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昭和九年(1934年)

一月上旬:正月の印刷所と抱負

年が明け、東京の下町は新年を迎える活気とともに、どこか重苦しい噂話も漂い始めていた。印刷所では元旦明けの業務始動にあたり、社長が職人全員を集めて小さな新年会のような場を設ける。そこには戸田幹夫堀内をはじめ、年配の職人や若手も顔をそろえた。

社長は簡単な挨拶を終え、軽い飲み物や茶菓子を振る舞いながら、全員に「今年こそ軍の仕事一辺倒ではなく、民間向けの印刷も伸ばしたい」と抱負を述べる。戸田がその場で「私も昔の商社コネを生かして営業を仕掛けよう」と提案し、堀内は「職人たちが士気を失わず、やりがいのある仕事が増えるなら大歓迎だ」と頷いた。幹夫は控えめにうなずきながら、心の中で(でも軍の影響はますます強くなるって噂が絶えないんだよな……)と懸念を抱く。最近の新聞には軍部の声が一段と大きくなる兆候が書かれている。一方で、正月の晴れやかな空気のなか、職人同士が「今年は良い一年にしたい」「軍に飲まれず踏み止まれるといいがな」と口々に交わす言葉には、まだ希望が灯っていた。

一月中旬:幹夫の帰省と静岡の茶畑

新年会のあと、幹夫は年始のあいさつを兼ねて数日だけ静岡に帰省した。下町から汽車に乗り、雪の残り香がある道を越えて実家へ向かう途中、「飛行場拡張が一時凍結」との話は本当か確認しようという思いが募る。到着した実家では、父・明義が懸命に茶畑を見回っており、「軍の飛行場計画はいまのところストップしているが、どこかで再開する可能性はある」と渋い顔を見せる。しかし、「町役場の陳情が功を奏して、拡張を急ぐ必要はないと軍が判断したらしい。とはいえ、安心するにはまだ早い。周囲には不穏な空気が残っているのを感じる」とも語った。

幹夫は父とともに畑の一角を歩き、寒風にさらされる茶の木を見つめながら、「一時凍結でも、人々がこうして生活を立て直す余裕ができるのは大きいよね」と声をかける。明義は頷きつつ、「おまえの印刷所は大丈夫か? こっちも軍の存在がちらつくと落ち着かないが、東京のほうがよほど大変だろう」と案じる。幹夫は「それでも社長や戸田さんが民間仕事を増やそうと必死です。俺も今年はふんばりたい」と答え、二人で家に戻る道すがら、しんしんと冷える風のなか「東京と静岡を繋ぐ風鈴の音を、いつかしっかり鳴らしたい」と胸のうちで誓うのだった。

このあとの展望

一月の下旬、幹夫は東京へ戻り、印刷所に復帰。静岡の茶畑がとりあえず無事であることに胸をなで下ろしつつも、軍の動きを警戒する日々が始まる。職人たちも新年の抱負を語り合ったばかりだが、月末になると「軍が何を仕掛けてくるか分からない」という漠然とした不安が色濃くなる。しかし、幹夫の心の隅には父の「いまは一時凍結だが、すぐには消えない不穏さ」という言葉が焼きついている。東京の印刷所でも同じような緊迫感が漂うなか、二つの土地を守り抜くには、まだ長く険しい道が待っていると感じられるのだった。


序幕:二月の足音

 一月の終わり頃から、東京の下町は寒さが一段と厳しさを増していた。 幹夫にとっての二月初日、早朝の印刷所は重たい空気に包まれ、職人たちは寒風に身を縮めながら作業台へ集まる。新年の抱負を語り合ってからまだ一ヶ月も経たぬうちに、すでに**「軍の影響力」**という重石が日常をじわりと締めつけていた。 そんななか、戸田が手持ちのノートを開いて「民間営業のリスト」を見直し、堀内は機械のメンテナンスをしながら職人たちに声をかけている。少しでも心が折れないよう、作業効率の向上や賃金のやりくりを考えていた。

 一方、幹夫は下宿を出る前に**父(明義)**から届いた書簡を読んでいた。そこには「相変わらず拡張は凍結中だが、油断はできない。町役場が“春先の農繁期に備え、軍の視察が来たらどう説明するか”を検討中だ」という内容が綴られていた。 「父さん、まだ根を詰めてるな……体調も気になるけど、きっと踏み止まってくれてるんだ」 幹夫は懐に手紙をしまい込み、寒風の吹く路地を小走りに印刷所へ急ぐ。二月が、東京と静岡にとってどんな試練を運んでくるか、まだ誰もわからない。

第一章:東京・印刷所の新たな営業

二月上旬、戸田が切り盛りする「民間拡張計画」は少しずつ形になり始めた。

  • ある私立学校から「学芸会のパンフレット」印刷を頼まれる。規模は小さいが、軍の仕事以外の注文は久々で、職人たちはやや張り切った。

  • 町内会向けに、年度末の行事案内チラシ作りの相談を受ける。軍のポスターと違い、柔らかなデザインを求められ、職人たちは「やはりやりがいが違う」と語り合う。

 しかし、表立って大きく宣伝はできず、戸田は「軍の依頼をないがしろにしていると思われては危険」と警戒する。社長も「上手く調整しなければ、警察に目をつけられるぞ」と釘を刺す。 幹夫はそんな戸田や社長の姿勢を見て、**「いまのところ民間案件と軍案件をバランスできている」**ことに小さな希望を感じつつも、「いつそれが崩れるか分からない」と心をやきもきさせる。

第二章:静岡からの追加情報

二月中旬、幹夫のもとへ父からの書簡が届く。

  • 内容は、「町役場が今年の春を“勝負所”と見て、農民へ茶畑の拡大を促す一方で、軍がもし来た際に見せる『農地計画書』を作成している」という話。

  • 父も関わっており、陳情書に加え「農地がどれだけ地域経済に寄与しているか」を具体的に示すため、過去の収穫量や売り上げのデータをまとめているらしい。

 しかし、父の筆致には疲労がにじみ、「あまり長くは動き回れないが、ここで止まるわけにはいかない」と書かれていて、幹夫は胸が痛む。「父さん……本当に大丈夫だろうか」と呟きつつも、自分が駆けつけるには東京の仕事が山積みだ。 「俺がここで踏み止まるからこそ、静岡も踏み止まれる」――そう言い聞かせるように、幹夫は手紙を机にそっと置いた。

第三章:警察の巡回強化

二月下旬、東京では警察の巡回が目に見えて増えてきた。

  • 近隣でビラがまかれたという噂が再燃し、職人たちが「またか……」と冷や汗をかく。

  • 堂々と紙を外に流すなど論外で、戸田や堀内も「今は絶対に避けよう。職人たちの安全を守るためにも」とくぎを刺す。

 幹夫は夜の帰宅時、下宿へ戻る路地で警官とすれ違うと、思わず怯えてしまう。「もし俺がビラに関わってると疑われたら、印刷所も父の陳情も台無しだ……」と脳裏をかすめる。 翌朝、廃材置き場を覗いても、あの黒い影や紙きれは見当たらない。しかし「ビラが消えたわけではない」と感じられるだけに、不気味な安堵と裏腹の緊張が幹夫の胸を締めつける。

第四章:二つの音、遠く響く

同じ頃、静岡では父が役場からの依頼で**「農地計画書」**の一部をまとめ、幹夫に「東京で表紙や図表を整える印刷ができないか」と打診の手紙を送る。

  • しかし、幹夫は軍の仕事が優先される現状を考え、「そう簡単には受けられないかもしれない」と返事を出す。

  • とはいえ、戸田は「できるだけ協力するよ。表向き“地域農業の研究資料”の体裁にすれば、軍にも怪しまれないだろう」と提案。

 二月下旬のある晩、幹夫は下宿で風鈴を見つめながら、父の依頼について考えあぐねる。「紙は少し出せるかもしれないが、大々的に印刷すると軍に目を付けられる恐れが……」 しかし、風鈴を軽く揺らすとチリンと短い音がし、まるで「静岡と東京を繋ぎ続けるんだ」と励ましてくれるように感じられた。幹夫は腹をくくり、「父さんの計画を助けるため、戸田さんや堀内さんと相談しよう」と決意する。

結び:二月の終わり、そして翌月へ

二月が終わる頃、東京の印刷所は**「民間仕事の小さな案件」**をいくつか達成し、職人たちの士気が少しだけ上向くが、同時に軍からの依頼も増える兆しがある。社長は「来月はさらに忙しくなりそうだ」と嘆く。一方の静岡は、三月からの農繁期を前にして「一時凍結」を逆手に取り、少しでも茶畑の生産を伸ばそうと努力している。父は相変わらず体調を押して働き、周囲の農民や役場職員と協力して、いつまた軍が“再拡張”を言いだしても反論できる材料をそろえていた。幹夫は二月を振り返り、二つの風鈴はこの月ほとんど鳴らなかった気がするが、その存在は確かに自分の心を支えていると思い返す。「三月こそ、少しでも前に進みたい。父さんや戸田さん、堀内さん……みんなで音を合わせたいな」と、まだ寒さの残る夜風を浴びながら小さく微笑む。こうして二月は静かに幕を閉じ、東京と静岡、二つの音を繋ぐ闘いはゆっくりと三月へと移っていくのであった。


序幕:三月の雪解けと新しい動き

 二月を経て、東京の下町はまだ冷え込みが残るものの、暦の上では春が近づき始める頃。 印刷所の朝礼で、社長がいつものように職人たちに声をかける。「今月は軍の注文と民間仕事をさらに両立させねばならん。新しいクライアントとの契約も進めたい。一段と忙しくなるぞ」 幹夫堀内、そしてアドバイザーのような立場となっている戸田は、この言葉を胸に、ギリギリのバランスを保つ心構えを新たにする。 同時に、ここ二か月ほど比較的落ち着いていた警察の巡回も、いつまた“ビラ弾圧”を強化するかわからない。いわば“雪解けのような緩み”を感じつつも、常に刺すような警戒感が背後に漂っている、そんな三月のスタートだった。

第一章:民間案件の増加

三月上旬、戸田が営業で得た成果が少しずつ形となり、印刷所にはこんな依頼が来始める。

  • 私立学校の年度末記念冊子の作成

  • 地域の商店会が春の特売を告知するチラシ

  • 町内会の防災案内パンフ(名目は防災だが、実質的には住民連絡用の軽い冊子)

 幹夫たち職人は、軍向けのポスターや伝票を刷る一方で、これら民間仕事を合間に差し込むことで、単調な戦意高揚印刷から救われていた。 「このパンフ、デザインが柔らかくて面白いな」「学校の冊子は、我々も意外と腕が鳴る」という声が職場で飛び交い、堀内も「まるで活気が戻ったみたいだな」と微笑む。 しかし社長は慎重な表情を崩さない。「こういう案件が増えるほど、軍の“印刷優先権”をいつ突きつけられるか分からないから、調整には気をつけねばな……」と戸田に耳打ちし、二人で在庫管理の書類を睨む日々である。

第二章:静岡からの手紙と春の兆し

三月中旬、幹夫のもとに**父(明義)**からの手紙が届く。

  • 「ようやく春めいてきて、茶畑の準備が本格化している。まだ拡張計画の再開は聞かないが、役場での陳情は継続中だ。油断せず、地域の農業活性化に力を注いでいる」

  • 「おまえの印刷所がうまく民間仕事を増やしていると知って安心した。こちらも“小冊子”がまだ読まれているぞ」という近況。

 幹夫はそれを読み、ほっと胸をなで下ろす。父の体調を気づかいつつ、少なくとも茶畑が順調に春を迎えていることは何よりだと感じる。 「俺もここで頑張ってるから、父さんも踏み止まってほしい……」と呟いたとき、背後で堀内が「大丈夫か? また静岡のこと考えてるのか」と声をかける。幹夫は笑みを浮かべ、「うん、いい報告があったから安心したよ」と返事。 印刷所の中には春の日差しが少しずつ差し込み、職人たちが寒い冬から解放されたように生き生きし始めていた。

第三章:警察の再巡回とビラの影

三月下旬に差しかかる頃、再び警察が近隣の印刷所や紙問屋を巡回し始めるという噂が流れる。

  • 「地下でビラを刷る連中がいるらしい」「用紙を不正に流す業者があるかもしれない」といった囁きが、下町を駆けめぐる。

  • 幹夫は、昔あった黒い影(ビラを必要とする人物)からはこのところ連絡もなく、警察の巡回に神経を尖らせるしかない。

 ある晩、幹夫が帰宅する途中、警察の懐中電灯が路地をスキャンするのを目撃し、ヒヤリとする。幸い、特に何も見つからず職人仲間にも被害はなかったが、戸田は「またか。最近増えてきた軍の動きと連動しているのだろう。印刷所は当面、在庫や帳簿のごまかしに気をつけないといけない」と頭を抱える。 堀内は「民間仕事を歓迎してくれてる職人も、こうした巡回が続けばいずれ怯えて辞めてしまうのでは……」とため息をつくが、幹夫は「今のところはやりようがある」と微笑して励ます。(静岡も、まだ踏み止まっている。ここで挫けるわけにはいかない……)

第四章:二つの風鈴、かすかな調べ

三月下旬、春の陽気が増し、気温がようやく暖かさを帯び始めるなか、幹夫は下宿での夜を静かに過ごす。

  • 窓を開けると、二つの風鈴がわずかに揺れ、チリンという音が短く重なる瞬間があった。

  • 「ああ……鳴った。父さんのほうも春めいてるんだろうか……」と幹夫は独り言を言いながら、ふと父の茶畑に思いを馳せる。

 このとき、幹夫は翌月に向けて「父がさらなる農業活性の資料をまとめたいと言っていたが、こちらの印刷所でも何か助けになるかもしれない」と考えている。しかし、軍や警察の監視がこれまで以上に厳しくなる予感もあり、踏み込みづらさを感じていた。 夜風はまだ冷たいが、そこにわずかな春の香りも混じる。二つの風鈴のか細い音が昭和九年三月の終わりを告げるように、チリン…と短く響いては止んだ。

結び:新しい春へ向けて

三月が終わろうとする頃、東京と静岡それぞれが、「春の訪れ」を前にして新たな局面を迎えていた

  • 東京では印刷所が民間仕事を少しずつ軌道に乗せながら、軍の命令への対処を同時進行し、職人のモチベーションを辛うじて保っている。

  • 静岡では父が町役場と協力し、茶畑の収穫や新年度の農地計画を推進。拡張再開の話はまだなくても、警戒は続く。

幹夫は二つの風鈴を見つめ、「次の四月には新学期も始まり、印刷所の民間案件も忙しくなりそうだ。警察の巡回が厳しくなるかもしれないが、ここで踏み止まらないと……」と胸中を固める。こうして昭和九年(1934年)の三月は、東京の下町に淡い桜の気配を運ぶと同時に、軍や警察による統制の影も深く落とす。一方で静岡の大地にも春が訪れ、新たな萌芽を育んでいる――二つの土地が同じ春を感じながら、依然として風鈴の音をかすかに共有するかのような、一か月であった。


序幕:春色の気配と軍の影

 三月の終わりにかけて東京の下町は寒さが和らぎ、町角には淡い桜が咲き始めた。 印刷所の前にある小さな植栽にも若葉が茂り、職人たちの口からは「今度の休日は花見でも……」という話題がちらほら出るようになっている。 しかし、そんな春色の柔らかさとは裏腹に、軍と警察による監視の度合いは少しずつ上昇傾向にあり、幹夫や戸田、堀内らは危機感を抱きながらも、印刷所を何とか民間案件で盛り上げようと奮闘していた。

第一章:新学期に向けての民間案件

四月上旬、私立学校や町内会からの小さな案件がさらに舞い込み、職人たちは初めて経験するほどの「民間印刷ラッシュ」を体感していた。

  • 新学期の教科書補助冊子や、部活動の紹介パンフレット

  • 地元企業が春の大売り出しを告知するチラシ

  • 桜の季節に合わせた地域イベントのポスター

 幹夫は新鮮なデザインや編集作業に携わり、「こんなにも自由度のある仕事をやれるなんて、ちょっと夢みたいだ」と微笑む。戸田も「これがもっと増えれば、軍の依存度を下げられるのだが……」と淡い期待を口にする。 一方で、社長は「警察の巡回がいつ来てもおかしくない。民間仕事を大っぴらに宣伝すれば、軍の目が厳しくなる」と警戒し、堀内は在庫管理と帳簿の操作に頭を悩ませる。(軍の宣伝ポスターを刷りながら、在庫を民間用に回すのは綱渡りだ……)

第二章:静岡からの花だより

四月中旬、幹夫のもとに父(明義)から手紙が届く。封を切ると、春先の茶畑の写真とともに「今年は花が早く、畑の周囲に桜が咲き乱れている」という近況が書かれていた。

  • 「拡張の再開は今のところまったく話が出ない。役場も農民も、この期間に生産力を高めようとしている。茶の葉がそろそろ芽吹き、昨年よりも活気がある気がする」

  • 「おまえは印刷所で大丈夫か? 春だからといって気を緩めるなよ」との注意も添えられている。

 幹夫は嬉しさを感じつつ、少し戸惑う。静岡では**“軍が動かずに平穏が続いている”**一方、東京では警察と軍の影が着実に伸びているからだ。 「父さんがせっかく落ち着いているのに、こっちが引きずられてどうにもならない状況にならなきゃいいけど……」 春の温かな風が下宿の窓から吹き込み、二つの風鈴をほんのわずかに揺らすが、その音はかすかで幹夫の耳には届きそうで届かない。

第三章:警察巡回のさらなる強化

四月下旬に差しかかると、警察による印刷所の確認が再び行われる。

  • 近隣で小さなデモが起きたという報せがあり、「ビラを配る不穏分子がいる可能性がある」として、警官が工場周辺を巡回。

  • 作業台の紙や在庫をじろじろと見られ、職人たちは息をのむ思いをする。

 戸田は笑顔を崩さずに、「うちは学校や企業の仕事をしており、軍の依頼もきちんとこなしています」と説明。社長も「納期も間に合わせ、問題ありません」と受け答えする。 警官は無表情で書類をめくりながら「まあ怪しいところは見当たらないが……監視は続くぞ。国策に背く印刷をしたら一発で摘発だからな」と警告を残して引き上げる。 堀内は警官の足音が遠のいた後、椅子にへたりこむ。「もう、心臓に悪いな……。それにしても、一歩間違えれば俺たちも終わりだよ」 幹夫は内心で「ビラの話はもう完全に関わりを絶たないといけないかもしれない」と強く思い、その夜、下宿で風鈴を見つめながら苦悩を深める。

第四章:新学期を終えて

四月最後の週、私立学校の新学期行事が終わり、印刷所が請け負ったパンフレットや小冊子は好評を博した。

  • 職人たちが「久々に、軍のポスターじゃない仕事が嬉しかった」と語り合い、社長も「この評判が大きくなれば、次の仕事が来るかも」と期待を示す。

  • 戸田は「軍が五月に入って大きなキャンペーンを打つ気配がある」と情報を集めながら、「今のうちにもう少し民間案件を確保できれば……」と営業リストを再チェック。

 一方、幹夫は静岡の父に短い返信を書き、「東京でも新学期印刷が成功して、職人が少しやる気を出しています。そちらも茶の芽吹きが順調そうで安心しました」と伝える。 自身は心に引っかかる警察の巡回を拭い去れないまま、やや複雑な思いでペンを走らせる。(四月を乗り切ったが、五月はどうなる……?)

結び:桜の散る頃、二つの音が遠く鳴る

四月の終わり、桜が散りゆく下町の路地で、幹夫はひとり下宿へ帰りながら夜風に当たる。そこでふと、懐から父の手紙を取り出し、「まだ静岡は穏やかなのに、なぜ東京はこんな重苦しいんだ……」と、ため息をつく。しかし、下宿の扉を開け、二つの風鈴を見た瞬間に胸が軽くなる。それぞれが微妙に形状を変え、錆びが進んでいても、「静岡と東京が繋がっている」ことを象徴する存在には違いない。夜風が窓から吹き込み、チリンとごく短い音が鳴る。幹夫は耳を澄ませ、「まだ鳴ってくれる……」と微笑む。四月が終わり、五月に向かうなかで軍の監視や警察の取り締まりは続くだろうが、**“二つの土地”**がそれぞれの春を生き抜いているのだ。こうして昭和九年四月は、東京の印刷所が民間仕事で息を吹き返す一方、警察の監視がじわじわ重くのしかかる“桜色と暗雲”の月として幕を閉じ、次なる季節へと移行していく。


序幕:日差し強まる初夏の下町

 四月が終わり、東京の空気はぐっと暖かみを増し、五月の初夏の陽気が下町を包みはじめる。 印刷所の周辺でも初夏ならではの活気がちらほら見受けられ、通りを行き交う人々は、春先の桜模様の着物から単衣へと衣替えを進めつつあった。しかし、その穏やかな季節感とは裏腹に、軍と警察の視線が依然としてじわじわ迫っているという噂が絶えない。

第一章:民間仕事の好調と戸田の葛藤

五月上旬、社長から「先月に続き、学校や地域の町内会から追加のパンフ制作依頼が来ている」と発表があり、職人たちは一様に喜ぶ。

  • ある小学校では「子どもの日」に合わせた行事冊子を急ぎで作りたいという相談が持ち込まれる。

  • 近隣商店会も「初夏の感謝祭」チラシの第2弾を依頼してくる。

 幹夫や堀内は「軍からの厳しい仕事ばかりじゃないなら、少し気が楽だ」と口にし、戸田も「これでまた印刷所の評判を固められる」と意欲を燃やす。 ところが、その一方で戸田は顔を曇らせ、「軍が近々、大規模な戦意高揚キャンペーンをするという話を耳にした。もし正式に依頼されれば、大量のポスターや宣伝紙を印刷させられるだろう。民間向けに時間を割けるかどうか……」と、不安を隠せない。

第二章:静岡の茶畑、五月の収穫

五月中旬、幹夫は忙しさの合間をぬって、父(明義)からの新しい手紙を開く。そこには「茶の新芽が順調に伸び、今年は良い葉が採れそうだ」という嬉しい報告があった。

  • 「役場の支援もあり、農民がやる気を出している。いまのところ軍の飛行場拡張は再開しないとの噂が多く、茶畑が守られている状態だ」

  • 「おまえの言っていた“印刷所が民間仕事を増やしている”という話も励みになる。そちらも頑張れ」との激励もある。

 幹夫はほっと胸を撫で下ろし、「五月の茶畑はまさに繁忙期だから、父さんも体には気をつけてほしい」と思いつつも、戦意高揚の波が全国を覆いはじめる気配を感じ、「いつ静岡に軍が振り向いてもおかしくない……」と警戒を緩めない。

第三章:警察巡回の強化とビラの行方

五月下旬に差しかかるころ、下町一帯で警察の巡回が再強化される。

  • 「支那事変への協力」を呼びかける軍の演説会が近くで行われるという情報に伴い、反戦ビラが出回る可能性があると警察は疑っているらしい。

  • 印刷所の廃材置き場にも巡回の目が向かい、職人たちは落ち着かない日々を送る。

 堀内が「もしビラ勢力がまた紙を求めてきたら、もう応じられないな……」と幹夫に耳打ちすると、幹夫は申し訳なさそうに視線を落とす。「ここまで頑張ってきたけど、今は事実上ほぼ無理だろうね……。でもビラはきっと、別のルートで出回ってるかもしれない」とささやく。 戸田は民間仕事に集中しながらも、「いつ軍から“ポスターを増産しろ”と言われるか分からない」と在庫管理に神経を尖らせている。

第四章:初夏の陽と風鈴の音

五月も残りわずかになる頃、夕刻の下宿では薄い夕日が窓から入り、二つの風鈴がかすかに揺れている

  • 幹夫は机に広げた書類を片付け、父から送られた茶葉で淹れたお茶をすする。

  • 「今日は少し風があるな……」と小さくつぶやき、ふと窓を開け放つと、二つの風鈴が**チリン……**と重なる瞬間がある。

 「ああ、鳴った。静岡ではちょうど摘み取られた新茶が香ってる頃かな……」幹夫はそう思いながら、父の姿を脳裏に浮かべる。まだ拡張は再開されていないが、いつどう動くか分からない軍――東京も静岡も、結局はその不安を抱えたままだ。しかし、五月の初夏の光に包まれた風鈴の音は、ほんのひととき幹夫の心を温かくしてくれるのだった。

結び:夏へと続く影

月末、印刷所では次の月(六月)の案件や、軍の新たな依頼に備えて準備を急ぐ。社長が「民間仕事が順調なのはいいが、軍ににらまれぬよう気をつけねば」と職人たちに強調し、戸田や堀内が「六月はさらに忙しくなるだろう」とスケジュール調整に走り回る。静岡では春の茶摘みが終わり、町役場が「陳情の更新」を検討しており、父が少し疲れをにじませながらも「まだ大丈夫だ」と幹夫に手紙で報告している。こうして昭和九年五月は、東京の印刷所がある程度の民間仕事で勢いを増しつつ、警察の監視に怯える綱渡りが続く月となった。一方、静岡は茶畑が良い収穫を迎え、軍の動きが静かな今をチャンスと捉えて力を蓄えている。二つの土地に同時に吹く初夏の風は、二つの風鈴をかすかに揺らしながら、次なる六月へ向けたさらなる試練と希望を予感させるのだった。


序幕:梅雨入りの足音

 五月の終わり、初夏の陽気が漂いはじめた東京の空に、どこか湿度の高い風が混じりだす。梅雨入りの気配を感じながらも、印刷所の職人たちは目の前の仕事に追われ、季節の移ろいをゆっくり味わう余裕はあまりない。 しかし、幹夫は下宿で窓を開け、二つの風鈴を眺めながら「六月か……もう一年の半分が過ぎるのか」と想いにふける。外からはちらほらアジサイの花の色が覗き、梅雨入り前の静けさを漂わせていた。

第一章:軍の大規模キャンペーン

六月上旬、印刷所に入ってきた大きな知らせは「軍による戦意高揚の大規模キャンペーンが本格化するかもしれない」というものだった。

  • 社長が社員を集め、「ついに来るか……もし正式に依頼されたら、徹夜続きになるし、民間案件をこなす余裕も減るだろう」と苦い顔をする。

  • 戸田は在庫リストを再度チェックし、「仮に依頼が来たら、できるだけ“予想より少ない部数”に誘導する作戦を考えよう」と提案する。

  • 幹夫や堀内も「民間仕事を取りこぼしてしまえば、せっかくの評判が落ち、また軍への依存度が上がる……」と頭を抱える。

 いわば「軍の圧力がこれから一気に高まるかもしれない」という予感が、印刷所の空気を重苦しくしはじめる。職人たちは六月に入ったばかりなのに疲労感を覚えつつ、必死で歯を食いしばっていた。

第二章:民間仕事の仕上げと戸田の苦心

六月中旬頃、軍の正式な依頼がまだ来ない段階で、印刷所は先月からの民間案件を急ぎ仕上げる。

  • 学校向けパンフの増刷分や、商店会の夏季イベントチラシなどを印刷し、納品する。

  • 職人たちは「こっちの仕事は本当にやりがいがあるが、いつ軍が大口注文を押し付けてくるか分からないから、落ち着かない……」と漏らす。

 戸田は「この隙に少しでも印刷所の評価を上げ、市民や学校側から“あの印刷所は丁寧で腕がいい”と評判を広めてもらえば、軍だけに頼らない道が広がるかも」と皆に檄を飛ばす。 それを聞いた幹夫は心強く思う反面、「軍が本腰を入れてきたら、そんな評判は簡単に消し飛ぶのでは……」と脳裏をよぎる。確かに評判や繋がりは大事だが、軍の力はそれ以上に絶大なのだ。

第三章:静岡と梅雨入りの便り

六月下旬に入る頃、雨がしとしとと降り始め、東京は梅雨入りを迎える。蒸し暑い空気のなか、幹夫のもとへ父(明義)からの手紙が届く。

  • 「こちらも梅雨に入り、茶畑の手入れが大変だが、恵みの雨とも言える。飛行場拡張は依然として静かだが、油断はできない。農民の意欲は落ちていないし、今年の茶葉の品質は上がっている。」

  • 「おまえも警察の巡回や軍のキャンペーンが来るだろうが、体を壊さぬように」との気遣いもある。

 幹夫は心が少し安堵し、「静岡の茶畑が順調なら何より。でも父さんも梅雨の時期は無理しがちだろう」と想いを巡らせ、懐かしくあの緑の光景を脳裏に描く。 同時に、「東京は本当にいつ爆発するか分からない火薬庫のよう……」と考え、風鈴を横目で見やりながら、父の言う「油断はできない」という言葉が身に染みる。

第四章:警察と軍の動き、そして風鈴の音

六月末、ついに軍から「大口の戦意高揚ポスター」の試作依頼が入る。

  • 社長が顔を曇らせ、「やはり来たか……。枚数はまだ不確定だが、徹夜が続くかもしれんぞ」と職人たちに宣言。

  • 戸田は試作段階で部数を抑えこもうとするが、軍担当者が「必要なら何万でも刷ってもらう」と強気の姿勢を見せ、先行きは暗い。

 一方、警察の巡回情報がさらに増え、「下町に潜む反戦ビラ勢力を一網打尽にする」などと噂される。職人たちは「もし巻き込まれたら……」と青ざめるが、堀内は「とにかく在庫管理の帳尻を合わせるしかない」と口を結ぶ。 夜、幹夫は下宿へ帰ってきて、窓辺に吊るされた二つの風鈴を見た。雨のしずくがわずかに紐を濡らし、鈴が微妙に揺れて**チリン……**という短い音を立てる。 「六月も終わりか……次の月から、本当に地獄かもしれない。でも父さんの茶畑が今は守られている。その間に俺たちが耐えれば、きっと二つの土地は繋がっていられる……」と口にし、幹夫は目を閉じて自分を奮い立たせる。

結び:梅雨の雨と小さな光

六月が終わろうとする頃、印刷所は軍の試作ポスターに神経を注ぎ、民間仕事はしばらく低調になりそうな様子。職人たちは「今のうちに用紙やスケジュールを整え、あわよくば少しずつ民間案件も並行したい」と必死で動いている。静岡からは「夏に向けた農作業が本格化し、父さんが忙しくしている」という便り。飛行場拡張の話が出ないまま夏を迎えられそうで、町役場も喜んでいるらしい。東京は梅雨の雨が続き、下町の道路は水たまりだらけだが、夜になれば幹夫は下宿で二つの風鈴を揺らし、わずかな音に耳を澄ませる。(まだ、音は続いている……)――そう感じて、七月への不安と期待が入り混じったまま、六月をそっと締めくくるのだった。


序幕:雨の終わりと蒸し暑い街

 六月の終わりに降り続いた雨が上がり、東京の下町には梅雨明けを思わせる蒸し暑さが立ちこめ始めた。 印刷所の屋根からポタポタと垂れていた雨滴も次第に乾き、空にはギラリと夏の太陽が顔を見せる。朝から気温が上がり、職人たちは「もう夏本番だな」「扇風機が欲しい」などと口々に言いながら、作業着の袖をまくっている。 幹夫はそんな姿を横目に見つつ、「六月までにも随分忙しかったけど、七月がどうなるか……軍のポスターの大口注文が控えてるかもしれない」と、気持ちを引き締めていた。

第一章:軍の大口依頼、正式化

七月上旬、ついに軍から正式な指示が下り、「戦意高揚ポスターを数万部単位で刷れ」という依頼が印刷所に届く。

  • 先月の試作段階では部数を抑えようと戸田や社長が工夫したが、ここで大幅に増産を求められ、避けられない労働が確定する。

  • 職人たちは「こんな量、夜通しの作業でも追いつかないのでは……」と顔を曇らせる。

 戸田は密かに社長と話し合い、「せめて短期納期にしないよう交渉しよう。部数はどうにもならないが、期限を少し延ばせれば、その合間に民間の案件も続けられる」と提案。 しかし、軍の担当者は容赦なく「できるだけ早く仕上げろ」と迫る。幹夫は思わず唇を噛み、「これでせっかく育てた民間仕事がいくつか断らざるを得ないかも」と心を痛める。 堀内は在庫倉庫を見回しながら、「紙が足りるかどうか……管理がますます大変になるぞ。下手にごまかしたら警察に目を付けられる」と溜息をつく。

第二章:民間客の落胆

七月中旬になると、学校や商店会などから新たな依頼が来るものの、印刷所は軍のポスター印刷にフル稼働しており、全ての民間案件を引き受けられない状況に陥る。

  • 職人たちは「軍の仕事を断ったら摘発されかねない……仕方がないよ」と割り切ろうとするが、これまで民間に尽力してきた幹夫や戸田はやるせない思いを抱く。

  • 戸田が「少しだけ刷れるものは引き受けたいが、徹夜も何度かこなしている。体力的にも厳しい」と苦悩。

 一部の民間客は「せっかく評判を聞いて頼もうと思ったが、忙しいなら仕方ない」と諦め、別の印刷所へ流れていく。幹夫は悔しさを噛みしめつつ、「これが軍拡の現実なのか……」と肩を落とす。

第三章:暑気と職人の疲労

七月下旬に入り、東京は暑さがさらに増して連日の猛暑日が続く。

  • 印刷所では軍用ポスターの大量印刷が佳境に入り、機械が唸りを上げて回転するなか、職人たちが交代制で夜通し働く。堀内は在庫と帳簿を確認しながら、「このままでは倒れる者が出るかも……」と心配。

  • 実際に何人かの職人が夏バテや軽い熱中症でダウンし、現場がパンク寸前の雰囲気に。社長も「負けるな、もう少しだ」と声をかけるが、ほとんど励ましになっていない。

 幹夫は汗だくのまま刷り上がりのポスターをチェックし、「こんなに戦意高揚の文言を並べ立てて……それでも俺たちは印刷しなきゃいけないのか」と情けなく思う。一方で「父の静岡ではどうなんだ?」と気を揉むが、先月以来あまり手紙は届いていない。

第四章:静岡の父からの知らせ

ようやく月末近く、幹夫は**父(明義)**からの遅れた手紙を受け取る。

  • 「茶畑は夏を迎えて手入れが大変だが、今年の収穫の見込みはまずまず。軍拡は相変わらず再開の話はないものの、戦意高揚ムードが町にも広がりつつあり、少し嫌な感じがする。役場でも“今は目立った動きを控えよう”という流れに……」

  • 「おまえの印刷所は忙しいだろうが、身体を壊すな」と気遣う一文。

 幹夫は激務の合間に手紙を読み、「静岡は軍の目がまだ向いていないだけ。でも戦意高揚ムードがそこにも及ぶなら、陳情はいつ崩れても不思議じゃない……」と暗い気持ちになる。 下宿で二つの風鈴を眺めても、ここ最近は宿に帰るのが深夜で、どちらも鳴りようがないほど夜風すら感じる余裕がない。「鳴らしてやりたい、でも今はそれどころじゃない……」と小さく嘆く。

結び:夏の盛りと夜の沈黙

七月の終わり、東京の下町は夏祭りや花火大会の話題がちらほら出るが、印刷所の職人たちには無縁の世界だった。軍のポスター増産による徹夜作業で、皆がぐったりとしている。一方、静岡では父が“茶の収穫は上々だが、この先どんな国策が飛んでくるか分からない”と身構えている。幹夫は今夜も遅くに下宿へ戻り、窓を開けるがムッとした夜気が体を包み、二つの風鈴も微動だにしない。まるで夏の盛りが二つの音を封じ込めているかのように感じられた。「もう八月が来る……。いつになったら、またあのかすかな音を聞けるだろう……」――そう心の中で呟きながら、幹夫は布団に沈み込む。重い疲労がどっと押し寄せるなか、最後に思い出すのは父の「身体を壊すな」という言葉と、茶畑の緑の光景だった。


序幕:猛暑の下町と重苦しい空気

 七月の猛暑と徹夜作業が続き、東京の下町の空気はさらに蒸し暑さを増していた。 印刷所の職人たちの疲労はピークに達し、軍から依頼された戦意高揚ポスターの増産によって、ほとんど休みなく働かされている。 一方、民間仕事はすっかり止まったわけではないが、優先順位を下げざるを得ず、社長や戸田も心苦しい思いを抱えている。なかでも幹夫は、自分が進めてきた民間案件が後回しになってしまう現状に、やるせなさを覚えながらも、なんとか現場を支えようと踏ん張っていた。

第一章:襲いかかる熱波

八月上旬、関東地方は例年にない猛暑に襲われ、連日35度を超える日が続く。

  • 印刷所の中では機械の熱気がこもり、職人たちが汗だくでポスターを刷る。夜になっても気温が下がらず、睡眠不足が重なって倒れる者も現れる。

  • 社長は氷の差し入れや扇風機の追加など配慮をするが、焼け石に水。堀内は「今度こそ誰かが大きく体調を崩すのでは……」と危惧し、休憩時間を増やすよう促すが、軍の納期も厳しくてなかなか難しい。

 幹夫は深夜までポスターのチェックを行い、明け方に帰宅する日々。下宿へ戻ると既に朝日が昇りかけており、風鈴を見る暇もなくそのまま力尽きる。 戸田がひそかに「これがいつまで続くのか……」とぼやくが、現場の士気を下げないために口外はしない。

第二章:静岡の苦い便り

八月中旬に入り、幹夫は久々に実家の父(明義)からの手紙を受け取る。

  • そこには「茶畑の収穫はひと段落したが、暑さが続き農民も疲れ気味。軍の飛行場拡張の話は聞こえず、当面は大丈夫らしい」という安心の一報がある。

  • しかし同時に、「戦意高揚の空気は地方にも及んでおり、町役場での取り組みは慎重にならざるを得ない。おまえも無理をするな」と書かれている。

 幹夫は「父さんが“当面大丈夫”と言っているなら一安心」と思う一方、戦意高揚ムードが全国に広がるなかでは、静岡の平穏がいつ崩れるか分からない。 「自分が東京で踏み止まっているうちに、静岡ではもう少し茶畑を守る体制が固まるといいが……」と願いながら、父の筆跡に滲む疲れを感じ取って寂しくなる。

第三章:警察巡回の動き

八月下旬、警察の巡回がいっとき落ち着いたかに見えたが、また新たな噂が流れ出す。

  • 「近隣で反戦ビラが数枚見つかった」「ビラ勢力が潜伏しているらしい」という声が町に広がり、再び警戒が強化される可能性が出てきた。

  • 印刷所でも廃材置き場を定期的にチェックし、職人に「怪しい人物を見かけたら報告するように」と呼びかけがなされる。

 幹夫は胸の痛みを覚えつつ、「もはや紙を回すなど夢のまた夢……」と実感。堀内も「我々が関わったなんてバレたら一瞬で終わりだ」と顔を強張らせる。 戸田は「いまは軍の仕事だけでも手一杯。残念だが、ビラのことはもう忘れたほうがいい」と言い切るが、どこか焦燥感がにじんでいるのを幹夫は感じ取る。

第四章:二つの風鈴、わずかな音

八月の終わり、ようやく軍のポスター印刷が一段落し、職人たちは短い休日を得る。

  • 幹夫は汗が滴る作業場を出て夕暮れ時の下町を歩きながら、「やっと少し休める……」と安堵。

  • 下宿に戻り窓を開けると、まだ強い夏の陽射しが建物にこもり、二つの風鈴にあまり風をもたらさない。それでも夜になって少し風が通り、チリンと短い音が重なる瞬間がある。

 幹夫はその音を聞いて、「父さんの茶畑は乗り切れたのかな。東京の印刷所はここで一息ついたけど、またすぐ軍の次の要求が来るかもしれない……」と自問する。 夜風が微かに涼しく感じられ、幹夫はその一瞬に癒されながら、「九月にはどうなるだろうか。父さんと同じく、自分もまだ戦い続けねば」と、錆び始めた古い風鈴に視線を落とす。

結び:夏の終わり、焦熱の向こう側

こうして昭和九年八月は、東京の印刷所にとって軍の大口依頼を必死にこなし、職人たちが疲労と暑さに耐える月となった。民間仕事はやや縮小せざるを得ず、戸田が願っていた「民間拡張」の勢いは失速気味。一方で、警察の監視はまた強まる兆候を見せ、ビラの影はほとんど感じられなくなった。一方、静岡の父からの便りで、「飛行場拡張は未だ再開しない」という情報は幹夫の唯一の救いだった。だが戦意高揚の空気が地域にも滲み出していると知り、心の平穏は得られない。夏の終わりが近づき、暦は秋へ向かうが、幹夫の胸中には灼熱のような不安が残ったまま。二つの風鈴は短く鳴り合い、遠く静岡の茶畑と東京の印刷所をかすかな音で繋ぎ続けている――次の九月は、どんな波乱をもたらすのか。幹夫は夜の蒸し暑さのなか、じっと天井を見つめて眠れぬ時間を過ごすのだった。


序幕:秋の入り口と陰る空気

 八月の酷暑が去り、東京の下町にはほんのわずかな涼気が漂いはじめる。 しかし、印刷所内の空気は相変わらず重苦しい。幹夫や戸田、堀内らが懸命に軍の大口ポスター依頼をこなし、民間案件をどうにか続けようとしてきた夏が終わり、職人たちの疲労と警戒心は限界に近づきつつあった。 そんななか、九月の入り口を告げる秋の風が、微かに下町の町並みをそよがせている。幹夫は人肌恋しいほどの涼しさに「夏が終わった」と感じつつも、心の奥には不安が残る。秋の訪れは、果たして穏やかなものか、それともさらなる動乱の序章か――。

第一章:民間仕事の小さな回復

九月上旬、印刷所では、軍の戦意高揚ポスターの納品が一通り終わり、わずかな余力が生まれた。

  • 社長が「ここで休む間もなく、何とか民間の新規案件を取り戻したい」と声を上げ、戸田が再び営業に奔走。

  • 幾つかの町内会や商会が「夏の疲れを癒やすイベント」「秋の収穫に合わせた特売チラシ」などを発注してくる。

 職人たちは「やっと軍以外の仕事ができる」と安堵するが、先月までの徹夜続きの疲労は抜けきらず、堀内が「まずは体を休めろよ」といたわる。幹夫も印刷機の音を聞きながら、「これ以上の無理はしないように……」と職人仲間に気を配る。 それでも、民間向け仕事のデザインやレイアウトはやりがいがあり、次第に皆の表情は明るくなっていく。

第二章:静岡からの朗報と秋の茶畑

九月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの手紙が届く。

  • 「今年の茶畑は夏の酷暑を越えて、秋の時期に備えている。飛行場拡張の再開は今もなし。町役場も警戒しつつ、農民が安定して働ける環境を整えようとしている。少しは穏やかな季節を迎えた、と言えるかもしれん。」

  • 「おまえの印刷所はまだ大変だろうが、ここは無理せず踏み止まっているぞ」とも記されている。

 幹夫はその文面にほっとし、「ひとまず静岡は平穏が続いているのか……」と胸をなで下ろす。茶畑は秋の軽い収穫や管理作業で忙しいものの、“軍の影が薄い今なら何とか乗り切れる”という父の希望を感じ取る。 幹夫は下宿で風鈴を見つめ、「東京の印刷所も今が少しの安息期かもしれない。父さんの町がゆっくり秋を楽しめるなら、俺たちも民間仕事で精神的に少しでも回復したい……」とつぶやく。

第三章:警察の捜査とビラの残響

九月下旬に入ると、またしても警察が「地下ビラの捜査」を強化するという噂が流れる。

  • 夏の盛りには沈んでいたビラ勢力が、秋口に再度動き始めているという話があり、警官が巡回を増やし、印刷所にも警戒を解かぬまなざしを向ける。

  • 社長は「民間向け案件が盛り返しているなか、警察に踏み込まれたら終わる。軍の仕事をきちんとこなしている証拠を示さねば……」と戸田に指示。

 一方、幹夫は「ビラ関係者から最近まったく連絡がないが、生きているのか……」と心を痛める。かつての黒い影が姿を見せないまま、季節は巡ってしまった。もしかすると別のルートで紙を得ているのか、もしくは活動を断念したのか――知る由はない。 堀内は「俺たちもリスクを取れないし、仕方ない……」と肩を落とし、しかしどこか割り切れない表情を浮かべる。

第四章:風鈴の音、今宵わずかに響く

九月末の夜、幹夫は印刷所での作業を終え下宿に戻ると、涼風が窓から吹き込んでいる。夏の熱気が和らぎ、空気は少し乾いた秋の気配を孕んでいた。

  • 窓を開けると二つの風鈴がゆらゆら揺れ、**チリン……**と可憐な音が短く鳴り合う。

  • 幹夫は思わずほほ笑み、「そうだ、秋が来たんだ……。静岡の茶畑も今頃、落ち着いた秋空の下にあるかな……」と想像する。

 その音は静かに消え、夜空には星が瞬く。幹夫は床に就きながら、「軍の大口ポスターがひと段落し、少しだけ民間仕事が復調したけど、これがいつまでも続くとは限らない。父さんの茶畑も安泰とはいえない……」と、切なさが胸を刺す。 だが、ここで二つの風鈴が同時に鳴るということが、静岡の緑と東京の灰色を繋ぎ止めているように感じられ、幹夫は「もう少し頑張れる」と心を奮い立たせるのだった。

結び:秋の夜風と次の季節

昭和九年九月、東京の印刷所は軍の依頼から一時解放され、民間仕事を盛り返してひと息つくが、警察の捜査は絶えず、ビラの影もくすぶっている。静岡は秋の管理作業で忙しいが飛行場拡張の動きはなく、父が少し楽観を見せる一方で、戦意高揚が地方へもじわじわ浸透している現実がある。これからの季節、軍がさらに大きな動きを見せれば、東京の印刷所も再度苦境に立たされるだろう――それでも幹夫は夜の窓辺で「二つの風鈴が同時に鳴り続けるなら、何とか踏み止まれる」と祈る。秋の虫の声が静かに響く夜、少し乾いた風に乗ってチリンという音が重なり、東京と静岡を繋ぐかすかな希望が次の月へと続いていく。


序幕:深まる秋の気配

 九月を終え、東京の下町は一気に秋の空気に包まれ始めた。夕暮れが早まり、通りを吹き抜ける風も涼しさを増していく。 印刷所の職人たちは、幹夫や戸田、堀内らと一緒に「軍の大口ポスター依頼が落ち着いた今が、民間仕事を広げるチャンスだ」と士気を上げようとしている。 しかし同時に、警察の巡回はなお続き、ビラの噂も完全には消えていない。秋の穏やかな気候とは裏腹に、印刷所の人々は内心で緊張を抱え込んだまま、日々を送り始める。

第一章:民間印刷の再展開

十月上旬、戸田が新たに得てきた営業成果が少しずつ実を結ぶ。

  • 地元商店会が「秋の感謝祭」チラシ第2弾の制作を依頼。前回好評だったため、部数も増やしたいという。

  • 私立学校の秋行事パンフレットや、地域住民が集う“健康促進フェア”なる小冊子の注文も舞い込み、職人たちは軍仕事の手が空く合間に急いで取りかかる。

 社長が「いやあ、軍のポスターで疲弊しきっていたが、こうやって喜んでもらえる仕事があるのは助かるな」とほっとした表情を見せる。 幹夫も「これが続けばいいけど……またいつ軍から大口が来るか分からない」と内心ビクビクしつつ、職人仲間とデザインやレイアウトを相談してワクワクする気持ちも感じる。久々に“自分たちの印刷を楽しめる”雰囲気が戻るのだ。

第二章:静岡の秋と父の通信

十月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの手紙が届く。

  • そこには「茶畑も秋の管理を進め、いまは特段の大きな動きはない。軍も再拡張に乗り出していないが、地方紙には戦意高揚を煽る記事が増えてきた」との報告。

  • 「おまえの印刷所のこと、最近聞かないが大丈夫か? 体を壊さないようにな」と気遣いが添えられている。

 幹夫は「静岡の茶畑が無事なのは何より……」と安堵しつつ、父が言う“地方紙の戦意高揚”に背筋が冷える。東京では軍や警察の力がじわじわ強まっているが、地方も似たような流れが出始めているのだろう。 「でも父さんはまだ大丈夫そうだ。茶畑は今、しっかり根を下ろしているんだろう……。俺もここで踏み止まらなきゃ」と幹夫は秋の夕日に染まる町並みを見ながら決意を新たにする。

第三章:ビラの影、薄くも揺らめく

十月下旬が近づく頃、また反戦ビラの話題が小さく浮上する。

  • 幹夫が帰宅途中に耳にした噂では、どこかの倉庫で数枚だけ新しいビラが貼られていたという。警察が厳重に捜査し、あっという間に剥がされてしまったらしい。

  • 堀内に報せると、「やはりビラ勢力は生き残っているのか。紙は別ルートで入手しているのだな……」とつぶやき、しかしもはや印刷所からの供給ではないと確信する。

 戸田が「これでまた警察の巡回が増えるかも」と憂慮し、社長も「民間仕事が増えていい調子なのに、巡回が来たらまた委縮してしまう……」と頭を抱える。 一方、幹夫の胸には小さな安堵――「ビラを必要とする彼らが、別のルートで生きているなら、俺たちがリスクを負わずに済む」と感じる一方、「しかし彼らもどこまで戦えるだろう……」という複雑な想いが交錯する。

第四章:秋の夜の風鈴と月見

秋の気配が深まるある夜、幹夫は下宿の窓を開けてみると、空にまん丸の月が昇っていた。

  • 遠くから虫の声がかすかに聞こえ、涼しげな風が二つの風鈴を揺らす。

  • チリン……と重なる音が一瞬響き、すぐに静まる。幹夫はそれを聞きながら、「静岡も秋の月が綺麗だろうな……父さんはあの茶畑で月を眺めているだろうか」と思いを馳せる。

 「東京と静岡が、一瞬でも同じ月を見て同じ風を感じられるなら――二つの風鈴はちゃんと繋がってるんだろう」 幹夫はそう呟き、ほんのわずかな幸福感をかみしめる。印刷所の疲労や警察の巡回、軍の支配など、暗い雲は頭上にあるが、今夜だけは“秋の満月”に救われるような気がしてならない。

結び:深まる秋、次の序曲

昭和九年十月、東京の印刷所は大口軍依頼を一段落させ、民間印刷を再び受けはじめたが、警察の監視とビラの影は依然としてくすぶる状況。静岡の父は茶畑の秋を迎え、軍の再拡張がないことにほっとしつつも、戦意高揚ムードが地方にも広がっていく不安を感じている。月末になると、印刷所の職人たちが「今年もあと二か月しかないな……」と口にし、社長は「十一月以降、軍が再び何か仕掛けてくるかもしれない」と警戒する。幹夫はそれでも夜の風鈴の音にわずかばかりの希望を見出し、父と同じ秋の月を心に描く。「この秋が静かなままで終わるか、それとも嵐が来るのか……」――そう思いながら、翌月を迎える構えを固めていくのだった。


序幕:深まる晩秋の下町

 十月を終え、東京の街にはいよいよ晩秋の気配が色濃く漂いはじめる。朝晩の冷え込みが増し、通りを歩く人々は一枚上着を重ねるようになった。 印刷所では、幹夫戸田堀内たちが民間と軍の仕事をどう両立するか、依然として綱渡りを続けている。先月末にはビラの噂が再浮上したが、幸いにも大きな捜査の波は起こらず、今は小康状態を保っていた。

第一章:民間向け仕事の“秋モード”

十一月上旬、印刷所には地域の商店会や学校から、秋の行事に関する印刷依頼が入る。

  • 地域寄席のチラシや、秋の収穫祭パンフレットなど、ややデザイン性が求められる仕事が多い。

  • 職人たちは軍用ポスターの味気ない作業とは違う楽しみを見いだし、「こんな時がずっと続けばいいが……」と口にする。

 社長は「ここしばらく軍から大口依頼もなく、だいぶ落ち着いたな」と安堵気味だが、戸田は「まだ油断ならない。軍が勝手に納期を押しつけてくる可能性は残っている。むしろ秋は軍事演習や式典が増えるから警戒せねば」と緊張を緩めない。 幹夫はそんな戸田の言葉にうなずき、「今のうちにもう少しでも民間の評判を上げておきたい」と意気込んだ。

第二章:静岡の父と秋の茶畑

十一月中旬、幹夫に届いた父(明義)からの書簡には、茶畑の秋管理が一段落し、今年の総収量はそこそこ良い数字が出そうだという報告があった。

  • 「軍の飛行場拡張がないままここまで来たのは幸運だが、戦意高揚の空気は地方にもじわじわ広がっている。町役場も、どうにか陳情を継続しつつ目立たないように動いている感じだ」

  • 「おまえの印刷所は大丈夫か? もう年の終わりが近い。気を抜くな」と結ばれている。

 幹夫はこれを読んで、「少なくとも茶畑が無事で良かった……」と胸を撫でおろしつつも、父から感じる“戦意高揚の波を警戒する姿勢”に重苦しさを覚える。 「静岡でもそうなのか。東京ではもっと直接的に軍や警察の影があるし、父さんも大変そうだ。だけど、いまはお互い少し穏やかな秋を迎えているのかもしれない……」と、二つの風鈴が頭に浮かぶ。

第三章:警察巡回の再来と小さな波紋

十一月下旬に差しかかるころ、久々に警官が印刷所を訪れ、工場奥の様子を一瞥しながら職人に簡単な聞き取りを行う。

  • 「ビラがまた出回っているとかいう話があってな。紙の在庫や、軍の仕事はどうなってるか、念のため見に来た」

  • 社長が笑顔を装いながら対応し、「軍の依頼も受けつつ、町内会の仕事をしているだけです」と弁明。警官は特に荒々しい調査もせず引き下がる。

 職人たちは無言のまま固唾を飲んでいたが、警官が去ると堀内が「ふう、やっぱりまだ巡回をやめてないんだな……」と深いため息をつく。 幹夫は「いつ踏み込まれるか分からないが、今回は大丈夫そうだ」と胸をなで下ろし、戸田も「これで年末までは落ち着けるかもしれない」とほっとする。ただ、黒い影(ビラ勢力)と接触する余地は、やはり存在しないままである。

第四章:二つの風鈴、秋の夜の調べ

十一月末、下宿の窓を開けると、冷たい秋の風が吹き込み、二つの風鈴がかすかに揺れる。

  • 幹夫は仕事を終えて夜更けに帰宅し、疲れを感じながらも、この短い時間だけが自分の心を安らげるのだと実感する。

  • チリン……と控えめな音が重なった瞬間、「静岡の父さんも、同じ秋風を感じているのかもしれない」と微笑む。

 同時に、「もうすぐ十二月。昭和九年も終わりが見えてきたな……。どんな形でこの年を締めくくるのか……」と考えが巡る。ここまで大きな嵐は来なかったが、年の瀬に何かが起こるかもしれない――そんな漠然とした不安が捨てきれない。 しかし、秋の夜長を彩る風鈴の音はやはり幹夫の希望の象徴であり続ける。下町の暗がりに溶けていく短い鈴の残響を聞きながら、彼は父の守る茶畑と東京の印刷所がまだ繋がっていると信じて眠りにつくのだった。

結び:晩秋から冬への架け橋

昭和九年十一月、印刷所は軍のポスターに追われることなく、民間の秋イベント案件をこなし、警察の軽い巡回をやり過ごした。ほんのわずかの安息がある月と言える。しかし、戦意高揚の風潮は決して弱まっていない。遠く静岡では父が秋の茶畑を収めながら、次の危機への備えを怠らない。この秋を経て、彼らが迎える十二月は一体どんな展開をもたらすのか――二つの土地と二つの風鈴は、まだ穏やかな秋の日々をわずかにかみしめつつ、迫り来る冬の足音を感じ始めるのである。


序幕:師走の喧騒と冬の足音

 十一月も過ぎ、東京の街に師走(しわす)が訪れる。日没は早まり、朝晩の冷え込みが厳しくなるにつれ、人々の動きもどこか忙しなく、年末へ向けた準備で落ち着かない雰囲気が漂う。 幹夫のいる印刷所でも、軍の大きな仕事はひとまず落ち着いているが、民間案件の納期が重なってきて職人たちが慌ただしい日々を送る。年末進行とも相まって、作業場はいつになくピリピリとした空気に包まれていた。

第一章:民間仕事、駆け込みの波

十二月上旬、学校や町内会、商店会などから「年末に配るチラシ」や「年度末準備のパンフレット」「年賀ポスター」などの駆け込み依頼が相次ぐ。

  • 社長は「こんなに仕事が来るなら嬉しいが、軍の要請が再開すれば対応しきれなくなる」と、積み重なる注文書を見ながら首をひねる。

  • 戸田はできる限り数をコントロールしつつも、「今のうちに評判を上げ、民間印刷の基盤を整えたい」と意気込みを語る。

  • 職人たちは「年末までに仕上げてほしい」という顧客の無理なスケジュールに追われつつ、「軍の仕事よりは気が楽」と笑い合う場面もある。

 一方、幹夫は作業の合間、ふと「もしこのまま年を越せればいいが、警察や軍が余計なチェックを仕掛けないといいな……」と内心で願う。年の瀬は何かと騒ぎが起きやすい時期でもあるからだ。

第二章:静岡の父からの季節便り

十二月中旬、幹夫が下宿に戻ると、父(明義)からの手紙が届いていた。封を切ると、地元で今年最後の茶畑の管理を終えて年越しの準備に入っている話が記されている。

  • 「今年は拡張再開がなく、何とか無事に過ごせた。町役場の陳情も大々的ではなく継続中だが、戦意高揚が広まる中、農民は粛々と茶を作り、地道に暮らしている。」

  • 「おまえこそ印刷所で忙しいだろうが、年末で無理をしていないか。戦争の影はゆっくり深まっているようにも見えるが、今は踏み止まるしかあるまい。とにかく身体を大事にな。」

 幹夫はこの手紙に少し安堵し、「年内にもう一度帰省して顔を見せたいところだが、状況的に厳しそうだな……」と呟く。彼が故郷の茶畑の穏やかな風景を想うのは、一瞬の心休まる時間だった。

第三章:軍の動き、年末には…

十二月下旬が近づくにつれ、軍が「来年に向けた体制の再編を進めている」という噂がちらほら聞こえてくる。

  • 職人たちは「また大きなポスターや宣伝物の話が年明け早々に来るんじゃないか」「今のうちに体を休めないと、来年が大変だ」と話し合う。

  • 社長は「何とか年末までに民間仕事を仕上げ、無事に納品を終えて、年を越したい」と強調。戸田も「そうだ、今年だけはおだやかに締めくくりたい」と同意する。

 だが、幹夫の心にはいつまでもビラの話がうっすらと残っている。ここ数ヶ月、大きな反戦ビラの動きはなかったが、それは軍や警察の取締が徹底してきた証左かもしれない。 堀内は「このまま年を越せれば御の字だが、もしビラ勢力が年末に動きを起こしたら、警察の捜査がドッと押し寄せるだろう。油断できない」と警戒を解かない。

第四章:風鈴と冬の入り口

クリスマスという言葉はまだ一般的でない時代だが、十二月下旬にはささやかな装飾をする店も出てきて、街も年末ムードを深めていく。

  • 幹夫は、忙しく働く仲間を尻目に徹夜作業でチラシの校了を確認し、深夜に下宿へ帰り着く。外は冷たい風が吹き、少し雪が降るかもしれないという天気予報も耳にする。

  • 下宿の窓際を見ると、二つの風鈴がずっと吊るされたまま。夜更けに窓を開けると、氷のような風がふわりと入ってきて、チリンと短い音を立てる。

 幹夫は「こんな寒いのに、二つの風鈴はまだ鳴ってくれるんだな……」とつぶやき、布団に沈み込みながら「父さんの茶畑は雪の季節か。お互い大変だけど、とにかく今年はなんとか生き延びた」と胸を撫でおろす。

結び:年の瀬の綱渡りと静かな希望

こうして昭和九年十二月、印刷所は年末進行の民間仕事を仕上げつつ、警察や軍の目を気にしながらギリギリの綱渡りを続けていた。

  • 幸いにも年末ギリギリで大きな軍依頼や警察の強硬捜査はなく、職人たちはようやく数日だけの正月休みを迎えられる予定だと喜び合う。

  • 静岡の父は今年最後の茶畑管理を終え、「来年も何とか拡張再開を阻止したい」と意気込みながらも、戦意高揚の波に警戒を怠らないでいる。

大晦日が近づくにつれ、東京の下町にも正月の飾りが出始め、人々はわずかに浮き立つような雰囲気を見せる。しかし、街の陰にはまだ軍と警察の圧が存在し、ビラの勢力は完全には消えていない。幹夫は下宿の二つの風鈴を見上げて、「この一年をよく乗り切った」と自分を励まし、同時に「来年はどうなるか分からないけど、父さんの茶畑とここを繋げ続けるんだ」と強く心に刻む。夜の冷たい風がチリンと音を立てて通り過ぎる。そうして昭和九年を締めくくる十二月が静かに幕を下ろし、次なる年――新たな試練と希望が入り混じる昭和十年(1935年)へと物語は移り変わっていく。

 
 
 

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