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日本平の夜景、星の代りに街がまたたく

 幹夫青年が日本平へ上がつてみようと思ひ立つたのは、「クリスマス・イブの夜景は格別だ」などといふ、いかにも雑誌の見出しみたいな理由からではない。 むしろ見出しの言葉は、読めば読むほど胸を窮屈にする。格別だの、特別だの、最高だの――そんな言葉は、たいてい「さう感じられない自分」を置き去りにするからだ。

 ただ、今夜は空を見たかつた。 街の中にゐると、空は看板の間に切れ切れに挟まつて、いつも小さい。小さい空の下で、幹夫の頭の中の裁判はいつも大きくなる。 ――メリークリスマスと言へない。 ――言へないくせに、言はないのも寂しい。 ――寂しいなどと言つたら負けだ。 ――負けたくない。 さうやつて、自分で自分を追ひ立てる。

 追ひ立てるのをやめたくて、幹夫は上へ行くことにした。 上へ行けば、少なくとも空が広い。空が広いだけで、人間の言ひ訳は少し薄くなる。薄くなれば、息が通る。

 静岡駅の方からバスに乗ると、車内は思つたより静かだつた。 サンタ帽をかぶつた子どもがゐるでもなく、赤い服の一団が騒ぐでもない。皆、コートの襟を立てて、窓の外を見てゐる。 祝ひの日ほど、人は実は黙る。黙るのは、言葉が増える日だからだ。言葉が増える日は、言葉を選ぶのが面倒になる。

 幹夫は後ろの席に座り、膝の上に手を置いた。 手袋をしてゐるのに指先が少し冷たい。冷たい指先は、心配の入口に似てゐる。入口が冷たいと、心配が入りやすい。 そこで幹夫は、窓の曇りに指で小さく円を描いた。円の中だけ外が見える。見える外は、街の灯がだんだん低くなり、山の影が濃くなつて行く。 低くなる街の灯を見てゐると、自分の胸の高さも少し下がるやうな気がした。下がると、余計な見栄が落ちる。

 日本平へ着くころ、空はすでに夜の顔をしてゐた。 けれど星は見えなかつた。 雲が、空の上に一枚、薄い布を広げてゐる。布は白くも黒くもなく、ただ「見せない」といふ顔をしてゐる。見せない顔は、時に腹立たしい。だが腹を立てても、空は言ひ訳を聞かぬ。

 幹夫は展望の方へ歩いた。 風がひやりと頬を撫で、息が白くなる。白い息が出ると、夜が少し生活に近づく。生活に近づけば、祝ひも威張らない。

 展望台には、人がまばらにゐた。 恋人同士らしい二人が肩を寄せ、年配の夫婦がゆつくり歩き、子どもが手すりに張りついてはしゃいでゐる。 幹夫はその中に混じりながら、いつもの癖で「ひとりで来た顔」を隠さうとした。隠さうとすると、かへつてひとりが濃くなる。濃くなるひとりは、寒い。 そこで幹夫は、隠すのを一つやめた。やめても、誰も見てゐない。見てゐないのに、自分だけが恥づかしい――その無駄を、今夜は少し減らしたかつた。

 手すりの外へ目をやると、街が見えた。 静岡の町の灯りが、川のやうに、そして星座のやうに、広がつてゐる。道路の列が光の筋になり、家々の窓が小さな点になり、遠くの港の方が少し明るい。 空には星がないのに、地上が星を持つてゐる。 幹夫はその取り替へが可笑しく、そしてありがたく思つた。

 雲が星を隠しても、灯りは消えない。 消えない灯りは、誰かの生活の灯だ。誰かが今夜、茶を淹れてゐる。誰かが今夜、皿を洗つてゐる。誰かが今夜、遅い返信を打つてゐる。 さう思ふと、幹夫の胸の中の裁判が少し間の抜けた顔をした。裁判が間の抜けた顔をすると、こちらの肩は楽になる。

 そのとき、背後で紙コップの擦れる音がした。 振り向くと、小さな売店の前で、年配の男が温い飲みものを並べてゐる。湯気が細く立つてゐた。 湯気が立つと、どんな場所でも「ここで休め」と言はれてゐるやうで、幹夫はつい吸ひ寄せられる。

「こんばんは。温いの、どうだい」

 男は、商売の声といふより、夜の番人の声で言つた。 幹夫は、先に返した。

「こんばんは。……お茶、ありますか」

「あるよ。ほうじ茶。星は見えないけど、湯気は見える」

 男の冗談は軽くてよかつた。軽い冗談は、寒さの中でよく効く。 幹夫が紙コップを受け取ると、掌がすぐ温まつた。掌が温まると、胸の石の角が丸くなる。丸くなると、余計な言ひ訳が引つ込む。

「星、見えませんね」

 幹夫が言ふと、男は手すりの向うを見て、あつさり言つた。

「見えない日もあるさ。見えない日は、星を据ゑ置きにして、街を見るんだ。ここは街がきれいだろ」

 据ゑ置き。 その言葉がよかつた。諦めるのではない。怒るのでもない。見えないものは一旦棚に置いて、見えるものを見る。 生活の上手な人間は、だいたいさうやつて息をつないでゐる。

 幹夫は、ほうじ茶をひと口飲んだ。 香が鼻へ抜け、喉がほどける。ほどけると、また手すりの外の灯りがよく見える。 灯りは、派手なツリーの灯より、ずつと落ち着いてゐる。落ち着いてゐるのに、きれいだ。 きれいだが、こちらへ「感動しろ」と命令しない。命令しないきれいさは、長持ちする。

 近くで、子どもが不満げに言つた。

「星、ないじゃん」

 母親が困つたやうに笑つてゐる。

「雲だねえ。残念だねえ」

 残念――といふ言葉は、時々とても冷たい。 今の子は、星を見に来たのではないかもしれない。けれど「残念」と言はれると、今ここが全部失敗みたいになる。

 すると、さつきの売店の男が、遠慮もなく口を挟んだ。

「姉ちゃん、星ならあるよ。ほら、下見てみな」

 男が指さす方を見ると、街の灯りが一面にまたたいてゐる。 子どもが目を丸くして、手すりに身を乗り出した。

「……うわ。いっぱい」

「だろ。地面の星だ。空の星は寒いけど、地面の星はあったかい。人が住んでるから」

 子どもは、ふつと笑つた。 笑つた顔が出ると、「残念」はもう残念ではない。 幹夫はその瞬間、胸の中で小さく拍手をしたくなつた。拍手をしないかわりに、ほうじ茶をもうひと口飲んだ。湯気が、拍手の代りに上がる。

 幹夫はふと、自分のスマホを思ひ出した。 クリスマスの夜に、言葉が詰まつて遅れてゐる相手が一人――いや、相手だけではない。遅れた返事は、たいてい自分の中に残る。残つて腐る。腐るのが嫌で、最近幹夫は「短い言葉」を稽古してゐた。

 星が見えないなら、星の話を立派に書く必要はない。 見える灯りを、そのまま一行にすればいい。 それが据ゑ置きの実用だ。

 幹夫は手袋のままスマホを出し、短く打つた。 長文は書かない。長文は言ひ訳の巣になる。今夜は、鈴の音みたいに短くていい。

 ――「メリークリスマス。日本平。星は見えないけど、街が星みたいに光ってる。」

 送信すると、胸の内がすとんと静かになつた。 静かになつたのは、問題が消えたからではない。問題の上に、湯気の蓋を一枚置けたからである。蓋があれば、匂ひは残る。残れば、明日にも続く。

 ほうじ茶を飲み終へて、幹夫は紙コップを握りしめたまま、もう一度だけ手すりへ寄つた。 雲は相変らず星を隠してゐる。 だが、隠してゐる雲も、街の灯を受けて、ほんのり明るい。雲まで明るいのは、少し可笑しい。 可笑しいと思へる夜は、悪くない。

 帰りのバスの時間が近づき、幹夫は踵を返した。 展望台の灯りが背中に当たり、背中が少し暖かい。 さつきの売店の男が、片付けながら言つた。

「また来な。星が見える日も、見えない日も、どつちもあるから面白い」

 幹夫は、少し照れながら返した。

「……また来ます。こんばんは」

 こんばんは、と言つてしまふのが、幹夫の癖である。 だが今夜は、その癖が悪くない。夜の挨拶は、夜を立派にしない。夜を立派にしないまま、少しだけ温める。

 バスに乗り込み、窓から街を見下ろすと、灯りはまだまたたいてゐた。 あの灯りの一つは、自分の部屋の灯でもある。 自分の灯が、地面の星の一粒になる――さう思ふと、机の上の整列も、明日には少し崩れて見える気がした。崩れて見えれば、手が動く。手が動けば、返事も動く。

 幹夫青年は日本平で、星を見たのではない。 星が見えないことを据ゑ置きにして、街の灯を星として受け取る稽古をしただけである。 だが、その稽古があると、聖夜は空に無くても成立する。 地上がまたたく――その当たり前が、今夜の幹夫には、十分に明るい贈り物であつた。

 
 
 

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