巴川のくらげ燈
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 7分

幹夫青年は、夜の静岡を、用もないのに歩いてゐました。
昼の町は、看板やガラスや電車の音で、いかにも「こちらへ来い、こちらへ来い」と呼ぶのですが、夜の町は、ただじつと黙つてゐて、却つて胸の中のものがはつきり聞こえてしまふのです。
――ぼくの胸の底で、いま、何が「こつこつ」と鳴つてゐるのだらう。
幹夫は、青葉の方角を抜けて、巴川(ともえがわ)の堤へ出ました。
川の匂ひがしました。泥の匂ひと、藻の匂ひと、それからどこかに塩の針のやうな匂ひが混じつてゐます。巴川は海へ近いから、夜の潮が上がると、川の水はすこしだけ海の気分になるのです。
堤の下へ降りると、水面は黒い硝子のやうにひろがり、街灯の光が細く折れて、
「ゆらり、ゆらり」
と揺れてゐました。
幹夫は石の縁に腰をおろし、しばらく、その光の折れ方を見てゐました。折れる光は、どこか胸の中の考へに似てゐます。考へもまた、まつすぐではなく、波ひとつで折れ、風ひとつで切れてしまふのです。
そのとき、水面のずつと手前で、ふうつと淡い明りが点きました。
「……あれ?」
明りは一つではありません。
ぽつ、ぽつ、ぽつ、と、黒い水の上に、淡い乳色の点が生まれて、ゆつくり動きはじめました。点は、まるで小さな提灯(ちやうちん)を腹に抱いたくらげのやうに、ぷかりぷかりと浮いてゐるのです。
幹夫は思はず身を乗り出しました。
くらげ燈(あかり)たちは、水面に近づくほどよく見えました。
透明な傘のやうなものが、呼吸するやうに、
「とろり……とろり……」
とひらいたり閉ぢたりします。そのたび、腹の明りがふつと強くなり、ふつと弱くなりました。
そしてその明りの輪の中で、ちいさな泡が一つずつ生まれて、上へ上へと上がつて行きました。
泡は、
「ぷつ、ぷつ、ぷつ」
と小さな句読点(くとうてん)の音を立てました。
幹夫はなぜだか、その泡が「ことば」みたいに見えて、胸がすこしあたたかくなりました。
すると、くらげ燈の一つが、幹夫のすぐ前まで来て、そこでぴたりと止まりました。
そのくらげ燈は、ほかのより少し大きく、腹の光が淡い金いろでした。
くらげ燈は、まるで水の中で鈴を鳴らすやうな声で言ひました。
――ミキオ青年。
――コンヤ、ヨルノ水ノ学校。
――オマエ、席(せき)アリ。
幹夫はびつくりして、あたりを見回しました。
もちろん人はゐません。堤の上を車が一台通り過ぎる音がして、遠くの信号が赤く光つてゐるだけです。
けれども水の上には、くらげ燈が次々に集まつて来て、半円をつくり、まるで教室の机を並べるやうに整列しました。
――サザナミ一組。
――アワ二組。
――ミズクサ三組。
さらさら、と水の面がささやいて、暗い川の上に、見えない黒板が一枚すうつと現れたやうに思へました。
幹夫は、どうしても断れませんでした。
それは命令といふより、宿題を渡されるときの、あのひそやかな確かさだつたからです。
幹夫は靴をぬぎ、そつと石の縁へ足をおろしました。
水は冷たいはずなのに、そのときだけ、足の裏へ柔らかい板が当たつたやうに感じました。
くらげ燈が、ふうつと光を寄せて、水面に小さな「席」を作つてゐたのです。
幹夫がそこへ坐ると、くらげ燈たちは一斉に、
「とろり……とろり……」
と傘を動かして、授業のはじまりの挨拶をしました。
先生は、いちばん大きな、金いろのくらげ燈でした。
先生は、腹の明りを少し強くして言ひました。
――ヨルノ水ハ、文字ヲ書ク。
――カゼ少ナイ。
――オン(音)ハ澄ム。
――ヒカリ、折レル。
――ソレ、全部、文法。
幹夫は、胸の中で「文法?」と思ひました。
すると先生は、ふつと傘を閉ぢ、またひらきました。
すると水面に、小さな輪がひろがつて、輪は二つになり、三つになり、やがて一列に並びました。
輪は、
「すう……すう……」
と息をして、まるで文章の行間(ぎやうかん)みたいにきちんと揃つたのです。
先生は言ひました。
――コレ、流(ながれ)ノ式。
――速サ(はやさ)ト、幅(はば)ト、深サ(ふかさ)。
――ドレカ変ハルト、ドレカ変ハル。
――ソレデモ、ミズハ、海ヘ行ク。
幹夫は思はず、遠い港の方角を見ました。
見えません。けれども確かに、巴川の水は、その闇の向うへ流れてゐるのです。
すると、後ろの席の「あわの子」が、ちいさく手を挙げました。
あわの子は、ほんたうは泡なのですが、泡の中に小さな眼が二つ見えるのです。
――センセイ。
――海ヘ行ク途中、アワハ消エマス。
――消エルノハ、ワルイコトデスカ。
先生は少し黙つて、それから腹の光をあたたかくしました。
――消エルノハ、ワルイコトデハナイ。
――ダガ、消エル前ニ、次ノ泡ヲ押シ上ゲル。
――押シ上ゲタ泡ガ、次ノ文ノ句読点。
幹夫の胸が、きゅうとしました。
押し上げる――。
胸の中の重たい石が、すこしだけ「道具箱」の重さに変はるときと同じ感じがしました。
そのとき、教室の端のくらげ燈が、ふいに光を弱めました。
弱めたのではありません。光がくもつて、胸の灯が曇り硝子のやうになつたのです。
くらげ燈は、かすれた声で言ひました。
――アシ……。
――ワタシ、アシ、カラマル。
見ると、くらげ燈の細い触手に、透明な糸が絡まつてゐました。
釣り糸か、ビニルの切れ端です。水の中でそれがきらりと光り、くらげ燈の触手を締めつけてゐるのです。
先生は言ひました。
――ミキオ青年。
――今夜ノ宿題。
――コノ灯(ひ)ヲ、自由ニスル。
――自由ニシテ、流レニ返ス。
幹夫は膝をつきました。
水は冷たく、指先がすぐ痺(しび)れて来ます。
けれども糸は、塩と泥でぬるぬるして、なかなかほどけません。
幹夫は息を止めて、そつと、そつと、糸をたぐりました。
爪の端が痛み、皮膚が冷えて、「いまやめろ」と胸の中の声が言ひかけました。
けれども幹夫は、その声を押し込めませんでした。押し込めると、声は石になります。石は沈む。沈むと灯が届かない。
幹夫は、ただ胸の中で、ちひさく言ひました。
――いま、ほどく。
――それだけ。
すると不思議なことに、糸の結び目が少しだけゆるみました。
水が手伝つたのか、風が手伝つたのか、あるいは幹夫の指の熱が、結び目の塩をほどいたのか。
糸がはずれると、くらげ燈は一度だけ大きく傘をひらき、
「とろりっ」
と鳴りました。
腹の灯がぱつと澄んで、淡い光が水面へ広がりました。
くらげ燈は、幹夫の指先の近くで、ふうつと小さな泡を出しました。
泡は、
「ぷつ」
と鳴つて、まるで「ありがとう」の句点みたいに、水の上へ上がつて行きました。
先生が言ひました。
――ヨシ。
――今夜ノ水ノ学校、修了(しうれう)。
――ミキオ青年、オマエ、灯ヲ持ツテヰル。
――灯ハ、空カラ来ルコトモアル。
――ダガ、多クハ、手カラ来ル。
くらげ燈たちは一斉に、腹の明りを小さく振るへさせました。
それは拍手ではありません。水の拍手は音ではなく、光の震へで行はれるのです。
そして教室は、ゆつくり解けはじめました。
くらげ燈たちは、ぷかり、ぷかり、と流れに乗り、闇の向う――海の方角――へ、淡い列になつて進みました。
幹夫は石の縁に立ち、靴を履きました。
指先は冷たい。
けれども胸の中は、さつきより少しだけ澄んでゐました。澄んだといふより、胸の底の井戸に、小さな泡が上がつたやうに思へたのです。
幹夫は堤を上がりながら、ふと掌を見ました。
掌は暗いままです。
けれどもその暗い掌の中心に、さつきほどいた糸の感触が、淡い燈のやうに残つてゐました。
巴川の水面は、もう遠くて黒く、くらげ燈も見えません。
それでも幹夫には、あの「夜の水の学校」の黒板が、まだ胸のどこかに立つてゐるやうに思へました。
――水は海へ行く。
――泡は消える。
――けれども消える前に、次の泡を押し上げる。
――それが文法。
幹夫青年は、夜の静岡の道を、ゆつくり帰りはじめました。
街灯の円い光が、ひとつ、またひとつ、舗道に落ちてゐます。
幹夫の影はその円の中で短くなり、円と円の間で長くなりました。
そして幹夫は、小さく言ひました。
「……あしたも、ちかいところで、ほどいてみよう」
風が「すう」と通り、遠い川が「ゆらり」と答へました。
それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいと幹夫は思ひました。
光は遠くから来る。
けれども使ふのは、いつも、ここなのです。




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