川の色を疑う
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 5分

安倍川の河原は、どこまでも白い石で埋まってゐる。昼の光に晒されると、その石は砂糖菓子のやうに乾いて見え、夕方になると忽ち灰の堆積へ変はる。変はるのは石ではない。変はるのは光である――と、幹夫は頭で知ってゐた。知ってゐた癖に、彼は毎日その河原へ来た。
幹夫は役所の書類を綴ぢる仕事をしてゐる。紙の上では、墨の黒だけが確かである。黒は常に黒で、昨日の黒と今日の黒の差を、誰も問題にしない。ところが安倍川の水となると、話が違った。
その日も彼は、丸子橋の下手へ降り、川面を見た。水は浅く、底の小石が透けて見える。幹夫は、その透け方を「色」と呼ばねばならぬやうな気がした。だが、その色が何色であるか、口に出すことが出来ない。
青か。緑か。あるいは、ただの透明か。
彼は昨日も同じ場所に立ち、同じ川を見てゐるはずである。昨日の水は、たしか翡翠のやうに冷たく、空の青を含んでゐた――いや、待て。翡翠といふ言葉は、昨日の印象にふさはしいから今こそ貼りつけた札ではないか。昨日の川面が翡翠であった証拠など、どこにもない。
幹夫は、最初その疑ひを些細なものとして笑ひ飛ばさうとした。睡眠不足か、神経が疲れてゐるのだらう。色の感じなど、天気や気分で変はる。誰でも知ってゐる。だが、彼の胸の底には、笑ひ飛ばしきれぬ鈍い棘が残った。
――昨日と同じだ、と言ひ切れない。
たったそれだけのことが、彼を昼の机よりも強く縛りつけるのだった。
彼は翌日から、少し滑稽な実験を始めた。文房具店で買った色票を鞄へ入れ、河原で川面に翳してみる。群青、浅葱、若竹、鼠――どれも違ふ。川はそれらの色の間を漂ひ、票の端を嘲るやうにすり抜ける。彼は、水に手を浸して掬ひ上げ、掌の上の薄い膜を見た。掌の上では水は「無色」だ。しかし、掌を下ろして川を見れば、そこにはたしかに「何かの色」がある。
幹夫は自分の眼を疑ひはじめた。
眼が悪いなら、検眼表の「C」の切れ目がぼやけるはずだ。だが、眼科で見せられた「C」は、昨日と同じく、ひどく明瞭に見えた。医者は眼鏡を押し上げながら、花粉症かもしれないとか、疲れ目だとか、いかにも無難な言葉を並べた。幹夫は礼を言って診察室を出たが、無難な言葉の背後にある空洞を感じた。
その夜、彼は机に肘をついて思った。
もし眼が信用できないなら、紙の黒も信用できないのではないか。黒が黒に見えるのは、単に彼が「黒」と呼ぶ習慣に従ってゐるだけではないか。黒と白の区別さへ、実は記憶の癖に過ぎぬのではないか。
彼はふと、学生の頃に読んだ哲学書の一節を思ひ出した。確かなものを求めるほど、確かなものが減ってゆく――そんなやうな筋の話だった。幹夫の思考は、机の角を辿るやうに、ついには妙な結論へ達した。
世界は、本当に存在してゐるのか。
存在してゐるといふのは、誰が保証するのか。自分の眼か。自分の耳か。だが、その自分が既に怪しい。怪しいものが怪しいものを保証する――それは役所の書類で見飽きた循環である。印鑑が印鑑を証明し、署名が署名を支へる。そこに人間の心が入り込むと、誰も気づかぬうちに、全体が紙のやうに軽くなる。
翌朝、彼はまた河原へ来た。霧が出てゐた。川は白い息の中で、昨日よりも淡く、淡く、ほとんど消えかけて見えた。幹夫は霧の向うにある山の輪郭を眺め、己の胸の鼓動を聞いた。鼓動は確かに聞こえる。だが、その「確か」はどこにある。
彼は石を拾ひ、掌で転がした。冷たさと、ざらつきと、硬さ。確かにそこにある。だが、冷たいと感じるのは皮膚の神経であり、神経は脳へ報告するだけで、石そのものを持って来るわけではない。ざらつきも硬さも、結局は報告の文言に過ぎぬ。脳は「ざらざら」といふ擬音を勝手に添へて、世界の体裁を整へてゐるのではないか。
幹夫は一瞬、恐ろしくなった。もし世界が体裁に過ぎぬなら、霧が晴れたあとに現れる川も、山も、橋も、すべて彼の内側の帳簿に書き込まれた数字に過ぎぬ。数字が狂へば、世界は狂ふ。世界が狂ふのではない。帳簿が狂ふのだ。
霧が少しずつ薄れ、川面が陽にきらめきはじめた。きらめきは美しい。美しいと感じる自分が、いやに頼りない。
幹夫は膝を折り、河原に座った。白い石の上は硬く、背筋が自然に伸びた。彼は息を吐き、胸の中で何度も、色の名を並べた。藍、碧、緑、灰、透明。どれも当てはまらず、どれも当てはまる。名づければ名づけるほど、川は名から遠ざかった。
そのとき彼は、やうやく分かったやうな気がした。分かったのは、川の色ではない。疑ひの本体である。
川が昨日と同じかどうか――それを決めるのは川ではなく、彼の見る「仕組み」だった。仕組みは昨日と同じではない。昨日の彼と今日の彼は、既に同じではない。ならば昨日と同じ川を見ようとするのが、そもそも無理なのだ。川を疑ってゐるつもりで、彼はずっと、自分の「見ること」を疑ってゐた。
幹夫は立ち上がり、濡れた石に足を取られぬやうにゆっくり歩いた。水の音が追ひかけてくる。空は青い。石は白い。世界は、いつも通り、何事もないやうに続いてゐる。
だが、その「いつも通り」が、彼には怖かった。何事もないやうに続くことほど、不気味なものはない。紙の上の黒が確かであるのは、黒が確かだからではない。人間がそれを確かだと思ひ込むために、あらゆる手続きを用意してゐるからだ。川には手続きがない。川はただ流れ、ただ光を受け、ただ揺れる。それを「昨日と同じ」と言ひ切るのは、手続きのない場所へ印鑑を押すやうなものだ。
幹夫は橋の上に出て、最後にもう一度、水面を見下ろした。そこには、彼の顔がぼんやり映ってゐた。映った顔は、彼の知ってゐる幹夫に似てゐる。しかし似てゐるだけで、同じではない。彼は、そのぼんやりした像に向かって、ほとんど独り言のやうに呟いた。
「川が変わったのではない。私の目が、信用できなくなったのだ。」





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