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川は透かしを入れる


 

 興津川の浅瀬は、朝のうちは杯(さかずき)を伏せたみたいに静かで、石の背中に薄い緑の光が走っていました。一本の葦の先に、青い金属の針のようなハグロトンボが止まり、翅のすじをゆっくり合わせたり開いたりしています。

 幹夫は川原にしゃがみ、いつもの地図帳をひらきました。

 一—風の地図。二—森の水の字。三—海の拍子。四—砂のアルバム。五—光の地図。六—黄昏の綴じ糸。七—梅の暦。八—潮の宛名。九—トンボの座標。十—たんぽぽの風の切手。

 そして、まだ白い十一ページ目に題を書きます。〈川—透かし〉。


 葦の先のハグロトンボが、翅の付け根を一度だけカチンと鳴らしました。

「やあ、幹夫くん。宛名も切手もそろったなら、透かしがいるよ」

「透かし?」

「うん。紙の中の薄い印。川を渡る手紙がほんものだとわかるように、光と水で入れる。ぼくはその検印係」


「どうやって入れるの?」

「順番は四つ。

 一つ、瀬(せ)をえらぶ。流れが平たく、石の影が細いところ。

 二つ、拍子を聞く。きょうの興津川は四、タン・タン・タン・タン。

 三つ、座標を立てる。原点はあの倒木の節、東の標は向こう岸の白い石、季節の標は葦の穂。

 四つ、原点に君の名前の影を一度だけ通す。——それで水が透かしを織りはじめる」


 幹夫はうなずき、倒木の節にそっと影を合わせました。

 ——カン。

 胸の奥で鐘が小さく鳴り、浅瀬の表紙に細い輪がいくつも重なります。輪は石の背を撫で、光の糸で薄い模様を編みだしました。


「見えるかい?」

 トンボの翅がわずかに震え、空の座標が水面に写ります。格子は透明で、しかし確かで、石と影のあいだに白い網の目が生まれていました。

「これが川の透かし。風の切手や潮の宛名に重ねると、どの浜でも読める。たとえば——」

 トンボは空で小さな弧を描き、格子の一点を指しました。

「ここが配達済みの印。泡の点線と重なる」


 幹夫は十一ページ目の余白に、見たままを書きとめます。

〈瀬=平/影=細〉〈拍子=四〉〈原点=節〉〈標=白石/葦穂〉

〈透かし=光と水の格子。切手・宛名と重ねて真正を示す〉


 そのとき、上流からひと筋、冷たい風が降りてきました。拍子がタン・タタンと五に寄り、水の輪が少し斜めに傾きます。

「透かしは生きているから、ずれも書き残す」とトンボ。

「ずれ?」

「うん。未来の半分が先に揺れる。ほら、向こう岸の白い石、影が短くなる予告をしている」

 数呼吸ののち、雲が一枚ずれて、ほんとうに影が縮みました。

 幹夫は〈予告=黙(休符)〉と記し、小さな四角に斜線をひきます。


 足もとでは、川の小石が三拍子で転がり、岸の草いきれに梅の瓶で覚えた甘い匂いがまじりました。幹夫はポケットから切手台帳を出して、十ページの欄に〈宛先:広野/駅前/堀〉と書き添え、十一ページの端に矢印で結びます。

「透かしを通した手紙は、帰り道を忘れない」とトンボが言いました。「夜の読者——月や堀の鯉——にも読めるから」


 昼が高くなると、瀬は一段明るくなり、格子はさらに薄く深く編まれました。ハグロトンボは葦の先に戻り、翅を畳みながら言います。

「仕上げに余白を残しておく。水はそこへ、言い足りなかった音をしまうからね」

 幹夫はページの下に白い空地を残し、まとめを一本置きました。

〈川の透かし=光と水の検印。原点に名影、二拍で確かめ、ずれを注す〉


 帰り道、清水の港はゆっくり首を振るクレーンを止め、安倍川は三拍子で石を撫で、駅北口の三角地ではひまわりが正午の鐘を胸の奥でひとつ鳴らしました。

 家に着くと、駿河の風が窓から入ってきて、十一ページ目の格子をいちどだけふくらませます。

——風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、光は時刻、黄昏は綴じ糸、梅は暦、潮は宛名、トンボは座標、たんぽぽは切手。

 そして川は、手紙に透かしを入れる製本の水。

 ぼくは、その透かしを読み、余白を残す、渡し場の記録係だ。

 
 
 

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