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恵方の七つ具

  • 山崎行政書士事務所
  • 2月1日
  • 読了時間: 5分


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 海からの潮風がほのかに香る、静岡市の郊外。茶畑の向こうに見える雲が、夕焼けに染まって淡い桃色に揺れていた。

 その畑を見下ろすように建つ、古い瓦屋根の家。少年・正太は祖母と二人で暮らしている。どこにでもある素朴な家だが、台所の炉だけはちょっと変わった不思議な温もりを放っていた。祖母は「この炉には、いろんな願いが集まるのさ」と、いつも言っていた。

 正太は、その炉の前で途方に暮れていた。「おばあちゃん、ほんとにこの具材でいいの?」 その手には、七つの器が並んでいる。中には、香り豊かな干瓢、ふっくらした椎茸、細長いきゅうり、甘い玉子焼きに歯ごたえのあるかんぴょう巻き、そして紅い桜でんぶときらきらしたかにかま――。 祖母は、古びた台所仕事用のエプロンを締めなおすと、にっこり笑って応えた。「今年の恵方巻は特別なんだよ。七つの具には、それぞれ願いが込められてるのさ。ちゃんと選んで巻いてあげないと、その願いは叶わないんだって」「でも、ただ恵方巻を作るだけじゃ……」「そうだねえ。ただ食べるだけなら、どんな具でもいいのかもしれない。でもね、これは“願いの恵方巻”なんだ。七福神に見立てた七つの具材、一つ一つが大切なんだよ」

 祖母が夕陽に照らされた窓辺に置かれた古い巻物を広げると、そこには半分読み取れない文字とイラストがあった。恵方巻に見立てた図の周りに、何やら不思議な象徴が描かれている。宝船、打ち出の小槌、巻物のようなもの……。「これはね、うちのご先祖様から伝わっているレシピ。五穀豊穣、商売繁盛、学問成就……いろいろ書かれているけど、一番大事なのは“心”なんだってさ」

 その言葉を聞きながら、正太は器を覗き込む。「心……?」 祖母は炉の火を少しだけ強め、具材の香りをさらに引き立たせる。甘じょっぱい椎茸の煮物や干瓢からは湯気が立ちのぼり、まるで生きているようだった。

「正太、お前さんは今年どんな願いを込めたいんだい?」「オレは……学校の野球チームでレギュラーになりたい。それから、おばあちゃんが長生きしてくれるように……あと、家計がもっと楽になって……」「ははは、欲張りだねぇ。でもどの願いも大切だね。だからこそ、恵方巻ってのは面白い。自分の願いを“巻き込む”んだよ」

 正太は七つの具を、少しずつ手に取っては海苔の上に並べてみる。すべてがしっくりこなければ、作り直し。作るたびに海苔はしわくちゃになって、米粒が指にくっついた。もう何回目のやり直しか分からない。 苦戦していると、祖母は笑って言う。「急ぎすぎてはいけないよ。具材はそれぞれ個性があるんだから、仲良く並んでくれる順番があるのさ。巻物にも書いてある。『すべての具は、寄り添い合い、慈しみ合うように巻かれるべし』ってね」

 正太は、いったん手を止めて深呼吸をする。そして、海苔の上に少しだけ米を広げ、ひとつひとつの具材と対話するように配置していく。甘い椎茸は、少し酸味のあるきゅうりと相性がいい。玉子焼きのまろやかさは、塩気のあるかにかまと合わさると甘みを引き立てる……。 不思議と、具材たちが素直に“位置”を教えてくれているような気がした。何度目かのトライで、ようやく七つの具が自然と並んだ。

「お、いい形じゃないかい」 祖母がそう言うと同時に、正太の手のひらに、米と海苔のぬくもりが心地よく伝わってきた。まるで、七つの具が呼吸をしているかのよう。「よし、巻くぞ……」 そう呟いてくるりと巻くと、ほどよく締まった“恵方巻”が完成した。

「どうだい、正太。これはどんな願いを込めたんだい?」「野球で頑張る力と、おばあちゃんの健康、うちの生活がもっと笑顔になるように……そう、あとはお世話になってる友達の夢も叶うようにって。いろんなものを“ぎゅっと”巻き込んだんだ」「そりゃいい。いい巻きっぷりだね」

 笑顔の祖母と正太の周りで、ほんのり暖かい風が流れた気がした。いつの間にか外は夕闇に包まれ、あたりが茜色から紫色に変わっていた。

 そして夜。 方角を確かめた祖母が、今年の恵方を静かに指し示す。二人は縁側に座って、作りたての恵方巻を手に持ち、無言でその方角を向いた。 まずは正太が一口かじる。甘辛い椎茸の味と、シャキシャキのきゅうり、玉子のやわらかな食感が一気に混ざり合う。口いっぱいに広がる味の洪水――そして、胸の奥が温かくなるような、不思議な安心感がやってきた。 祖母も小さくかじり、目を細めてニコニコ笑っている。

 かつて「ただの太巻きだろ?」と思っていた正太は、その瞬間に気づいた。恵方巻というのは、ただ腹を満たす食べ物ではない。自分と周りの人の願い、そして自然の恵みを“ひとつ”にまとめる、特別な宝物なのだと。

 恵方巻を食べ終わったあと、正太は縁側の先に広がる夜の景色を眺めた。どこからともなく、潮風が微かに吹き込んできて、彼の髪をそっと撫でていく。遠くには静かな海の気配。きっと、街のあちこちでも同じように、思い思いの願いが巻かれているのかもしれない。

 風が夜空に向かって流れていくのを感じながら、正太は心の中でそっと祈った。――明日もまた、みんなで笑って過ごせますように。そして、野球の試合も頑張れますように。おばあちゃんが元気でいてくれますように。

 炉が赤々と残り火を照らしていた。かすかに湯気の立ち上る静岡の夜、願いを巻き込んだ太巻きの香りが、家の隅々までやわらかく満ちていた。祖母の作るごはんは、いつだって優しい味がする。正太はその温もりを忘れないように、しっかりと胸に刻んだ。

 その後、正太の野球チームは、校内大会で好成績を残した。祖母の体調も安定し、家に笑顔が増えたという。

 人は、ほんの小さなことで悩み、喜び、そして願う。だけど、たった一本の恵方巻にその想いを込めるだけで、世界が少し変わる気がする――。

 いつか正太が大人になっても、この夜の潮風と、恵方巻から立ちのぼる柔らかな湯気は、きっと忘れられない宝物として残るのだろう。

(了)

 
 
 

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