられた。

少年が世界に触れるまで、世界はずっとそこにある。待ってくれるわけでも、急かすわけでもなく、ただある。

そして、触れる瞬間は劇的じゃない。河原の浅い水。濡れたボール。短い「ありがとう」。短い返信。短い「分かった」。短いものばかりなのに、短いものが胸の奥を少しずつ動かす。

あなたの中にも、まだ触れていない気がする場所があるなら。それは、触れられない場所じゃない。触れるのが怖い場所なだけかもしれない。

幹夫は今日、それを少しだけ知った。怖いまま、触れることができる。世界は、触れたぶんだけ、ほんの少し触れ返してくる。

その往復が、たぶん「生きる」ってことなのだと。

 
 
 

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