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幹夫少年と鯉のぼり

──昭和二十二年・蒲原にて──

戦後の蒲原という町は、いささか時代に取り残されたような風情があった。

町の名は、古くは東海道五十三次にもその名を連ねる宿場町である。家々はまだ木造の瓦葺きで、軒の低い通りが海岸までなだらかに続いていた。山も海も近く、風土としては豊饒に属する。田畑も、漁場もあった。

昭和二十二年の春――つまり、終戦の二年後――この町の一隅に、幹夫という少年がいた。

幹夫は、どちらかというと物静かな子であった。走れば速く、竹馬に乗ればどこまでも行く。だが友達の輪に飛び込んでいくよりは、家の縁側で本を読んでいる時間を好んだ。

本は、戦後の混乱で紙が貴重だったせいか、たいして新しいものではなかった。父がかつて学校から借りてきた漢文の素読本、あるいは教科書の国語副読本などを繰り返し読んでいた。

少年の父は、もういなかった。昭和十九年の末に召集され、フィリピン戦線で戦死の報が届いたのは、ちょうど敗戦の夏が終わる頃であった。

それでも家の空気は穏やかであった。戦争未亡人となった母は、祖母と共に畑を耕し、近所の子供たちの着物を繕っては少しの米と野菜を得ていた。貧しいながらも、きちんとした暮らしぶりであった。

さて、その年の端午の節句が近づいたときである。

蒲原の町には、男の子のいる家の庭先に鯉のぼりが上がった。黒い真鯉と、赤い緋鯉。どちらも戦前に比べればやや色も褪せ、布も薄くなっていたが、それでも春風に乗って泳ぐ様は、町の空を一種の“希望”のように染めた。

幹夫の家にも、竹竿があった。

竹は祖母が山の知人から譲り受けてきたもので、先端に小さな金具を取り付けると、去年まで物干し竿にしていた鯉のぼりをくくりつけた。

幹夫は、その作業を手伝った。

口数は少ない子であるが、こういうときの手は、実によく動いた。母が言うまでもなく、金具を締め、竿を支え、風向きを確かめる。

その夜、縁側で祖母が言った。

「幹夫、鯉はな、滝をのぼって龍になるもんじゃ」

幹夫はうなずいた。けれど、彼がその言葉を理解したのは、後年になってからのことであろう。

蒲原の五月は、よく風が吹いた。海から吹く風は、午前中は穏やかだが、午後になると勢いを増す。鯉のぼりもまた、午後になると真鯉が大きく口を開け、天を喰らうように泳ぎ出した。

そのとき、幹夫はふと思った。

この真鯉は、自分の父の姿に似ているのではないか――と。

もちろん、父の顔を幹夫はよく覚えてはいなかった。出征の朝、門先で手を振った記憶がかすかにある。しかし、その背中と、いくばくかの軍服の匂いだけが、彼の心に残っていた。

だからこそ、鯉のぼりが翻るたび、「父が帰ってきたような気がする」と思ったのであろう。

とはいえ、幹夫はその感情を声に出すことはなかった。

子供というものは、時として大人以上に“場の空気”を読む。ましてや、戦争で家族を失った母親の前で、「父が帰ってきた」などとは、よう言えなかった。

その代わりに、幹夫は黙って本を読む。そして、ときどき空を見上げる。

泳ぐ鯉の先に、何があるのか――それは、彼にとっての“未来”であり、また“過去”でもあった。

その年の五月五日。近所の子供たちは柏餅を持ち寄り、神社の境内で鬼ごっこをしていた。

幹夫も混じっていた。それは彼としては珍しいことであったが、緋鯉が空に泳いでいる日だけは、彼の心も少しだけ開くようであった。

その日の夕方、幹夫は庭に立ち、風に揺れる鯉のぼりをじっと見つめていた。

風がやんだ。

すると、真鯉が少しずつしぼみはじめた。その姿は、なんとなく“疲れた大人”のようでもあり、戦争を生きて帰れなかった無言の兵士のようでもあった。

幹夫は、何も言わず、その姿に一礼した。

それは、誰に教わったわけでもない所作であった。

ただ、彼の中に、自然と“そうすべきだ”という気持ちが湧いてきたのである。

人間というものは、時代に育てられる。

そして、時代が荒れていればいるほど、少年たちは静かに、ゆっくりと、深く育っていく。

幹夫がその後、どのような人生を歩んだかは知らない。

ただ、その年の五月に、蒲原の空に泳いでいた鯉のぼりのことを、彼が忘れることは、なかったであろう。

 
 
 

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