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日本平の茶の風篩(かぜぶるい)


 朝の日本平は、段々の一段ごとに緑の糸を張っていました。茶の葉はつややかで、露は小さなレンズになって駿河湾の青を丸く抱えています。八歳の幹夫は、石垣の端に腰をかけ、落ち葉で小さな笠をこしらえていました。畝(うね)の間を抜ける風は、指のあいだをくすぐるように細く、遠くの三保の松原は扇を半分だけ開いています。

 そのとき、畝の陰から、うすい緑の封書が一枚、風に押されて足もとへすべり込みました。封書は笹の葉のさわり心地で、金いろの細い字が葉脈みたいに走っています。

 — 至急 日本平・段々畑調律所 茶畑局  昨夜の南風により、「茶の風篩(かぜぶるい)」のひとつ破損。  このままでは正午の風味配りが「渋」に片寄ります。  正午までに新しいを編成のこと。  採取物:   ① 朝露が葉先で止まる一瞬の「渋の筋」   ② 根もと陰(かげ)に生まれる「甘の息」   ③ 一芯二葉の芽の裏からほどける「香の羽」  組立:三つを撚(よ)り合わせ、見晴らしの竿に張設。  提出先:段々畑いちばん上 風見の杭

「読み書き、上手だね」

 畝の端の杭から、小さな歌い手がひょいと降りました。頭に白と黒の線を巻いたホオジロです。胸は薄い茶、声は湯気の手前で冷ました砂糖湯みたいにやわらかでした。

「案内係のホオジロです。茶は風でふるいにかけて、渋と甘と香の配りものを決めるの。昨夜の熱でが一つやぶけたから、きょうの正午は渋みばかりが町へ降りてしまう。手を貸してくれる?」

 幹夫はうなずき、ポケットのハンカチとランドセルの余りひもを確かめました。

   *

 まずは「渋の筋」。ホオジロが顎でさした日向の畝の端で、幹夫は葉の先に視線を合わせました。露がひと粒、そこで止まり、朝日の糸がそれを薄く割って通ります。そのとき葉脈の一本が、針のようにきりっと立ちました。幹夫は白いハンカチの角で、その細い線をそっと受け取りました。布はすこし冷たくなり、糸目の間に、緑の針金みたいな気配が一本眠りました。

「一本め、渋の筋」 ホオジロは尾を一度だけ上下に振りました。「次は、甘の息。それは根もとの陰に育つ」

 畝と畝のあいだ、小さな溝の底は、朝の影が深くたまる所でした。ここでは土の匂いが静かで、葉の裏がぬくもりを手放しません。風がひと渡りして、草はそろって腰をかがめ、根もとで「すう」と音のない呼吸が合いました。幹夫は余りひもで丸い輪を作り、その「すう」を一さじすくいあげます。ひもはかるくふくらみ、指先に、あたたかい甘さの予告がうつりました。

「二本め、甘の息」 ホオジロは目を細め、次の畝へ飛び移ります。「最後は、香の羽。芽の裏の産毛が、風にのってはらりとほどける一瞬だよ」

 一芯二葉の若い芽が、朝のなかでかすかに光っていました。幹夫が息をひそめると、芽の裏で白い産毛が細くゆれ、空気に、青い香(かお)りの薄い羽が一枚生まれます。幹夫はハンカチの端でそれを受け、渋と甘のそばに重ねました。布は一瞬だけ、湯呑みのふちみたいに温(ぬる)くなります。

   *

 見晴らしの竿は、段々いちばん上の風の背に立っていました。竿の中ほどには、風をふるい分ける枠が張られています。破れたからは、渋みの細い糸が、やせた川みたいに続けざまに町へ降りていました。

「編もう」 ホオジロが杭の上で小さく拍(はく)をとります。

 幹夫はひざにハンカチを広げ、渋の筋甘の息香の羽を指先で合わせました。最初はそれぞれが別の方向へ動きたがりましたが、撚るたびに小さく「り」「ん」「り」と鳴って、やがて、透けるように細かな網のになりました。よく見ると、そのを、緑の針・土の呼吸・青い羽が三つ綾(あや)になって走っています。

 幹夫は出来上がったを、破れたところにそっと当てて、余りひもで四つの端を結びました。結びは固すぎず、ほどけすぎず。風がいちど、そこを通ってみます。渋の糸は網でやさしく散らされ、甘の息が薄い座布団みたいに敷かれ、香の羽が上へ少し飛び上がって合図しました。

 そのときでした。段々畑じゅうの葉が、肩をうしろから軽く撫でられたみたいに、いっせいに細く笑いました。畝の上を渡る風は、渋・甘・香を小さな匙(さじ)で等分にすくっては、町へ配りはじめます。広場の自動販売機の冷たい缶は、さっきよりもおとなしく、家々の湯呑みはまだ見ぬ湯気をうすく予感していました。遠くの海の青は一度だけ深くなり、富士の裾は、朝の白を二枚だけ増やして見えました。

「できた」 幹夫が息をはくと、ホオジロは小さく歌って礼をしました。「ありがとう、幹夫くん。風篩が整えば、舌も心も迷わない。お礼に、切手を一枚」

 ホオジロが差し出した切手は透明で、一芯二葉のかたちをしています。光にかざすと、芯に香の羽、片方の葉に渋の筋、もう片方の葉に甘の息が、うすく描かれていました。

「『茶』の切手。君の一日の味がどちらかに傾いたら、胸の地図に貼ってごらん。『ただいま』が、ちょうどの青葉香(あおばか)で出てくる」

   *

 帰り道、幹夫は石垣の上に腰をおろし、お弁当の塩むすびをひとつ食べました。口の中で海が小さく笑い、風がその笑いに葉の匂いを添えました。畝の向こうでは、誰かが摘み唄を短く口ずさみ、露の粒がそれに合わせて小さく跳ねます。

 家の門をくぐって、幹夫は声を丸くして言いました。「ただいま」

 その「ただいま」は、さっきの風篩をいちど通ってきたみたいに、渋すぎも甘すぎもしませんでした。台所から「おかえり」という返事が、香りだけ一歩先に届き、湯気は柱の木目をゆっくりのぼります。胸の中の切手がいちどだけ淡く光り、見えない湯呑みのへりが、指先のところにそっとあらわれた気がしました。

 正午。段々畑の上で、風はしばらく座りました。渋は影に、甘は土に、香は空に、それぞれ一口ずつ置きみやげをしてから、また畝を渡っていきます。町のベンチでは水筒の氷がやさしく鳴り、洗濯物は青葉の匂いを少し覚えました。

 夕方。三保の松原は扇を閉じはじめ、駿河の海には細い緑の線が一本だけ引かれます。見晴らしの竿のは、最後の風をほどよく散らし、段々の影をきれいに分配しました。

 夜。茶畑の間の小道は、葉の影で細い梯子(はしご)になり、港の灯は小さな湯呑みほどの丸になって点ります。ホオジロは杭の上で丸くなり、風篩は暗がりの中で、自分のをひとつだけ磨きました。

 — 渋の筋  甘の息  香の羽  それらを撚って、風のにすれば、  今日の一口は、  ちゃんと君の味になる。

 朝。日本平は、また新しい引き出しを静かに開けました。幹夫は靴ひもを結び直し、胸の切手の冷たさをひとつ吸いこんで、ゆっくりと学校へ向かいました。背中のどこかで、小さな風篩が、今日の最初の「平ら」を静かに指していました。

 
 
 

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