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星がほどける茶の丘で


 茶の丘に夜が降りると、空は一枚の濃い藍の布になった。

 幹夫少年は、丘の上の農道に立っていた。足もとの土は、昼間のぬくもりをすっかり失い、夜露を含んでやわらかかった。斜面に沿って並ぶ茶の畝は、暗い緑の波となって、丘の向こうまで静かに続いている。

 風が吹くたび、茶葉が鳴った。

 さわ。 さわ。

 それは、昼のあいだ光を受けつづけた葉たちが、ようやく胸の奥をほどいている音のようだった。

 幹夫は、その音を聞くと少し安心した。

 人のいる場所では、心をほどくのがむずかしい。

 学校では、笑う時には笑わなければならない。平気なふりをする時には、ちゃんと平気そうな顔をしなければならない。傷ついても、それが小さなことなら、早く忘れたほうがいいような空気がある。

 けれど幹夫の心は、なかなかそうできなかった。

 小さな言葉が、胸の中で結び目になる。 言えなかった返事が、細い糸のように絡まる。 誰かの曇った目や、机の端に残った消しゴムの跡や、雨に濡れた靴箱の匂いまで、いつまでも心に引っかかる。

 その日も、幹夫の胸には、ほどけないものがあった。

 昼休み、同じ班の子が、作りかけの紙細工を破ってしまった。みんなで作る飾りだった。破れたのはほんの少しで、直せないほどではなかった。

 けれど、その子はひどく慌てた。

 「ごめん」

 そう言った声が、小さく震えていた。

 周りの子たちは「大丈夫だよ」と言った。幹夫も言おうとした。けれど、幹夫の口から出たのは、

 「テープで貼ればいいよ」

 という言葉だけだった。

 間違った言葉ではない。 たしかに、テープで貼れば直る。

 でも、その子が本当にほしかったのは、直し方ではなく、「びっくりしたね」とか、「大丈夫、責めてないよ」とか、そういう言葉だったのかもしれない。

 幹夫はあとになって、そのことに気づいた。

 気づいた時には、もう昼休みは終わっていて、その子はいつもの顔に戻っていた。けれど幹夫の胸の中では、自分の言葉が細い糸のように絡まっていた。

 どうして、あの時、もっとやわらかい言葉を出せなかったのだろう。

 どうして、相手の震えに気づいていたのに、震えに触れる言葉を選べなかったのだろう。

 幹夫は、何度も胸の中でその場面をほどこうとした。けれど、ほどこうとすればするほど、糸はかたく結ばれていった。

 だから夜になって、茶の丘へ来た。

 空には星があった。

 幹夫は、丘の上から星を見上げた。星は遠く、冷たく、けれど不思議にやさしかった。何も急かさず、何も答えを求めず、ただ黙って光っている。

 その時、ひとつの星が、ふるりと揺れた。

 幹夫は目を凝らした。

 星が落ちるのかと思った。けれど違った。

 星は、ほどけはじめていた。

 点だった光が、細い糸になって夜空に伸びる。その糸は、銀色に輝きながらゆっくり垂れ、空から茶畑へ向かって降りてきた。

 一本ではなかった。

 あちらの星も、こちらの星も、少しずつほどけていく。夜空に散らばっていた光が、無数の銀の糸となって、茶の丘へ静かに降りてきた。

 幹夫は息を止めた。

 星がほどけている。

 銀色の糸は、茶葉の上に落ちると、露のように丸くならず、葉脈に沿って静かに横たわった。茶の畝は、たちまち光の糸を織り込んだ布のようになった。

 「引っぱってはいけないよ」

 すぐそばで声がした。

 幹夫が振り向くと、茶畑の畝のあいだに、一人の女の人が立っていた。

 年はわからなかった。若いようにも、ずっと年を重ねているようにも見えた。深い緑の着物を着て、肩には星明かりで編んだ細い糸巻きをかけている。髪には茶葉の露がいくつも光り、手には小さな竹の櫛を持っていた。

 「あなたは……」

 幹夫が言うと、女の人は静かに微笑んだ。

 「茶の丘の糸ほどき」

 「糸ほどき?」

 「星がほどける夜に、絡まった光を茶葉へ渡す役目の者」

 女の人は、茶葉の上に横たわる銀の糸をそっと櫛で整えた。

 「星は、いつも点でいるわけではないの。地上で誰かが言葉を飲み込んだり、気持ちを結びすぎたりすると、その小さな結び目が夜空へ上がって、星の中に混じる。星はそれを抱えて光るけれど、結び目が多くなると疲れてしまう。だから、こうして時々ほどけに来る」

 幹夫は、夜空を見た。

 星はまだいくつも光っている。けれど、そのいくつかから銀の糸が垂れ、茶畑の上へ降りていた。

 「星にも、結び目ができるんですか」

 「できるよ」

 糸ほどきは答えた。

 「人の胸にもできるでしょう」

 幹夫は黙った。

 胸の中の昼休みの場面が、また浮かんだ。破れた紙。震えた「ごめん」。自分の硬い返事。

 糸ほどきは幹夫の顔を見た。

 「幹夫も、結び目を持ってきたね」

 幹夫は、胸に手を当てた。

 「ほどきたいのに、ほどけません」

 「どんな結び目?」

 「友だちが困っていたのに、直し方だけ言ってしまいました。本当は、もっと別の言葉を言えたらよかったのに」

 言葉にすると、胸の結び目が少しだけ見えた気がした。

 でも、まだかたかった。

 糸ほどきは、茶葉の上に降りた星の糸を一本すくい上げた。

 「結び目は、力でほどこうとすると、かえってかたくなる」

 「では、どうすればいいんですか」

 「まず、どこが結ばれているか見ること」

 糸ほどきは、銀の糸を幹夫に差し出した。

 「触ってごらん」

 幹夫はおそるおそる指を伸ばした。

 銀の糸は冷たそうに見えたが、触れるとほんのり温かかった。湯呑みの底に残るお茶のぬくもりに似ていた。

 その瞬間、幹夫の前に昼休みの場面が浮かんだ。

 破れた紙細工。 震えた声。 「ごめん」と言った友だちの指。 自分が言った「テープで貼ればいいよ」。

 幹夫は、痛みをこらえて見つめた。

 けれど、糸ほどきが言った。

 「もっと奥を見て」

 幹夫は、場面の中へさらに目を凝らした。

 すると、自分の言葉の奥に、小さな怖さがあるのが見えた。

 友だちの震えに気づいた。 でも、その震えにどう触れていいかわからなかった。 やわらかい言葉を言おうとして、もし間違えたらどうしようと思った。 かえって相手を泣かせたらどうしようと思った。 だから、直し方という安全な言葉へ逃げた。

 幹夫は息をのんだ。

 「ぼく、怖かったんだ」

 糸が、かすかにゆるんだ。

 「そう」

 糸ほどきが言った。

 「怖さがあると、人は硬い言葉を選ぶことがある。硬い言葉は、相手を傷つけるためだけに出るのではない。自分を守るために出ることもある」

 幹夫は目を伏せた。

 「でも、それで相手が寂しくなったかもしれない」

 「それも本当」

 糸ほどきは、やさしくも厳しく言った。

 「結び目をほどくには、自分を許すだけでも、責めるだけでも足りない。怖かった自分と、寂しかった相手の両方を糸の上に置く」

 幹夫は、銀の糸を見た。

 そこには二つの小さな光があった。

 一つは幹夫の怖さ。 もう一つは友だちの寂しさ。

 二つは絡まっていた。

 幹夫は、指先でその間にそっと触れた。

 引っぱらない。 押し込まない。 ただ、少しだけ隙間を作るように。

 すると、糸の結び目がわずかにゆるんだ。

 幹夫の胸も、少しだけ息がしやすくなった。

 糸ほどきはうなずいた。

 「上手だよ」

 「まだ、ほどけません」

 「一度でほどける結び目ばかりではない。今夜は、少しゆるめればいい」

 幹夫は、銀の糸を茶葉の上に戻した。

 糸は葉脈に沿って横たわり、茶葉の中へ少しずつ沈んでいった。

 「茶葉に入るんですか」

 「うん。茶葉は、ほどけかけた糸を預かるのが上手なの。すぐ香りにはならない。夜露を受け、朝日を受け、時間をかけて、少しずつお茶の香りに変える」

 幹夫は茶葉を見つめた。

 自分の結び目も、茶葉が少し預かってくれる。

 そう思うと、胸の重さがほんの少し軽くなった。

 茶の丘では、星の糸が次々と降りていた。

 糸ほどきは幹夫を連れて、畝のあいだを歩いた。茶葉の上には、いろいろな結び目があった。

 言えなかった「ありがとう」の結び目。 飲み込んだ「いやだ」の結び目。 平気なふりをした涙の結び目。 笑ったあとで胸に残った小さな後悔の結び目。

 どれも銀色の糸になり、茶葉の上でかすかに震えていた。

 幹夫は、その一つひとつを見るたびに胸が痛んだ。

 けれど、糸ほどきは言った。

 「全部を幹夫がほどかなくていい」

 「でも、見えてしまいます」

 「見えることと、背負うことは違う」

 糸ほどきは、茶葉の上の結び目に櫛を通した。

 「見えたものは、まず見えた場所に置く。茶葉なら茶葉へ。風なら風へ。星なら星へ。幹夫の胸だけに入れない」

 幹夫は、うなずいた。

 自分はこれまで、見えたものをすぐ胸へ入れていたのかもしれない。 だから苦しかった。

 茶葉の上に置いてもいい。 風に少し預けてもいい。 星に返してもいい。

 そのことを、幹夫は初めて体で知った。

 やがて、丘のいちばん高いところへ着いた。

 そこには、一本の古い茶の木があった。

 ほかの畝より少し離れ、根元に丸い石が置かれている。その茶の木の上には、ひときわ長い銀の糸が絡まっていた。

 糸は、星から降りたものではなかった。

 茶の丘そのものから空へ伸び、途中で幾重にも結ばれている。

 「これは?」

 幹夫が聞くと、糸ほどきは静かに答えた。

 「茶の丘の結び目」

 「丘にも、結び目があるんですか」

 「あるよ。たくさんの人の言葉や手の記憶を預かっているからね。茶の丘は静かに見えるけれど、ずっと受け止めてきたものがある」

 幹夫は、古い茶の木の前に立った。

 糸の結び目に近づくと、いくつもの声が聞こえた。

 ――今年も芽が出ますように。 ――雨が多すぎませんように。 ――この茶を飲む人が、少し休めますように。 ――働いた手を、誰かが覚えていてくれますように。 ――消えていく露が、ただ消えるだけで終わりませんように。

 声はやさしかった。

 でも、たくさん重なっていた。

 茶の丘は、これほど多くの願いを受け止めてきたのだ。

 幹夫は、その重さに胸がいっぱいになった。

 「これは、どうやってほどくんですか」

 糸ほどきは首を横に振った。

 「全部はほどかない」

 「ほどかない?」

 「丘の結び目は、ほどくと消えてしまうものもある。結び目は悪いものばかりではない。結ぶことで残る記憶もあるから」

 幹夫は、銀の糸を見た。

 たしかに、その結び目は苦しそうでありながら、美しくもあった。たくさんの願いが結ばれて、一つの星座のようになっている。

 「では、どうするんですか」

 「締まりすぎたところだけ、ゆるめる」

 糸ほどきは幹夫に櫛を渡した。

 「幹夫がやってごらん」

 幹夫は驚いた。

 「ぼくが?」

 「さっき、自分の結び目を少しゆるめられたでしょう。今度は丘の結び目を、ほんの少しだけ」

 幹夫は櫛を受け取った。

 手が震えた。

 丘の結び目に触れるなんて、自分にできるのだろうか。

 糸ほどきは言った。

 「大きく変えようとしなくていい。今夜、幹夫に見えるところだけでいい」

 幹夫は、結び目の中にひとつ、かたく締まっている場所を見つけた。

 そこには、誰にも覚えられなかった小さな手の記憶が絡まっていた。

 茶葉を摘んだ手。 茶を揉んだ手。 湯呑みを洗った手。 誰かのためにお茶を淹れた手。

 どれも名前はなかった。

 幹夫は、その結び目に櫛をそっと入れた。

 「覚えています」

 自然に、言葉が出た。

 「名前は知らないけれど、手があったことを、少し覚えています」

 銀の糸が、かすかにゆるんだ。

 茶の木が、深く息をついたように揺れた。

 さわ。

 丘全体が、その音に応えた。

 幹夫の目に涙がにじんだ。

 名前を知らないものを覚えることは、完全に覚えることではない。けれど、何もなかったことにしないことはできる。

 それだけでも、締まりすぎた結び目は少しゆるむのだ。

 星がほどける夜は、やがて終わりに近づいた。

 空の星は、また小さな点へ戻っていく。茶葉に降りた銀の糸は、葉の中へ沈み、朝の香りになる準備を始めている。

 東の空が少し白んできた。

 糸ほどきの姿も、朝の光に薄れはじめた。

 「もう行くんですか」

 幹夫が聞くと、糸ほどきはうなずいた。

 「星が点に戻る時間だから」

 「また会えますか」

 「胸の結び目を無理に引っぱらず、茶の丘へ持ってこられた夜には」

 糸ほどきは、幹夫に竹の櫛を渡した。

 けれど幹夫が受け取ろうとすると、櫛は光になって、幹夫の胸へ静かに入っていった。

 「これは?」

 「心の櫛。見えないけれど、幹夫の中にある。結び目をほどくためではなく、まず、絡まった糸を乱暴に扱わないための櫛」

 幹夫は胸に手を当てた。

 そこには、まだ昼間の後悔があった。

 けれど、さっきより少しゆるんでいる。

 完全にほどけたわけではない。 でも、息が通るくらいの隙間ができていた。

 糸ほどきは最後に言った。

 「明日、やわらかい言葉を言えなくても、自分を責めすぎないで。ただ、今日より少し糸を見てから話してごらん」

 そう言うと、糸ほどきは茶葉の露の光へ溶けた。

 朝が来た。

 茶の丘は、いつもの茶の丘に戻っていた。

 空には星が見えない。 銀の糸もない。 ただ、茶葉の上に露が光っている。

 幹夫は農道を下りながら、胸の中の櫛を感じていた。

 家に帰ると、母が台所でお茶を淹れていた。

 湯気が白く立っている。

 幹夫は、湯呑みを両手で包んだ。

 お茶をひと口飲むと、少し苦かった。けれど、その苦みの中に、昨夜茶葉へ沈んだ星の糸の香りがあるような気がした。

 学校へ行くと、昼休みに紙細工を破ってしまった子が、机の中から昨日の飾りを出していた。

 破れたところは、テープで貼られていた。

 幹夫は、少し迷った。

 昨日のことを持ち出してよいのか。 今さら何か言うのは変ではないか。 また、言葉を間違えたらどうしよう。

 胸の中の糸が、少し絡まりかけた。

 その時、幹夫は心の櫛を思い出した。

 無理に引っぱらない。 まず、どこが結ばれているか見る。

 怖さがあった。 相手をまた困らせたくない気持ちがあった。 でも、何も言わないまま終わらせたくない気持ちもあった。

 幹夫は、その結び目に少しだけ隙間を作るように息をした。

 そして、小さく言った。

 「昨日、すぐ直し方だけ言ってごめん。びっくりしたよね」

 その子は、少し驚いた顔をした。

 それから、貼ったところを見た。

 「うん。ちょっと焦った」

 幹夫はうなずいた。

 「でも、貼ったところ、線みたいで……飾りの模様にも見える」

 その子は、テープの跡を見た。

 「そうかな」

 「うん」

 短い沈黙があった。

 それからその子は、少しだけ笑った。

 「じゃあ、ここに銀色の紙を貼って、模様にしようかな」

 幹夫の胸の結び目が、ほんの少しほどけた。

 完全に消えたわけではない。 でも、糸はもう苦しく締まっていなかった。

 窓の外には、昼の空が広がっていた。

 星は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 見えないところで、星はまた点として光っている。夜になれば、またほどけることもある。茶の丘は、その糸を受け止める準備をしている。

 幹夫少年は、自分の胸にも、そっと櫛があることを感じた。

 絡まった気持ちをすぐに消すためではなく、乱暴に扱わないための小さな櫛。

 それがあるなら、明日また何かを言い間違えても、何かに傷ついても、少しずつ、少しずつ、糸をゆるめていけるかもしれない。

 茶の丘で星がほどけるように。

 
 
 

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