影のはがき
- 山崎行政書士事務所
- 2月7日
- 読了時間: 8分

七月の蒲原は、昼になると光が少し意地悪になります。光はまっすぐで、逃げ場がなくて、畦道の石ころの裏まで熱くしてしまうのです。みかん畑の葉は、昼の白さに負けないように裏の粉をきらりと見せ、海のほうでは波が低く、白い泡が縫い針みたいに砂へ短い線を刺しては、すぐ引き抜いていきました。
幹夫は八つ。学校の帰り道、肩ひもがじりじりと焼けるようで、ランドセルを背負っているのか、日なたを背負っているのか分からない気がしました。踏切が――カン、カン、と鳴って、汽車がことことと峠の影へ吸いこまれていきます。窓の中の薄い灯りが一つ見えるたび、幹夫の胸の奥は、ひょい、と持ち上がって、すぐ、すとん、と落ちました。
――父さん、今、どこだろう。
思うだけで、胸の奥の空洞が、からん、と鳴る気がします。鳴るのに音は出ない。音の出ない鳴り方が、いちばん苦しいときがあります。
家に着くと、祖母は縁側で、干し網を縫い直していました。針が糸を引くたび、しゃり、しゃり、と小さな音がして、その音は日なたの中でも涼しい顔をしていました。
「幹、今日は暑いねえ。井戸の水を一桶、汲んでおくれ。燕の巣の下も、土が乾くと困る」
幹夫はうなずいて、井戸へ行きました。手押しポンプを引くと、鉄の喉が――ごぼ、ごぼ、と鳴って、冷たい水が生き物みたいに出てきます。水の冷たさが指に触れると、幹夫の胸の熱いところが一瞬だけ静かになりました。
そのとき、玄関の方で、ぱたぱた、と足音がして、こういちが顔を出しました。袖は今日も少しまくられて、手首が日に焼けはじめています。
「幹夫、外、すごい日だね」「うん……光が痛い」
幹夫がそう言うと、こういちは空を見上げて、目を細くしました。
「ぼくの前のとこではね、こういう日に“影送り”って遊びした」「かげ……おくり?」
こういちはうなずきました。うなずき方が、蛍を返した夜の「うん」に似ていました。大きくないのに、ちゃんと芯があるうなずき。
「白い壁に自分の影をぴたっとつけて、じっと見て、それから空を見ると……影が、空に残るんだよ。しばらく。ほんとに」
幹夫はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、こつん、と鳴りました。影が空に残る――それは、持って帰れないのに確かに残るもの。虹や蛍みたいに、通り過ぎても跡が残るもの。
「やってみたい」と幹夫は言ってしまいました。言いながら、すぐ心の中で別の声が囁きました。
――影が残るなら、父さんの影も呼べるだろうか。 ――俊の影も、もう一度、見えるだろうか。
見えると嬉しい。でも見えたら、消えるのがまた怖い。怖いのに、見たい。見たいのに、怖い。胸の中で二つの潮が引っ張り合って、幹夫の息が少し浅くなりました。
祖母に「すぐ戻る」と言って、幹夫とこういちは、家の裏手の白い土塀のところへ行きました。塀は昼の光をまともに受けて、まぶしくて、目がちくりとしました。土塀の白さは、紙の白さに似ています。紙は何でも受けとめるけれど、受けとめすぎると破れます。
「ここ、いい」とこういちが言いました。
二人は塀の前に立ち、背中に太陽を受けました。太陽は頭の上ではなく、少し斜めから、肩のあたりを押してきます。押されると、影がくっきり地面に落ちて、塀に貼りつきました。
影は黒いのに、輪郭は鋭く、幹夫はそれを見て、なぜだか少し恥ずかしくなりました。自分の形が、こんなにはっきり出てしまう。隠しているつもりの心まで、形になってしまいそうでした。
「動かないでね」とこういちが言いました。「じっと見て。まばたきも、できれば、ゆっくり」
幹夫は自分の影を見ました。頭の形、腕の形、ランドセルの四角。影の首のあたりが少し細く見えます。細いのが、いまの自分に似ていました。何かを支えたいのに、支える筋肉がまだ細い。
蝉がじじじじ、と鳴きました。鳴き声が熱い空気を引っ掻いて、そこにまた別の影を作るようでした。燕がちちち、と飛び、遠くで波がしゅう、と引きました。世界が音でいっぱいなのに、幹夫の目は影だけを見ていました。
だんだん影が“ただの黒”ではなくなってきました。黒の中に、昼の白さが混ざって、黒が少し青く見える瞬間がありました。青い黒――窓辺の青いガラスの星のような黒。
幹夫は、胸の中でそっと言いました。
――父さん。 ――俊。 ――ぼく、ここにいる。
声に出すと壊れそうな言葉を、影にだけ預けました。影なら、言葉を持ったまま、黙っていてくれる気がしたのです。
「いい?」とこういちが囁きました。「うん」
「じゃ、空」
二人は同時に、ぱっと空を見上げました。
空は白く、雲は薄い布のように広がっていました。太陽の近くは、目が痛くなるほど明るい。けれど、その白い空の中に、幹夫は確かに“黒いもの”を見ました。
さっきの影が、空に浮かんでいる。
黒い人の形が、薄く、でもちゃんと、空の上に残っていました。残り方は、紙の裏に透けた墨のようで、揺れて、ゆらゆらして、すぐ消えそうで、消えない。
幹夫の胸が、急に熱くなりました。
――本当に、残る。
残る、というのは、救いでした。けれど同時に、残るものを見たら、消える瞬間を見てしまう、ということでもありました。
影は、少しずつ薄くなりました。薄くなるのに、幹夫の目は追いかけてしまいます。追いかけるほど薄くなる。薄くなるほど、目の奥に焼きつく。
その薄さの向こうに、ふっと別の形が重なる気がしました。
目が細く笑う顔。 工場の匂いのする手。 冬の前の海みたいに深い沈黙。
父の影――のようなもの。
幹夫は、息を止めました。止めた息が胸の奥で固まって、痛みになりました。痛みは「消えるな」と言っています。けれど、影は言うことを聞きません。影は、空の都合で、風の都合で、光の都合で、ゆっくり消えていきました。
「……消える」と、幹夫が言いました。 声が震えたのが自分で分かりました。震えは怒りではなく、手放したくない気持ちの震えです。
こういちは空を見たまま、少しだけうなずきました。
「うん。でもね、消える前に……届くんだよ。目に。胸に」
届く、という言葉が、幹夫の胸に落ちました。落ちた場所は、空洞の縁でした。縁に落ちると、空洞は冷たい穴ではなく、何かが置ける棚になります。
影は、最後に一度だけ、ふっと濃く見えました。まるで、消える前に「ここだよ」と合図をするみたいに。合図をしたあと、影は白い空に溶けて、なくなりました。
なくなったのに、幹夫の目の裏には、まだ黒い形が残っていました。残っているのは影ではなく、見たという跡です。
幹夫は、急に泣きたくなりました。泣きたくなるのは悲しいからだけじゃありません。残った跡が、嬉しくて怖いからです。嬉しいと、怖いは、同じところに住むことがある。
「……こういち」と幹夫は言いました。「なに?」「今、父さんの影……見えた気がした」 言ってしまった瞬間、恥ずかしさが頬に広がりました。そんなの気のせいかもしれない。気のせいを信じた自分が、子どもみたいに見える。
こういちは、笑いませんでした。笑わないで、少しだけ目を細くしました。
「気のせいでもいいと思う」とこういちは言いました。「……え」「気のせいって、だめなことじゃないよ。胸がそう見たってことだもん。胸も、目みたいに見るんだね」
胸も目みたいに見る――その言い方は、祖母の言い方に似ていました。祖母はいつも、見えないものを、見えないまま大事にする方法を知っている。
幹夫の喉の奥が、じん、と熱くなりました。涙が出る前の熱。熱が上がってくるのに、涙はすぐには落ちませんでした。落ちない涙は、胸の中で何かを縫っているみたいでした。
家へ戻ると、祖母は縁側で、青いガラスの星の紐を直していました。星は風で、からり、と鳴りました。鳴った音が、さっき空に残った影の薄さに似ていました。見えないのに、確かに残る音。
「何をしてきたんだい」と祖母が言いました。「影……空に送った」と幹夫は言いました。
祖母は、少しだけ笑いました。笑いは大きくなくて、針穴に糸を通すときの目の細さみたいな笑いでした。
「影のはがきだね」と祖母が言いました。「……はがき?」「うん。郵便屋が運ぶ紙のはがきも、風が運ぶ影のはがきも、着くのは同じさ。相手の胸に」
幹夫はその言葉を聞いて、胸の奥がふっと軽くなるのを感じました。軽くなると同時に、空洞の底が少しだけ見えました。底はまだ冷たい。けれど底が見えるのは、穴が暗闇ではなくなった証拠でもあります。
窓辺には、いつものものが並んでいました。 青いガラスの星。 割れた貝の星座の箱。 空の蛍瓶。 虹の色が薄く混ざった海硝子。 それから、庭の細い竹に結んだ短冊。
幹夫はふっと思いました。
これらはみんな、“持つ”ものではなく、“置いておく”ものだ。 置いておくと、風が通る。 風が通ると、鳴ったり光ったりする。 鳴りや光りが、胸の中へ手紙を落とす。
夜になって、涼しい風が畦道を渡ると、短冊がさらり、と鳴りました。燕の羽音みたいに、軽いのに、遠くまで届く音。
幹夫は布団に入り、目を閉じました。今日、空に見た影は消えました。消えたのに、胸の中には、消えない“届いた感じ”が残っています。届いた感じは、切符みたいに薄いのに、確かにある。
――父さん、今夜、どこかで息をしてる。 ――俊も、どこかで空を見てるかもしれない。 ――ぼくの影は、届いたかもしれないし、届かないかもしれない。 ――でも、送ったことは嘘じゃない。
遠くで汽車がことこと鳴り、踏切が――カン、カン、と夜を渡りました。波がしゅう、と引く音が、そのあとを追いかけました。
幹夫はその音の並びを聞きながら、胸の中で、小さなはがきを一枚、そっと貼るみたいに思いました。
影のはがきは、返事が来ないこともある。 返事が来ない日でも、送るという行為が、胸を少しだけまっすぐにする。
窓辺で青い星が、もう一度だけ、からり、と鳴りました。 その音は、空に残った影の代わりに、幹夫の胸の中へ、静かに消えない輪郭を置いていく音でした。





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