春の芽吹きと心の芽生え
- 山崎行政書士事務所
- 2025年4月4日
- 読了時間: 10分

第一章 春の野原
昭和二十七年の春の朝、静岡の山里に柔らかな光が降り注いだ。野原には朝露を含んだ草がきらきらと輝き、遠くで鶯(うぐいす)が「ホーホケキョ」と澄んだ声で鳴いている。幹夫少年は小さな本を抱えて家の縁側を飛び出すと、**「行ってきます」**と誰にともなく呟いた。家族は朝早くから畑仕事に出ていて、土間には母が炊いた麦飯のにおいだけが残っている。九歳の幹夫は七人きょうだいの五番目。賑やかな兄弟たちの中で、彼だけはひときわ静かで物思いに耽ることが多かった。
木造の小さな家を離れ、幹夫は田んぼのあぜ道へと歩き出した。田んぼでは冬の間に蒔かれた蓮華草(れんげそう)の花が一面に咲き誇り、薄紅色の絨毯のようだ。朝日に照らされた蓮華草たちが**「おはよう」と微笑みかけてくるようで、幹夫は思わずにっこりと笑い返した。冷たい土の感触を草履ごしに感じながら進むと、足元で黄色いたんぽぽが何輪も開いている。幹夫はしゃがみこんでたんぽぽに顔を寄せ、「きみはもう春の服を着たんだね」**と囁いた。たんぽぽはくすぐったそうに葉を揺らし、朝露のしずくがぽとりと落ちた。
野原には色とりどりの春の花が競うように顔を出している。紫色のすみれ、真っ白なぺんぺん草、淡い青の勿忘草(わすれなぐさ)まで、どれもこれも春の訪れに合わせて一斉に咲き出した。幹夫は花々に囲まれながら歩き、胸が弾むのを感じる。冬のあいだ閉じこもっていた草花が、この春の日差しに誘われて声を上げている。彼にはその声がちゃんと聞こえていた。**「お日さまがうれしいね」「風が気持ちいいね」**小さな花たちが交わすそんな会話が、風のささやきに乗って届くのだった。
家の裏手から続く丘にさしかかると、足元に小川が現れた。透明な水がさらさらと音を立てて流れ、川辺には黄色い菜の花が群れ咲いている。幹夫は小川のほとりに腰を下ろし、本を膝に載せたまましばし目を閉じた。頬を撫でる春風、土の匂い、遠くから聞こえる牛の鳴き声――すべてが混じり合って、ひとつの歌のように感じられる。幹夫の胸に、言葉にできない幸福感がゆっくりと芽生えてくるのを彼自身感じていた。
第二章 里山のささやき
日が高く昇るにつれ、里山の景色はいっそう鮮やかさを増した。幹夫は丘を登りきり、見晴らしの良い場所に立った。眼下には自分の村が小さく見える。瓦屋根がいくつも連なり、畑には働く人々の姿が蟻のように動いていた。遠くには薄青い海と、その水平線を見守る富士の山影もうっすらと望める。幹夫は**「広いなあ……」**と息を呑んだ。こうして高いところから世界を眺めると、自分がとても小さい存在に思えた。
ふと吹いてきた春風が幹夫の髪をやさしく撫でて通り過ぎる。風は野の草をさわさわと揺らし、木々の若葉をくすくすと笑わせた。木立の中から聞こえるのは、新緑同士が触れ合って囁きあう声だ。**「光があたたかいね」「ぼくたちも大きくなろうね」**小枝の先ではむずむずと芽が膨らみ、生まれたての若葉たちが日なたに出てきた喜びを震わせている。幹夫には木々が本当にそんな会話を交わしているように感じられた。
鳥の影が幹夫の足もとを横切った。見ると、一羽の雉(きじ)が畦道からひょっこりと首を出している。灰色がかった羽に赤い顔の雄の雉だ。雉は幹夫と目が合うと**「ケーン!」と一声高く鳴いて、羽をばたばたと広げた。幹夫は驚いて一歩下がったが、雉は逃げる様子もなく彼を見つめている。「こんにちは」幹夫がそっと声をかけると、雉は首をかしげた。まるで「何をしているんだい?」と問いかけるようだ。幹夫は「散歩だよ。きみも春の野原が好きなの?」と聞いてみた。雉はしばらく考えるふうに静かになったが、やがて「ケーン、ケーン」と二声、まるで肯定するように鳴いた。幹夫は嬉しくなり、**「うん、僕もだ!」**と声をあげて笑った。
森の入口で、幹夫は一度立ち止まった。木漏れ日が斑(まだら)に地面を照らし、林の中は薄暗くひんやりとしている。手招きするように吹き抜けてきた風に背中を押され、幹夫はゆっくりと木立の中へ踏み込んだ。里山の奥へ来るのは初めてではないが、いつもは兄や姉と一緒だった。今日は独りきりだ。少しだけ心細くなった幹夫の肩に、ぽとりと何かが落ちてきた。驚いて肩を見れば、桜の花びらだった。見上げると頭上に一本の山桜が枝を広げており、薄紅色の花をふんわりと咲かせている。桜の木は青空に向かって悠々と立ち、散り際の花びらを惜しげもなく風に託していた。**「どうして散ってしまうの?」幹夫が思わず木に尋ねると、桜の木はさらさらと枝葉を鳴らした。それは「また来年も会えるから大丈夫」**とでも言うように聞こえた。幹夫はそっと肩の花びらを掌に受け、胸ポケットにしまった。
第三章 迷子の森
気づけば太陽は西に傾き、森の中に長い影を落としていた。幹夫はいつの間にか随分奥まで来てしまったようだった。周囲を見回しても来た道の目印がわからない。先ほど挨拶した雉も、いつの間にか姿を消していた。急に不安が胸をもたげ、幹夫の心拍子が早まる。森は先ほどまでの優しい表情を潜め、静寂が濃く立ちこめていた。遠くでカラスがカアカアと鳴く声が響くほかは、人気(ひとけ)もなくひっそりとしている。幹夫は喉がカラカラに乾いていることに気づき、ごくりと唾を飲み込んだ。
「おーい!」幹夫は思い切って声を上げてみた。しかし木立に阻まれて、頼りないエコーが返ってくるだけだった。もう一度大きく**「おーい!」と叫ぶと、カラスが驚いたようにバサバサと飛び立っただけで、やはり人の応答はない。幹夫の小さな胸にぽつりと孤独が降り積もる。ここには自分ひとりきりで、誰も助けてくれないのではないか……。突然、朝から感じていた幸福感が嘘のように消え去り、涙がこみ上げてきた。「僕はなんて馬鹿なんだ。勝手にこんな遠くまで来ちゃって……」**ぽろぽろと涙がこぼれ、幹夫は慌てて袖で拭った。泣いてはいけない、と自分に言い聞かせても、次々に涙があふれて視界が滲む。
夕暮れの森に、しくしくと鼻をすする音が響く。幹夫は大きな杉の根元にちょこんと座り込んでしまった。濡れた瞳で見上げると、杉の梢は高すぎて天まで届きそうだ。木々の間から少しずつ茜色の空が覗き始め、日が暮れかけていることを伝えている。冷たい風が吹き、幹夫は肩を震わせた。春とはいえ夕方になると山は冷える。半袖のシャツ一枚で出てきたことを後悔した。**「お父さんやお母さんは心配してるかな」**頭に浮かんだ家族の顔に、また胸がぎゅっとした。普段は賑やかな家族の中で自分の居場所がないように感じていた幹夫だったが、いざ離れてみると家の温かさが恋しくてたまらなかった。
その時、**かさっ…と足音が聞こえた気がして、幹夫ははっと顔を上げた。薄暗い茂みの向こうで、小さな白いものが動いたように見えた。幹夫は立ち上がり、袖で涙を拭いながらそっと近づいてみた。すると、茂みの隙間から一羽の子ウサギがぴょこんと飛び出してきた。茶色の毛並みにまだ幼さの残る小さな野兎だ。子ウサギは幹夫を見ると一瞬身を強ばらせたが、すぐに興味深そうに鼻先をひくひくと動かした。幹夫も驚かさないようにゆっくりとしゃがみ、「こんにちは。ぼく、迷子になっちゃったんだ」と優しく話しかけた。子ウサギは首を傾げてこちらを見ている。幹夫は続けて「おうちに帰りたいんだけど、道がわからなくなったんだ。きみはどこから来たの?」と尋ねてみた。子ウサギはくるりと後ろを向き、少し跳ねてからまた振り返った。まるで「ついておいで」**と言っているように見えた。
幹夫は藁にもすがる思いで立ち上がり、子ウサギのあとを追った。子ウサギは草むらをするすると進んでいく。ときおり立ち止まってはこちらを見て、ちゃんとついてきているか確認するかのようだ。幹夫は半信半疑のまま、その小さな案内人に導かれて森の中を歩いた。しばらく行くと、ざあっと草木が開けた。視界が広がり、先ほどまでとは違う夕焼け空が目に飛び込んでくる。黄金色と橙色が溶け合う茜空の下に、見覚えのある里山の輪郭が浮かび上がっていた。幹夫の胸にぱっと安堵の明かりが灯った。**「ここは…!」**振り返ろうとすると、子ウサギの姿はもうどこにも見当たらなかった。
第四章 夕暮れの幻想
森を抜けた先は、幹夫が今朝通った丘の上の野原だった。夕暮れの光が穏やかにあたりを包み込み、先ほどの不安が嘘のように和らいでゆく。幹夫は茜色に染まる草原の真ん中に立ち尽くし、しばしその光景に見惚れた。空にはうっすらと三日月が浮かび、宵の明星が瞬き始めている。野原の花々も昼間とは違う表情で、夕陽を浴びて黄金や紅に輝いていた。菜の花畑は夕焼けと溶け合ってオレンジ色の海のようだし、蓮華草は茜雲を映した薄紅色の鏡のようだ。ふと吹いた風が野原を渡り、草花が一斉にざわめいた。ざわわ、ざわわ——それはまるで見送りの拍手のようでもあり、夕べの歌声のようでもあった。
幹夫は草の上にそっと膝をつき、小さな手で蓮華草を一輪撫でた。**「ありがとう」**と心の中で呟く。自然とともに過ごした一日が、自分にとってかけがえのない宝物になったことに気づいたのだ。今朝感じた胸の高鳴りも、森で味わった孤独の痛みも、すべてが今の自分を満たしている。風が優しく頬をなで、どこからか沈丁花(じんちょうげ)の甘い香りがただよってきた。夕空には一番星がきらりと輝き、幹夫に向かってウインクしたように思えた。幹夫は小さく笑みを漏らす。自分はもう独りぼっちではない——そう感じられた。
そのとき、不意に背後から**「幹夫!」と呼ぶ声がした。はっとして振り向くと、丘の下からこちらへ駆け上がってくる人影が見えた。次兄の信吉だった。信吉は息を切らしながら幹夫に駆け寄ると、ぱっとその肩に手を置いた。「幹夫、こんなところにいたのか! 探したんだぞ」真っ赤な夕陽に照らされた兄の顔には、安堵と叱責の色が入り混じっている。幹夫は「ごめんなさい…」と項垂れた。しかし信吉はすぐにふっと表情を緩め、「無事で良かった。皆心配してたんだぞ」**と優しく頭をくしゃりと撫でた。兄の手のぬくもりに、幹夫の胸にまた熱いものが込み上げてくる。涙とは違う、不思議な暖かさだった。
第五章 家路(いえじ)
薄暗くなった山道を、兄弟は肩を並べて歩いた。蛙の合唱が田んぼから聞こえ、空には無数の星が瞬いている。信吉は懐中電灯を片手に草むらを照らしながら、**「まったく、母ちゃんも心配して泣きそうだったんだぞ」と笑った。幹夫は「ごめんね」と繰り返した。叱られるかと思っていたが、兄はそれ以上何も言わず、代わりに上着を脱いで「これ着とけ、冷えるから」**と幹夫にかけてくれた。幹夫はその上着にくるまりながら、優しい兄の横顔をそっと盗み見た。家ではいつも賑やかで遠慮がちな自分だったが、こんなふうに大事に想われていることが胸にしみて、また涙が出そうになった。
家に着くと、母が玄関先で待っていた。幹夫の姿を見るなり、母はぱっと駆け寄り強く抱きしめた。**「幹夫、無事でよかった……!」その声は震えていた。幹夫は「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も謝った。母は首を振り、「いいのよ。もう大丈夫」と言って幹夫の背をさすった。兄弟たちも縁側から顔を出し、口々に「心配したんだぞ」とか「どこ行ってたんだよ」**とか言っている。いつも騒がしいだけに思えた家族の声が、今はとても温かくありがたいものに聞こえた。
その夜、夕食を終えた幹夫は布団に入ってもなかなか眠れなかった。窓の外には丸く輝く月が昇り、庭先の柿の木を銀色に照らしている。虫の音が鈴のように響き、遠くでフクロウがホーホーと低く鳴いた。幹夫は布団を抜け出し、そっと外に出て月明かりを仰いだ。春の夜気はひんやりしていたが、心は不思議と満ち足りて暖かかった。ポケットに手を入れると、昼間しまった桜の花びらがしっとりと指に触れた。幹夫はそれを取り出し、月明かりにかざしてみた。薄紅の花びらは透き通るようで、小さな光を受けて淡く輝いていた。
「また来年も会えるから大丈夫」——あのとき桜の木が囁いた言葉を、幹夫は思い出していた。春はめぐり、花はまた咲く。そして自分もまた新しい朝を迎えるたび、昨日とは違う自分になっていけるのだろう。幹夫は花びらを胸に当て、静かに目を閉じた。今日一日で、自分の中に何かが芽生えたのを感じる。それははっきり形を取るものではないけれど、野原で見た無数の若葉や花たちのように、小さな心の芽がふくらみ始めた感覚だった。
「おやすみ、花さん。おやすみ、風さん。おやすみ、今日出会ったすべてのもの……」幹夫は胸の中でそっと挨拶し、部屋へと戻った。布団に入ると、不思議なくらいすとんと眠気が訪れてきた。瞼の裏に、夕焼けの野原や森の仲間たちの姿が浮かんでは消える。こうして幹夫少年の春の一日は幕を閉じた。しかし庭の柿の木の先端では、新しい明日を待ちながら、小さな小さな蕾(つぼみ)が月明かりの下で静かにほころび始めていたのである。





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