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山は黙っている——戦争が始まった日の、都市の輪郭

朝、ポケットの中で震えたのは、爆音ではなく通知音だった。たった数行の文字が、体温より冷たい速さで血の中へ入り込む。「始まった」と書かれている。世界のどこかで、誰かが今日から“前”と“後”を持つのだと。

顔を上げると、街はいつも通りに広がっていた。写真のとおり、遠景の山は薄い霞をまとい、稜線は鉛筆で描いた影のように淡い。雲は綿のかたまりみたいに膨らみ、青空の端をやさしく隠している。けれど、そのやさしさが、今日は少し怖い。雲が白いほど、空が穏やかなほど、通知の文字が浮いて見える。

足元には、白い屋根が眩しく伸びている。金属の骨組みが規則正しく走り、光を跳ね返して、目を細めさせる。屋根の向こうには緑の帯——木々が密に重なり、街の喉元に巻かれた湿ったマフラーみたいに、熱と埃をいったん受け止めている。そのさらに先に、低い家並みと高いビル群が段階を踏んで立ち上がり、都市が呼吸するリズムをつくっている。

遠くの高層建築は、まるで人間の決意のように垂直だ。けれど、山はそれを見下ろして、淡々としている。山の存在は、都市の野心を励ますでもなく、戒めるでもなく、ただ“時間の尺度が違う”と言っているように見える。人間が怒りで火をつけ、恐れで壁を作り、名誉で旗を振る。その全部を、山は何度も見てきたのだろう。

街の音が、少し遅れて届く。遠いクラクションが乾いたリズムを刻み、どこかでエンジンが唸り、風が葉を揺らす。音の一つ一つは日常の粒なのに、今日はその粒がやけに硬い。日常が、脆いガラスの上に載っていることを、身体が覚えてしまったからだ。

それでも、街は生きている。緑の帯は手入れをされ、窓の洗われた建物が朝の光を受ける。人は今日も仕事へ向かい、昼にはどこかでパンが割られ、湯気が立つ。戦争は地図の上で始まるのかもしれないが、生活はまず胃袋と喉から始まる。今日も腹が鳴る。そのことに、なぜだろう、泣きそうになる。生きることが、こんなにも当たり前で、こんなにも尊い。

霞が山の斜面をなぞる。その霞は煙ではない。けれど、人は今日から、煙を連想してしまう。平和な雲さえ、どこか不穏に見える。心が世界を色づけるのだとしたら、戦争はまず“視界”に侵入するのだろう。景色を変えずに、景色の意味だけを変える。

私は窓辺で、しばらく動けずにいる。祈る、と言うのは簡単だ。けれど、祈りは本来、言葉よりも身体に近い。胸の奥が熱くなり、喉が詰まり、呼吸が浅くなる。その不格好な反応のまま、ただ手を握りしめる。自分にできることの小ささが、骨に触れるほどはっきりする。

だからこそ、目を逸らさない。白い屋根の光、緑の帯、ビルの直線、山の陰影、雲の厚み——この街の“いま”を、できるだけ細部まで覚えておこうと思う。戦争は人の記憶を奪う。恐怖は景色を単色にする。けれど私は、今日の空の白さを、山の灰色のグラデーションを、緑の深さを、奪われたくない。

平和とは、遠い理念ではなく、こういうものなのかもしれない。窓から眺められる景色が、ただ景色として存在できること。雲が雲のままでいられること。霞が煙と呼ばれずに済むこと。クラクションが怒号に変わらないこと。屋根が避難所の標識にならないこと。

戦争が始まった今日。それでも山は黙っている。街は息をしている。私はその間に立って、ただ祈る。この景色が、明日も“景色のまま”でありますように。誰かの今日が、これ以上“前”と“後”に裂かれませんように。

 
 
 

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