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御門台の坂・風の測量線(舞台:静岡市清水区 御門台)

 

 幹夫青年は、御門台駅を出て、住宅の坂の入口で、ふっと立ち止まりました。 止まったのは、息が切れたからではありません。 坂の上から、風が一本、まっすぐに降りて来たからです。

 冬の風は見えません。 けれど、見えないものほど、正確に人のからだへ触れます。 幹夫が息を吐くと、白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中で一瞬ふくらみ、それから坂の方へ引かれて、細い線になって消えました。

 (線だ。) 幹夫は思ひました。 (風は、線を引く。)

 坂道の両側には、静かな家が並んでゐます。 門、植木鉢、低い塀、細い電柱。 どれも、夜の中で小さく息をひそめてゐるのに、坂だけは、昼よりよく「坂」といふ顔をしてゐました。 足の裏が、「のぼれ」といふより先に、「傾いてゐる」と知らせて来るのです。

 幹夫の胸の中には、今日もことばが並んでゐました。 並ぶといっても、星座みたいにきれいではありません。 冷えた小石みたいに角ばって、ポケットの底でごろごろしてゐるのです。

 ――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」

 そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。 そして机の上には、「送るはずだった言葉」の地図が、折り目だらけで広がってゐるのです。

 幹夫は、坂をのぼりはじめました。 一歩のぼるたびに、風がコートの袖を軽く叩きます。 ぱた、ぱた、と小さく叩くその感じが、どこか測量の合図みたいでした。

 測量。 幹夫は、ふいにその言葉を思ひ出しました。 測量の人は、坂や道の上に杭を立て、糸を張り、角度を測ります。 見えない「土地の形」を、線で表に出すのです。

 (風も、測量してゐるのかもしれない。)

 風は、坂の傾きを知ってゐます。 道の曲がり角も、家の壁も、樹の枝も、ぜんぶ知ってゐます。 知ってゐるから、ぴたりと流れを変へます。 流れを変へるところが、まるでコンパスの針が、北を指す瞬間みたいに正確です。

 幹夫は、街灯の下で、地面に落ちた自分の影を見ました。 影は、坂の上へ向かって少し長く伸び、風に押されて、ほんのすこし揺れてゐます。 揺れは小さい。 小さいのに、影が「傾き」をよく見せます。 影は、地面の分度器(ぶんどき)です。

 そのとき、坂の途中の角で、細いテープのようなものが、ひらひらしてゐるのに気づきました。 黄色いビニールのテープが、電柱から電柱へ、一本、ぴんと張ってあるのです。 工事の印か、何かの目印か――よく分かりません。 けれど、そのテープが、風に押されて、きれいに弓なりになりました。

 (測量線だ。)

 幹夫は、胸の中でそう呼びました。 ほんたうの測量線ではないのに、その呼び方をした途端、夜の坂が、地図の上に変はるのです。 風が、見えない定規になって、テープを引っ張り、張り具合で「強さ」を示してしまふ。 強いところ、弱いところ。 止まるところ、流れるところ。 坂の上の空気は、それだけで立派な図になります。

 その図を見てゐると、幹夫は自分の胸の中にも、同じやうな「傾き」があるのを感じました。 言葉が出て行きたがる方向。 言ひ訳が引っ張る方向。 遅れた時間が重くなる方向。 それらが混ざって、胸の中に、見えない坂を作ってゐるのです。

 その坂を、幹夫はいつも「いまさら」といふ石で塞いでしまふ。 塞ぐと、風が通らない。 風が通らないと、息が苦しい。 息が苦しいと、ますます言葉が出ない。

 幹夫は、テープの前で、ふうっと息を吐きました。 白い息がテープのところへ流れて行き、弓なりの曲線に沿って、すうっとすべって消えました。 消えたのに、曲線だけが残る気がしました。

 (曲線が残るなら、道も残る。) (道が残るなら、ひとことも通せる。)

 坂の上の方から、コツコツと足音が降りて来ました。 見ると、犬を連れた年配の人が、ゆっくり下りて来ます。 犬は小さく、毛が冬の空気を吸って、少しふくらんでゐました。 犬は、幹夫のところへ来ると、ぴたりと立ち止まり、鼻先を上げて、風の匂ひを嗅ぎました。

 そして、次の瞬間、犬は迷はずに、坂の上の方へ向かって尾を振りました。 迷ひがない。 迷ひがないのに、急がない。 急がないのに、正確に「行く」――その感じが、幹夫には星の運行みたいに見えました。

「こんばんは」

 幹夫が言ふと、年配の人は、驚きもせず、にこっとしました。

「こんばんは。寒いねえ。風が線を引いてるよ」

 幹夫は、胸の中で小さく笑ひました。 自分だけの幻ではなかったのです。 風が線を引いてゐる――その見え方は、誰の目にも、ほんの少しは映るのかもしれません。

 犬が、もう一度、風の方を嗅ぎました。 その鼻先が、ちょん、と空気を押すたびに、見えない線が一本ずつ描かれるやうでした。 幹夫の胸の中の裁判官の机の音が、その線の上で滑って、少し遠くへ行きました。 机の音が遠くなると、胸は軽くなります。 軽くなると、息が通ります。

 年配の人と犬は、ゆっくり去って行きました。 幹夫は、テープの弓なりを、もう一度だけ見ました。 風はまだ通ってゐます。 通ってゐるのに、叱りません。 風はただ、坂の上から下へ、測量のやうに正確に流れるだけです。

 (なら、ぼくも。) (一本だけ。)

 幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど、御門台の坂の風が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。

 幹夫は長い文を書きませんでした。 測量線だって一本でいい。 風の線だって一本でいい。 なら、言葉も一行でいいのです。

 幹夫は、たった一行だけ打ちました。

 ――「御門台の坂。風が定規みたいで、気持ちの傾きがわかった。元気?」

 送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、坂の上から下へ風が通るみたいに、ことばが一本、外へ通ったのです。

 幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、坂と風と、一本の弓なりの線を見て、ひとこと送っただけです。 けれど、その“だけ”があると、御門台の夜の坂は、少しだけのぼりやすくなります。 風の測量線は、今夜も見えないところで引かれながら、ひとりの胸の中の地図を、そっと整へてゐるのでした。

 
 
 

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