昭和10年
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月6日
- 読了時間: 43分
序幕:年越しから新年へ
昭和九年の暮れをかろうじて乗り切った印刷所は、大晦日には最低限の業務を終わらせ、ほんの数日だけ正月休みをとることができた。とはいえ、軍の目を気にする緊張感は解けないまま、職人たちは疲弊した身体をなんとか休ませつつ迎える昭和十年(1935年)の正月。
元旦の朝、下町の狭い路地には祝い着を着た人々が行き来する姿が見られるが、印刷所の多くの職人たちは自宅で静かに過ごし、ある者は神社に初詣に出かけて家族の安泰を祈り、またある者は年賀状すら作る余裕もなく寝正月を送る。 幹夫は下宿で雑煮を口にしながら、静岡の父(明義)が茶畑で無事に年を越したかどうかを思い巡らせる。いつもなら年始早々に短い帰省を検討するが、今の印刷所の状況では容易に休みは取れない。「でも父さんも軍の拡張が止まったまま年越しできただけ、ひとまず良かった……」と胸をなでおろす。
第一章:正月明けの印刷所
一月五日、印刷所で短い新年会を開くことになった。
社長が簡単な祝いの品(小さな菓子やお屠蘇)を用意し、職人全員が集まる。
去年、一年をどうにか切り抜けた苦労話や、民間向けの仕事が増えた手応えなどが話題に上がる。
社長は壇上めいた場所から皆を見渡し、**「今年こそもっと民間の案件を増やそう。軍仕事だけじゃ息が詰まる」**と声をかける。戸田も「私が営業で動きます。昨年培ったコネをさらに活かし、軍の依存度を下げましょう」と宣言。 一方、堀内は「警察の巡回は続くし、ビラ問題もくすぶっている。軍がいつ大口を出してくるか分からない以上、まずは慎重に……」と口にして、皆を引き締める。 職人たちは「でも、これまでもなんとかやってきたんだ」「今年は去年より状況がマシになるかも」と微かな楽観を口にし、笑みがこぼれる。幹夫はその光景を眺めながら「このひとときだけでも、いい雰囲気を味わいたい」と思う。
第二章:静岡の父と年始の陳情
一月中旬、幹夫のもとへ父からの新年最初の手紙が届く。
「正月を平穏に迎えられ、今年もまずは静かに始まった。町役場の人々も“いま軍が拡張再開を言い出さないなら、茶畑の整備をさらに進めよう”と動いている」
「ただし、戦意高揚の空気が地方にも流れてきており、いつ意図せぬ形で拡張の話が再燃するか分からない。おまえも東京で油断せず過ごすのだ」
幹夫はそれを読んで、「静岡も相変わらず警戒を解けないのか」と感じる。同時に、「でも陳情が続き、農民が前向きに茶畑を守っているのは救いだ」とも思う。 下宿の二つの風鈴を鳴らしてみると、冬の乾いた風がチリンと短く音を立てる。「父さん、まだ大丈夫そうだ……。俺ももっと印刷所を軌道に乗せて、二つの町を繋げるんだ」と、短い音に誓いを重ねる。
第三章:警察巡回の緊張
一月下旬になると、警察の巡回がまた小規模に強化される噂が広がる。「反戦ビラが新年から増えるかもしれない」と警戒しているという。
職人たちは軍の依頼がしばらく来ていないタイミングだけに、逆に「おまえら本当に軍の仕事してるのか?」と警察に疑われかねないと不安を抱く。
社長は「在庫や帳簿をしっかり整えておけ。万が一、踏み込まれても問題ないように」と皆に指示。
戸田は「この月は民間案件が順調なのに、警察が来たら ‘何で軍の仕事が少ないんだ’ と疑われるかもしれない……」と心配し、幹夫や堀内と対策を考える。結果、**「軍の仕事もやっているが、いまは待機状態だ」**と言い訳できるよう、昨年末の軍ポスターの実績書類を揃えておくことにした。
第四章:民間仕事の手応えと希望
一方で、月末近くには民間仕事の中で好評を博した案件がいくつかあり、職人たちがやりがいや手応えを感じていた。
地域の学用品チラシで工夫を凝らしたデザインが子供や保護者に好評となり、追加注文が舞い込んだりする。
小学校の先生がわざわざ印刷所を訪れ、「こんなに見やすい配布物は初めてだ」とお礼を伝える場面もあり、社長は喜ぶ。
職人たちも「軍の味気ない戦意ポスターばかりより、こういう仕事が本当の印刷の醍醐味だな」と語り合う。
幹夫はその様子を見て、「戸田さんの営業戦略が少しずつ実を結んでいる。父さんの静岡も陳情が続くなら、今年は悪くない始まりかも……」とわずかな希望を抱く。
結び:冬の終わり、来る春への準備
昭和十年一月は、印刷所にとって年末年始の大きな軍仕事が来ないまま過ぎ、民間仕事で息を吹き返す一か月となった。
警察の巡回は依然として続くが、特に激しい捜査はなく、ビラの影もひそやかなままである。
幹夫は「父が静岡で守る茶畑が今も平穏なら、ここで僕たちが踏み止まる意義はあるはずだ」と心を奮い立たせ、風鈴の短い音を聞くと、「二つの土地がまだ繋がっている」と実感をかみしめる。
こうして一月が静かに終わり、二月へと移行する。これが本当に安定へ向かうのか、あるいは嵐の前の静けさなのか――それは誰にも分からない。ただ、職人たちや幹夫たちはささやかな民間案件の手応えを糧に、軍の圧迫から逃げすぎず、飲み込まれすぎない巧妙なバランスを模索し続けるのであった。
序幕:冬の寒さと印刷所の動き
昭和十年一月が過ぎて、東京の下町にはまだ冷たい風が吹く二月がやってきた。 年明けから少し落ち着きを見せていた印刷所だが、民間の小口案件と、軍がいつ動くか分からない不安とが混在するなか、職人たちが気を引き締めている。 幹夫は下宿で二つの風鈴を眺めながら、「父さんが守る静岡の茶畑も、冬の終わりに備えて粛々と動いているだろう。ここ東京も、新しい季節へと進む準備をしているように感じる……」と想いを巡らせていた。
第一章:民間案件の増加と戸田の営業
二月上旬、戸田が積極的な営業活動を展開してきた成果が少しずつ形になり、民間印刷の新規依頼が増える。
地域の商店会が春先のセールを計画し、そのチラシの制作を依頼。
近隣の私立学校が来年度の案内パンフを早めに準備したいと相談し、職人たちがデザインや色味を工夫して提案する。
社長は「去年の今ごろより案件が増えている。軍の仕事がいま静かだからこそ、民間に力を注げるのはいい傾向だ」と口にする。 一方、幹夫は「このままうまく回ればいいが、いつ軍が大口を投げてくるか分からない。警察の巡回もあるし……」と、緊張を解くわけにはいかないと感じている。
第二章:静岡の冬明け準備
二月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの手紙が届く。
内容は「茶畑が雪こそ降らないが朝晩は冷え込みが厳しい。役場とともに春先の農作業に備えて計画を立てている」とのこと。
「拡張再開の噂は今のところなし。しかし戦意高揚の風潮は地域でも少しずつ感じられる。今は静かに地力を蓄えておくしかない」と綴られている。
幹夫はそれを読み、「静岡ではまだ‘軍がいつ動くか分からない’という同じ不安を抱えながら、父さんは粛々と畑を守っているんだな」と思いめぐらす。 下宿で風鈴を軽く揺らすと、乾いた冬の風が**チリン……**と音を立てる。「父さんの声が聞こえるようだ……俺たちもこの間に民間仕事を固めておきたい」と幹夫は気合を入れ直す。
第三章:警察巡回とビラの話題
二月下旬に差し掛かる頃、また警察が周辺の印刷所や紙問屋を回るという情報が流れる。
「新年度を前に、反戦ビラが出回る可能性がある」「昨年末に一時沈んだビラ勢力が動くかもしれない」と警戒しているとのこと。
職人たちは「折角民間仕事が増えてるのに、警察に踏み込まれたらまた委縮しちゃう……」と溜息。戸田も「軍からの依頼が来ていないとはいえ、警察に怪しまれるわけにはいかない」と神経を研ぎ澄ます。
堀内は在庫を再点検し、社長と一緒に帳簿の整合性を確認。幹夫は「去年のようにビラのために紙を流すなんて余地はない。……でもビラ勢力はどうしているんだろう?」と複雑な思いを抱える。何もできない自分に対する苛立ちと、“いまは印刷所を守るべき”という信念がせめぎ合う。
第四章:余寒のなかの小さな成功
この月の終わりごろ、民間の小案件がいくつか無事に納品され、得意先から好評を博す。
商店会のセールチラシが好評で、部数を増やしたいとのリクエスト。追加分が印刷所に入り、職人たちが誇らしげに刷り上げる。
ある私立学校は先輩が紹介したとのことで、今後も定期的に冊子を作りたいと打診。社長や戸田は「これで軍仕事に依存しないベースが少し育ち始めている」と期待を寄せる。
幹夫はそんな光景を見て、「やはり民間の仕事にはやりがいがある。戦意ポスターばかりじゃ心が折れるから……」と胸をなで下ろす。社長も「二月にここまで受注があるのは珍しい。春に向けてさらに増えるかも」と笑顔を見せるが、その裏で「軍の大口案件が来たらまたどうなるか……」という不安が消えない。
結び:春を呼ぶ風と二つの風鈴
昭和十年二月は、警察の巡回が徐々に再燃しそうな兆しはあるものの、民間仕事が活発で印刷所にわずかな明るさが訪れた月となった。
職人たちは不安を抱えつつも、前向きに小口案件をこなして評判を高め、次なる発注に期待している。
幹夫は深夜に下宿へ戻り、「静岡では父さんが春を待ちわびている頃だろう。こちらも同じように春へ向けて一歩ずつ進みたい」と思いながら、二つの風鈴を見上げる。
夜風は相変わらず冷たいが、どこか春の匂いを含んでいるように思えてならない。**チリン……**とわずかな音が重なったとき、「東京と静岡がまた一つ、この季節を乗り越えられるかもしれない」と微笑む幹夫の姿がそこにあった。
こうして二月は、余寒のなかで小さな成功を噛みしめつつ、依然として警察と軍の目を警戒し続ける“短い安息の月”として幕を下ろし、次の三月へと移っていくのである。
序幕:春の足音と残る冷気
二月の終わりにかけて、東京の街には微かな春めいた風が混じりはじめる。とはいえ朝晩の冷え込みは依然として厳しく、職人たちは印刷所へ向かう道すがら、道端の梅の花を横目にしながらも、まだ手放せない冬のコートに身を包む。 幹夫は下宿で手にする二つの風鈴を見つめ、「春が来れば少しは警察や軍の圧力もゆるまるのか、いや、そうとも限らない……」と、肩にのしかかる見えない重圧を感じつつ、朝の通勤路へ足を運んでいた。
第一章:印刷所の春仕事
三月上旬、印刷所には先月から続く民間案件がいくつか重なり、職人たちが賑やかに作業を進める。
地域の商店会から「春のキャンペーン」チラシの第2弾を増刷してほしいとの依頼。
私立学校では四月の新学期を見越したパンフレットの仕上げを急ぎ、戸田が協議しながら刷り上げスケジュールを組む。
社長は「昨年までこの時期は軍ポスターで徹夜させられていたが、今年は今のところ大口依頼がなくて助かる」とほっと一息。 一方、堀内は在庫調整と帳簿管理を丁寧に続け、「警察がいつ巡回しても怪しまれぬよう、万全を期さねば」と神経をとがらせる。幹夫も「今は民間でやりがいを感じられるけど、いつ軍に振り回されるか分からない」と心のどこかで警戒を解かないまま。
第二章:静岡の父、春先の忙しさ
三月中旬、幹夫は実家の父(明義)からの手紙を受け取る。そこには「茶畑の春支度が始まり、農民が総出で手入れをしている」という嬉しげな様子が綴られていた。
「拡張再開の噂は今のところ耳にしない。このまま春を迎えられれば、今年も順調に茶の芽吹きを迎えられそうだ」とのこと。
「戦意高揚の声は相変わらず聞こえるが、町役場は穏やかに陳情を継続しており、農民も落ち着いて畑に向かっている」との報告に、幹夫は胸を撫でおろす。
「父さんがここまで順調なのは何よりだけど……東京はどうだろう。警察や軍の動きは不透明だし」と考えた幹夫は、下宿で風鈴を揺らしながら「この音がまだ静岡に届いていると思えば、少しだけ安心できる」と呟く。微かなチリンの重なりが、その夜の疲れを包み込む。
第三章:警察巡回の噂と落ち着かない職人たち
三月下旬になると、印刷所に「周辺地域でビラの気配があるらしい」という噂が流れ、再び警察の足音を感じる声が職人たちから上がる。
「今年に入ってからビラはあまり見かけないが、警察が動き出すというなら、こちらも書類を整えねば……」と社長がそわそわ。
戸田は「いま民間仕事を佳境でこなしている最中に警官が来れば、また作業を止められるかもしれない」と危惧し、堀内とともに帳簿を再確認する。
幹夫は心の中で「ビラ勢力はまだ完全に消えていないんだろうか」と考えるが、すでに印刷所が紙を流すようなリスクは負えない状況だ。「一切合わないままで……でも、彼らも別の方法で何とかやっているかも」と複雑な思いを胸にする。
第四章:春はすぐそこに
三月の末ごろ、東京の下町にはほんのり桜のつぼみが膨らみはじめる。職人仲間のなかには「桜が咲いたら花見に行きたい」と浮かれる声もあるが、軍の大口依頼がいつ来るか分からないため、社長は「まとまった休みは期待するなよ」と念を押す。
民間案件は相変わらず好調で、商店会の追加依頼や新学期直前の学校パンフの増刷などがぎっしり詰まっている。職人たちは目を回しながらも、軍のポスターと違うやりがいを味わいつつ残業をこなす。
幹夫は作業を終え夜中に下宿へ帰ると、窓から冷たい風が吹き込み、二つの風鈴を軽く鳴らす。チリン……わずかな音に、静岡の父の姿を重ね、「4月も乗り切ろう」と呟くのだった。
結び:次なる季節への入り口
昭和十年三月、東京の印刷所は相変わらず警戒を解けないものの、民間印刷が増える好機を得て、軍の仕事に振り回される日々から少しだけ解放された。一方、警察巡回やビラの噂がくすぶり、いつ爆発するか分からない不安もくすぶっている。静岡では父が春の茶畑を守りつつ、拡張が再開されないことを胸をなでおろしながらも、戦意高揚の空気に警戒感を強めている。下町にはまもなく桜の季節が訪れるが、それが本当の安寧をもたらす保証などどこにもない。**“東京と静岡を結ぶ二つの風鈴”**は、三月の夜風のなかでかすかな調べを続け、来る四月への一筋の希望とともに、深い葛藤を抱いたまま鳴り響いている。
序幕:桜が芽吹く下町の朝
三月の終わり、東京の下町には桜のつぼみがほころび始め、新年度の慌ただしさが街を包む頃となった。 印刷所では、職人たちが「今年の桜はいつ満開になるだろう」とか「花見でも行きたいね」などと口にしながら、相変わらず民間案件と軍の影に神経を張りつめていた。 幹夫は朝の道を急ぎながら、「四月か……静岡では父が茶畑の新芽を迎え、こちらでは桜が咲き誇る頃。何とか平和に過ぎればいいけど……」と胸を騒がせつつ、印刷所の門をくぐる。
第一章:新学期の民間案件ラッシュ
四月上旬、さっそく学校や公的機関から年度始めの印刷依頼が相次ぐ。
私立学校では新入生向けのガイド冊子、地域の子ども会では春のイベント案内チラシなど。
商店会も、新年度のセールや「桜祭り」を絡めた企画チラシを追加発注してくる。
社長は「これは嬉しい悲鳴だな。軍の大口がない今こそ、民間の印刷を伸ばす好機かもしれない」と職人たちに声を掛ける。戸田は「よし、急ぎ対応しよう。新学期シーズンは短いから、スピード勝負だ」と営業連絡を取りまとめる。 一方、堀内は「だが、軍が急に動けば、これを全部後回しにせざるを得なくなる。気は抜けないぞ」とくぎを刺す。幹夫も「でも、ここで民間の評判を上げておくのは大切だ。やろう」と意気込みを見せ、職人たちの士気が高まる。
第二章:静岡の父、春の茶畑
四月中旬、幹夫が夜の作業を終え下宿に戻ると、父(明義)からの手紙が投函されていた。
「おまえたちの印刷所が順調と聞いて安心した。こちらの茶畑も春芽が動き出し、農民が忙しく畑を駆け回っている。軍拡は今のところ再開の話なし。町役場も静かだ」
「ただし、戦意高揚の空気は相変わらずで、新聞が大陸情勢を騒ぎ立てている。いつ何が起きるか分からないが、当面は落ち着いた春を享受しよう」との内容。
幹夫は手紙を読み、「静岡でも春を迎えて落ち着いているのは良かった……」と胸をなで下ろすが、戦争の足音がいつ迫るか分からないという不安は共通だ。 「父さんが少しでも茶畑で心穏やかに過ごせるよう、こっちも印刷所を安定させたい……」と幹夫は風鈴を手に取り、夜の風で短くチリンと鳴らしてみる。「この音が今夜、父さんに届くといいな」と小さくつぶやく。
第三章:警察の巡回とビラの影
四月下旬になると、警察の巡回がどうやら再度行われるとの話が職人仲間の耳に入る。
「春の新学期に合わせてビラが出るかもしれない」「地下活動が学校を狙うのでは」といった憶測が飛び交い、警官が見回りを強化する方針らしい。
印刷所でも戸田が「また来るか……せめて民間案件が順調なこの時期に大きな騒ぎは勘弁してほしい」と神経を尖らせる。
堀内は在庫倉庫を再点検し、「軍の仕事が少ないからって怪しまれないように、昨年分の軍ポスター印刷記録などを出しやすい位置に置いておこう」と準備を進める。幹夫は「これが常態化してるのが嫌だな……」と嘆きつつ、紙の管理を手伝う。 ビラに関わる黒い影は、ずっと姿を見せないままなので、すでに印刷所側からは完全に手が切れている状況だが、「だからこそ疑いをかけられないか」と職人たちが余計な不安を感じるのが何とも皮肉な話だった。
第四章:桜の散り際と風鈴の調べ
月の末ごろ、下町の桜が散りはじめ、道端に花びらが積もる。年度初めの忙しさは山を越え、印刷所も一段落した雰囲気が漂い始める。
幹夫は帰り道で桜吹雪を眺め、今年は花見をする余裕もなかったことに寂しさを覚える。
下宿へ着き夜空を仰ぐと、僅かに吹く春風に二つの風鈴がチリン……と控えめに響く。
「父さんの茶畑は芽吹きが順調らしいし、印刷所も大きな軍依頼がなく、民間仕事をちゃんとやれてる。こんなに穏やかな春が来るなんて……」 幹夫は小さく微笑みながらも、「この平穏はいつまで続くのか」と自問する。新聞の戦意高揚記事や警察の動き、そして軍が相変わらず陰で力を溜めている気配――そんな不安が頭を離れない。 それでも、風鈴の音が短く重なった瞬間、「二つの土地はまだしっかり繋がっている」と感じ、幹夫は夜の闇の中で儚い安堵を噛みしめる。
結び:春の終わり、先行きの光と闇
昭和十年四月、印刷所は新学期案件を中心に民間仕事で活気を見せると同時に、警察巡回の噂に怯える綱渡りを続ける月となった。静岡からは父が「茶畑の芽吹きが順調」と報せ、二つの土地がそろって嵐を免れているようだが、戦意高揚の空気は国内で確実に広がり、いつ大きな動きに繋がるか分からない。桜が散る頃、夜の風鈴が幹夫の胸にかすかな勇気を与える。「いまはこれでいい、父さんも俺も踏み止まっているんだ」――そう心に言い聞かせながら、彼は五月へと歩みを進める。二つの風鈴が夜気に沈み込むように静まり、春の終わりを告げるようにチリンと一度だけ響いた。
序幕:薫風の気配と静まる街
四月の桜が散り、東京の下町には薫風と呼ぶにふさわしい柔らかな風が吹きはじめる。 印刷所の職人たちは、長い冬から春先にかけて乗り切った安堵感と、次なる季節への警戒感とが入り混じるなか、幹夫や戸田、堀内らと共に日々の仕事をこなしていた。 「新学期の案件はひと段落したが、5月になるとまた商店会や学校の催事が増える……。軍の依頼がいつ来ても不思議じゃないけど、いまは民間仕事を回そう」――そう社長が声をかけ、職人たちは穏やかな初夏へと足を踏み出していく。
第一章:民間の波、再び高まる
五月上旬、地域の商業活動や初夏の行事が多く企画され、印刷所にはこんな案件が舞い込む。
商店会…「母の日」や「端午の節句」を絡めたセール案内のチラシ。
学校・町内会…近所の小学校が春イベントを終えたばかりだが、新入生向け追加資料や地域住民との交流チラシなどを刷りたいと相談。
職人たちは「先月より忙しいかもしれない」と口々に言いながらも、軍の大口依頼はまだ音沙汰がなく、精神的にはやりやすいと感じている。戸田は「この隙を活かして評判を固めよう」と意欲を示し、堀内は在庫を確保するなど周到に準備。 幹夫はその光景を見守りながら、「去年の五月はもっと苦しかった気がする。このままいい調子でいけるだろうか……」と少しだけ希望を抱く。
第二章:静岡の父、茶の新芽と平穏
五月中旬、幹夫のもとに**父(明義)**からの便りが届き、「今年も新芽が無事伸び、茶畑が生き生きしている」という嬉しそうな報告がある。
「軍拡の動きは相変わらず沈黙。陳情を続ける町役場の取り組みも、今のところ順調だ。農民が少し安心して畑に専念できている。」
「東京はどうだ? 警察の巡回や軍の圧があるだろうが、おまえがそこで踏み止まれば、わしらも茶畑を守る勇気になる。」
幹夫は手紙を読み、「やはり父さんは陳情を粛々と続けている。静岡がこれだけ落ち着いているのは幸運だ……」と安堵すると同時に、自分たちが少しでも落ち着いて民間の仕事を増やしていることが“父の茶畑”にも力を与えているのかもしれないと実感する。 そんな中、夜に窓を開けると初夏の風が二つの風鈴をほのかに揺らし、チリンと短く合わさる音が幹夫の胸を温かくする。「父さんの言葉が聞こえるようだ……」
第三章:警察巡回の再燃と職人の不安
五月下旬、下町に「ビラが再び貼られたらしい」という噂が流れ、警察が巡回を強化しはじめる。
職人たちは「せっかく民間仕事が順調なのに、警察にあれこれ詮索されたら作業が止まるかも」と口々に懸念。
社長は「このところ軍の大口がないことを逆に怪しまれないよう、去年までの軍依頼の記録などを見せられるように整備しよう」と提案。
戸田は複雑な表情で、「ビラ勢力が完全に消えたわけじゃないとは分かってたが、また警察がうろつくとは……。今は紙を渡す余力もないし、リスクも大きすぎる」とぼやく。 堀内は「このまま何も起きずにやり過ごせればいいが……」と漏らし、幹夫も首をすくめ「万が一、警察が踏み込んできたらどうするか考えないと」と神経をとがらせる。
第四章:初夏の風鈴、かすかな合図
五月の末ごろ、印刷所は民間案件を無事納品し、数日だけ余裕ができる。職人たちは「久々に休みが取れるかも」と期待を口にする。
幹夫は夜更けに下宿へ戻り、下町の通りに飾られた提灯や、商店会の活気あるポスターを眺めながら、「軍の影がない今が一番平和だな」と感じる。
下宿で窓を開けると、暖かい初夏の風が流れ込み、二つの風鈴がチリンと同時に音を立てる。
「静岡も今年は拡張なしで茶畑が守れて、こっちも民間の仕事が増えている。こんな調子がずっと続けばいいけど……」と幹夫はつぶやき、わずかな幸福感を胸に抱く。
結び:五月の終わり、次なるステップ
こうして昭和十年五月は、東京の印刷所にとって民間案件の充実が進み、警察巡回の警戒をかいくぐりながらも平穏を保つ月となった。
警察が目を光らせてもビラの決定的な動きはなく、軍からも大口依頼は来ないまま、職人たちはひとときの“通常の印刷業”を味わっている。
静岡では父が茶畑の新芽を育て、陳情を維持しながらも恙なく春から初夏を迎えられそうだと告げる。幹夫はそれを聞き、「二つの土地が息づいている」と喜びながら、いつ訪れるか分からない嵐への備えも忘れない。
夜、二つの風鈴は温かな初夏の風に短く触れ合い、かすかなチリンという調べを奏でる。幹夫はその音に耳を澄ませ、「このまま六月も乗り切りたい。父さんが静岡で踏み止まっているように、俺もここで踏み止まる」と心に誓い、夜の闇にゆっくりと瞳を閉じるのであった。
序幕:夏の足音と穏やかな日々のはじまり
五月に民間印刷の波をしっかり受け止め、警察巡回を警戒しながらも大きな混乱なく月末を迎えた印刷所。 六月になり、東京の下町は徐々に蒸し暑さを帯び始める。朝の空気にじっとりとした湿度が混ざり合い、職人たちは薄手の作業着を身につけ、「そろそろ梅雨入りの頃か」と肩をすくめながら通勤している。 幹夫はそんな光景を横目に、「父のいる静岡でも梅雨が近い。茶畑の手入れや陳情はうまくいってるかな……」と想いを巡らせつつ、印刷所の門をくぐった。
第一章:民間仕事の安定期
六月上旬、印刷所に舞い込む案件は依然として民間中心で、軍からの大口依頼はない。
学校関連の行事チラシや夏を先取りした商店会のセール告知など、比較的小口ながら数が多い仕事が散発的に入り、職人たちは忙しくもやりがいを感じる。
社長は「去年と比べると、ずいぶん民間の発注が増えてきたなあ。軍の依頼がない今こそ、評判を広げたい」とほくそ笑む。
戸田は「警察巡回も大きな動きはないし、今のうちに印刷所のブランド力を高めよう」と、積極的に顧客とコミュニケーションを図る。 幹夫や堀内も「今年は春から続けて民間案件をきちんと回せている。軍仕事で徹夜づくしにならなくて助かる……」と少し安堵の色を見せていた。
第二章:静岡の父、梅雨への備え
六月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの手紙が届く。
「こちらも梅雨が近いが、茶畑はまず順調。拡張再開の話は一向に聞こえず、町役場も少し気が楽だと言っている」
「戦意高揚ムードが新聞やラジオで煽られ続けているが、ここ(町)の人々は粛々と農作に集中している。おまえも東京で無理をするなよ」とのこと。
幹夫はそれを読んで、「父さんの町も梅雨入り前、茶畑の新芽が伸びてるんだろうな……」と穏やかな景色を脳裏に描く。 「そちらが落ち着いてるなら本当によかった。こっちも警察が今のところ騒がないし、父さんの言うように粛々と頑張るか……」と決意を新たにする。
第三章:警察巡回の小波
六月下旬に差し掛かる頃、下町には再び**「ビラが少量出回った」**という噂が流れ、警察が周辺の印刷所や紙問屋をさらりと巡回しはじめる。
職人たちは「またか……」と冷や汗をかきながら、幹夫や堀内が在庫や帳簿を見直す。
社長は「いま軍の仕事がない状態だからって怪しまれないかな」と小声で心配し、戸田は「そうならないよう、去年までの大口実績を見せられるようにフォルダを用意しよう」とフォローを誓う。
結局、警察は大掛かりな捜索をするわけでもなく、表面的な確認だけをして帰っていく。幹夫は胸を撫で下ろし、「ここ最近は本当にビラ勢力も潜伏してて、警察も狙いどころがなくなってるのか……」と複雑な思いを抱く。 「これがずっと続くならそれでいいけど、いつ軍や警察が本格的に動くか分からない」と、再び緊張を噛みしめる。
第四章:梅雨と夜の風鈴
六月下旬が深まり、関東地方は梅雨入りの宣言が出される。連日しとしとと雨が降り続き、印刷所の周囲の路地には水たまりができやすく、職人たちは足元に気を遣うようになる。
幹夫は夜遅くまで残業して下宿へ戻る道で、雨のにおいを感じ、遠くで雷が光るのを見て「夏が近いな……」と実感する。
下宿の窓を開けると、湿った風が部屋に入り込み、二つの風鈴をかすかに揺らす。**チリン……**と小さな音が重なる瞬間、幹夫は「父のところもきっと雨の季節だろう」と思いを巡らせる。
「こうして平穏なまま六月を終えられるならいいのに……でも、今年は意外と安定してるかもしれない」とほのかな希望を抱きながら眠りに就く。
結び:雨の音と次の季節
昭和十年六月、東京の印刷所は軍からの大きな仕事が訪れないまま、民間案件を安定してこなし、警察の巡回をかいくぐるという比較的落ち着いた月となった。静岡からの便りによれば、茶畑も平穏で陳情が続き、梅雨を迎えても拡張再開の話は出ていない。幹夫は夜毎、下宿で雨音を聞きながら、「二つの土地が今は凪いでいる。でも戦意高揚の風は確実に吹いているし、いつ嵐が来るかは分からない……」と心に引っかかるものを抱えつつ、チリンと囁く風鈴の音に耳を傾ける。六月末の雨が印刷所の屋根をしとどに濡らすなか、二つの風鈴はそっと息を合わせてわずかな響きを奏で、次の七月へと物語を繋いでいく。
序幕:雨明けの熱気と不安の種
六月の梅雨が終盤を迎え、東京の下町にはじとっとした湿気が漂っていた。 印刷所では、幹夫や戸田、堀内たちが警戒心を抱きつつも、ここ数ヶ月平穏に進んだ民間仕事をこなしている。 「七月になれば本格的に暑くなり、また軍が何か仕掛けてくるんじゃないか」と社長がぼそりと漏らし、職人たちは「今年はまだ大きな嵐が来ていない。逆に怖いな……」と同意する。 幹夫は下宿で、二つの風鈴を見ながら「静岡の父さんも、夏の茶畑を乗り切ろうとしている。俺たちもこの東京でなんとか踏み止まるしかない」と、自分に言い聞かせていた。
第一章:梅雨明け近づく印刷所
七月上旬、東京の天気は安定せず、雨と晴れ間が交互にやってきた。
民間案件は、夏休み前の学校広報や、町内会の夏祭りチラシ、商店会のセールパンフなど、引き続き途切れることなく発注が入り、職人たちは忙しい。
軍の大きな依頼は依然としてなく、戸田は「こんなに長く静かでいいのか……逆に不気味だ」と首をかしげる。社長は「いまは稼ぎ時だ。民間で稼いでおこう」と士気を上げるが、心のどこかではいつか来る“ドカン”を警戒する。
堀内は在庫と帳簿を確認しながら、「警察巡回は小規模だけど続いてるから、こまめに点検しよう」と幹夫に声をかける。幹夫は「ああ。いまはビラの話もあまり聞かないけど、用心に越したことはない」と同意。 いずれにせよ、印刷所には先月からの好調な民間案件をしっかり仕上げる姿勢が漂い、職人たちはやや充実感を抱いて働いていた。
第二章:静岡からの夏便り
七月中旬、幹夫の下宿へ父(明義)から手紙が届く。
内容は「茶畑は夏に向けて手入れが大変だが、今年は収穫も上々で、農民が力を得ている。拡張再開の噂は依然として出ず、町役場も余裕を持った対応をしている」とある。
「戦意高揚の空気が報道を通じて各地に届いているようだが、ここはまだ当面平穏だ。おまえの印刷所も忙しそうだが、身体には気をつけろ」との気遣いが添えられている。
幹夫は「こちらも六月に続いて軍の大仕事がなく、民間のほうが充実してる。静岡も落ち着いてるならほんとに良かった……」と微笑み、父がいつも以上に農民の元気を強調していることにほっとする。 夜、下宿で二つの風鈴を軽く鳴らしてチリンという音を聞き、「父さん、もうすぐ本格的な夏だけど、お互い無事に過ごそう」と胸の中で囁く。
第三章:突如、軍の通知
七月下旬になると、ついに軍から印刷所へ“事前通知”が届く。
大規模な演習か宣伝企画を計画しているらしく、「近々、戦意高揚ポスターを大量に刷る必要があるかもしれない」という内容だが、部数や納期はまだ未定。
戸田や社長は恐る恐る書簡を読み、「いよいよ来るか……これが正式決定になれば、大量の紙と徹夜続きか。民間仕事をどうしよう……」と頭を抱える。
職人たちは「やっと静かだった半年が終わり、また軍の地獄が始まるのか……」と憔悴した表情でざわつく。
堀内は「ひとまずまだ確定じゃないが、通知が来た以上、何かしら大口の準備をしなきゃならない。民間案件も断らざるを得なくなるかもしれん……」と沈痛。 幹夫は「父さんの茶畑が守られてるように、俺たちも民間を守りたいけど、軍に逆らえない現実がある。どうすれば……」と心を乱される。
第四章:夏の夜と風鈴の哀悼
七月末、梅雨が明けたらしく、連日の猛暑が街を包む。印刷所はまだ“軍の本発注”を待ちながら、民間案件の仕上げや在庫の整理に追われる。
職人たちは「いつ正式に発注が出るか分からない」「民間仕事が中途半端になりそう」と作業を急ぐ。
社長は「こちらから軍に問い合わせるのもリスクがある。むこうの都合で正式依頼が来るまでは身構えておくしかない」と渋い顔。
幹夫は夜の下宿へ戻り、暑い部屋の窓を開け放つと、二つの風鈴がチリンと小さく合わさる。「せっかくここまで民間の評判を上げてきたのに、軍の一言で全部変わるかもしれない……でも、これまでも踏み止まってきたんだから今回も耐えなきゃ」と自分を奮い立たせる。 月のない夜空には星が瞬き、遠くで夏祭りの囃子の音が聞こえるが、幹夫の胸は今後の不穏を思い、また静岡の茶畑を思い、切なさにかすかに震える。
結び:静かな七月の終わりと嵐の兆し
昭和十年七月は、東京の印刷所が上半月こそ民間仕事の成果を味わう一方、下旬には軍からの事前通知が届き、再び徹夜や大口依頼に振り回される予感に包まれる月となった。静岡の父は今年の茶畑を無事に収め、ここまで拡張再開の動きはないが、戦意高揚が全国に及ぶ時代の足音を感じ、油断はしていない。幹夫は夜の窓辺で、夏の熱気にまみれた二つの風鈴を思わず揺らし、チリンという儚い音がかすかに響くのを聞く――「来月、軍の正式発注が来るのか……それでも俺たちは、父さんと同じように踏み止まるしかない」。蒸し暑い夜風が通り抜けるなか、昭和十年の七月は静かに幕を閉じ、八月の灼熱と嵐を予感させるように時を進めていくのだった。
序幕:灼熱の夏と軍の足音
七月末に届いた「軍の大口依頼があり得る」という事前通知が、印刷所の人々を不安に陥れたまま、時は流れる。 八月に入り、東京の下町は例年を上回る暑さで、朝から空気がむっとした熱気を含み、職人たちも「今年は特に暑いな……」と汗をぬぐいながら働いていた。 幹夫は毎晩、下宿の窓を開けて二つの風鈴を眺めつつ、「静岡で父(明義)が茶畑を守っているように、ここでも踏み止まらなきゃならない」と自らを励ます。夏の終わりを予感しながらも、軍がまた大きな動きを見せるかもしれない――そんな恐れが胸の奥に揺れ続けていた。
第一章:軍の正式依頼、ついに下る
八月上旬、ついに軍から印刷所へ正式な依頼が入る。
「夏の戦意高揚キャンペーン」と称して、ポスターやパンフレットを数万部単位で刷れという。
社長は先月末の通知である程度覚悟していたが、部数と納期の厳しさは想像を超えており、職人たちは絶句する。
戸田は「納期を少しでも延ばせないか」と掛け合うが、軍の担当者は「一刻も早く必要だ」と譲らない。 結局、大口の軍仕事を優先せざるを得ないことになり、せっかく安定していた民間の案件はまた後回しや断念を余儀なくされる。職人たちは「去年までの苦しみをまた繰り返すのか……」と疲労の色を隠せない。
第二章:徹夜の連日、民間の嘆き
八月中旬に入ると、軍の仕事が本格化し、印刷所は昼夜を問わないポスター印刷体制となる。
機械の轟音が途切れることなく、職人たちは交代で仮眠をとりながら、熱気とインクのにおいにまみれる日々を過ごす。
いくつかの民間案件は「夏祭りのチラシを引き受けてほしかった」「急ぎではないから後でもいいが、もう少し早く欲しかった」と嘆きの声が上がり、戸田が詫びを入れにまわる。
社長は「これをきっちりこなさねば、軍や警察に目を付けられる」と職人を励ましつつ、「このままでは民間の評判が落ちてしまう……」と苦悩する。 幹夫はそんな光景を見ながら、昼夜逆転のような生活に突入し、眠気と苛立ちをこらえる。堀内も「去年と同じだ。せっかく民間が盛り上がってきたのにな……」と渋い顔をする。
第三章:静岡の父と残暑
八月下旬、幹夫の下宿に父からの手紙が届くが、彼は徹夜続きでほとんど読める時間がなく、深夜に下宿へ戻って仮眠をとる合間にさっと目を通す。
父の文面には「暑い中、茶畑の管理も終盤だが、相変わらず飛行場拡張の再開はない。このまま秋へ入れれば今年も守りきれるかもしれない」という穏やかな見通し。
「おまえの印刷所はまた軍に振り回されていると聞いたが、身体を壊すなよ」と労る言葉が添えられている。
幹夫は書簡を読みながら、「静岡が安定しているなら何よりだけど、こっちは昼も夜もポスターを刷りまくり……もう本当に体力が限界かもしれない」と思わずため息をつく。 下宿の風鈴を見る時間さえ惜しく、幹夫は「父さん、もう少し俺も踏み止まるから……」と心中で呟きながら、机に突っ伏すように眠り込んでしまう。
第四章:夏の終わり、二つの風鈴は沈黙
八月末、印刷所は軍のポスター納期に追われ、何とか最低限の枚数を仕上げるめどが立ちそうになる。
職人たちはクタクタに疲弊し、一部が体調不良で休むなど混乱も続く。社長や戸田は在庫とスケジュールの管理に奔走し、堀内も書類の整合性をチェックしては「警察に怪しまれぬように」と指示。
幹夫は連日の徹夜で、下宿へ帰るのは明け方。窓を開ける気力もなく、そのまま布団に倒れ込む。風鈴の音に耳を傾ける瞬間すら持てず、ただ疲労に押し潰される日々だ。
“せっかく今年は民間案件が充実していたのに、また軍の一声でこうなるのか”――幹夫はやるせなく思いながらも、「これを拒めば印刷所が潰される。静岡が踏み止まっているように、俺も踏み止まるしかない」と自らを奮い立たせる。
結び:夏の幕引きと九月への不安
昭和十年八月、東京の印刷所は再び軍の大口依頼によって徹夜続きの地獄を味わい、民間の広がりが一時中断される形となった。静岡では父が茶畑の夏の管理を無事終え、拡張再開がなさそうな安定を噛みしめているが、息子の幹夫がこんな苦闘をしているとは知る由もない。夏が終わり、夜風が涼しさを運んできても、幹夫は風鈴の音を聞く余裕も持てないまま。かろうじて納期のめどが立つ頃には、彼ら職人も疲労の極みに達している。「九月に入ればこの苦しさは少し和らぐか……でも、またいつ軍が動くか分からない」――幹夫は朝焼けの下町を歩きながら、そんな思いを抱えつつ静岡の父と二つの風鈴を心に思い浮かべる。暑い夏の幕が下り、次なる季節への不安と希望が混じり合う月が終わるのだった。
序幕:夏の名残と秋の気配
八月いっぱい続いた軍の大口ポスター依頼によって、印刷所は連日徹夜作業に追われ、職人たちは疲労の極致に達していた。 九月に入り、下町の空気にはわずかに涼しさが混じりはじめるが、まだ残暑が厳しく、機械の轟音に包まれた印刷所の空気は重苦しい。 幹夫はようやく終わりが見えた軍仕事をどうにか仕上げながら、「この月こそ民間案件に戻りたいが、軍がまた指示を出すかもしれない……」という不安を隠せないでいる。
第一章:徹夜の果て、職人たちの疲弊
九月上旬、軍のポスター納期の最終段階をなんとか乗り越え、印刷所は少しだけ呼吸を取り戻す。
しかし、職人の一部は夏の猛暑下での徹夜作業に耐えかねて体調不良を訴え、数日間休む者も出る。
社長は「これで大口はひとまず終わったが、次にまた依頼が来ればどうなるか……。人員を補充したくても、警察や軍の目があるから簡単には雇えない」と苦悩を漏らす。
幹夫も疲労の色が濃く、下宿に帰るたびにいつの間にか寝落ちし、二つの風鈴を見上げる余裕すらあまりない。それでも「父さんの茶畑は今年うまくいったんだ、俺たちも踏み止まらねば」と奮い立つ。
第二章:静岡の安堵と微かな緊迫
九月中旬、幹夫のもとへ父(明義)からの手紙が届く。
そこには「今年の茶の収穫は順調に終わりそうだ。軍拡もいまだ再開なしで、町は少し気が楽」と書かれている。
一方で、「戦意高揚の報道が続き、地方にもじわじわ影響が及びはじめている。町役場は目立たぬよう陳情を維持しているが、この先いつ動乱が来るか分からん」ともある。
幹夫はそれを読み、「こっちは軍仕事が一段落したが、いつまた大口が来るか……。静岡も同じように、拡張が再開されるリスクを抱えている」と感じ、夜に短い手紙を書き、「俺もこちらで踏み止まっている」と父を安心させるつもりで綴る。
第三章:民間案件の復活と矛盾
九月下旬、軍ポスターを終えた印刷所には再び民間案件が入ってくる。
秋の催事、地域の運動会、商店会の秋セールなど、小口ながらも多彩な仕事が舞い込み、職人たちは久しぶりにやりがいのある作業へと切り替わる。
戸田は喜びつつも、「軍に捧げた時間を取り戻すにはまだ足りない。とはいえ、ここで評判を稼がねば」と社長と二人三脚で営業を続ける。
一方、幹夫や堀内は「軍がまたすぐに依頼を出せば、この民間案件が止まる。せっかく育ちかけた絆をまた断ち切るのか……」と暗い表情。職人たちも次の軍依頼を警戒する気持ちを拭えない。
第四章:夜の風鈴と夏の名残
九月末、気温がぐっと下がり、夜風が肌寒さを帯びる頃、幹夫は遅い時間に下宿へ戻る。
久々に窓を開けて二つの風鈴を見上げ、乾いた空気に短くチリンと音が重なる瞬間を聞く。
「父さんも今年の茶畑を無事に乗り越えたらしいが、こちらも何とか軍の徹夜作業を乗り越えた。……でも、また依存状態に変わりはないんだよな」と思いを巡らす。
夏が完全に去ったわけでもないが、秋の風が静かに町を染めている。幹夫は一瞬だけ涼しげな風を心地よく感じ、「これで警察の動きが静かならまだいいけど……今年も残り三か月か。どうなるかな」と不安と希望が混在した表情を浮かべる。
結び:季節の変わり目、次の試練へ
昭和十年九月、東京の印刷所は暑い夏を越え、軍のポスター徹夜作業を終えた職人たちが疲労と安堵を同時に味わった。
しかし、民間案件が再浮上し始める一方で、またいつ軍が大口を出すか分からない不安や警察巡回への警戒が続く。
静岡の父は茶畑の今年度収穫がほぼ終わり、拡張再開がなかったことにほっとするが、国全体の戦意高揚ムードに警戒を解かず陳情を粛々と続けている。
九月の終わり、夜の風はすでに夏の熱気を取り払って涼しさを増し、二つの風鈴が短く調べを合わせる。幹夫は「次の十月こそ、穏やかに過ごせるだろうか……」と虚空を見つめるが、それはまだわからない。轟音のマシンが止まった印刷所の裏で、微かな秋の虫の声が響く――東京と静岡を繋ぐか細い音が、また一歩次の季節へと物語を進めていくのである。
序幕:秋の風がもたらす安息と不安
九月の終わり頃から、東京の空気は乾いた涼しさを帯びはじめ、街路樹の葉がほんのり色づき始める。印刷所では、幹夫をはじめ、徹夜作業の疲労をなんとか乗り越えた職人たちが、少しだけ呼吸を整えていた。 しかし、またいつ軍が大きな仕事を押し付けてくるか分からない。警察の巡回も依然としてある――そんな緊張感は払拭されないまま、昭和十年(1935年)の十月を迎える。 下町の空にはうっすらとした秋雲が浮かび、夜の虫の声も聞こえるなか、幹夫は「ここでしっかり民間案件を広げれば、印刷所も息がつけるかも……」と微かな期待を抱いていた。
第一章:民間案件、秋の催事ラッシュ
十月上旬、地域の商店会や学校、町内会から「秋の行事」や「収穫祭」などの印刷案件が相次ぐ。
商店会では紅葉を絡めたセールチラシ、近所の小学校は文化祭や運動会の案内パンフ、また町内会では健康促進イベントのちらし……。
職人たちは軍の徹夜の疲れが残るものの、こうした“生活に根ざした印刷物”に携われることを嬉しく思い、戸田や社長も「これでやっと印刷所の評判を更に上げられるかもしれない」と手応えを感じる。
堀内は、「秋の案件が一斉に来て納期が重なるから、スケジュール管理は慎重にやらないと。軍がもし入ってきたら全部崩れる……」と緊張を隠せないが、幹夫は「いまは目の前の民間仕事に集中しよう」と諭す。 皆が少しだけ明るい空気を感じつつも、背後に漂う“軍の影”を消し去ることはできなかった。
第二章:静岡の父、秋の茶畑
十月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの便りが届く。
そこには「今年の茶の最終管理を進め、そろそろ冬への備えを始めている。拡張がないまま一年が過ぎようとしているなんて、奇跡のようだが、まだ戦意高揚の空気が油断ならない」とのこと。
「おまえのほうは大丈夫か? 夏場は大変だったようだが、いま民間仕事が増えているのなら何よりだ」と書かれており、幹夫はほっとする。
「父さんも粛々と茶畑の一年を終えようとしてるんだな……。拡張が再開しなかったのは本当に僥倖(ぎょうこう)だけど、これからも分からないよな」と思案する。 下宿で二つの風鈴をチリンと鳴らし、幹夫は「何とか今年いっぱい無事に過ごして、父さんの茶畑と一緒に新年を迎えたい」と密かに祈る。
第三章:警察巡回のささやきと職人の緊張
十月下旬になると、またしても警察が地域を軽く見回る姿が報じられる。
「近隣でビラらしきものが僅かに発見された」「相変わらず地下勢力が完全には消えていない」と噂され、職人たちは冷や汗をかく。
社長は「民間仕事のピークだが、念のため在庫帳簿を見直そう。ビラなどに使われては困るからな」と命じ、堀内と幹夫が点検に回る。
「これだけ民間案件が順調なときに、警察の手入れが入れば、一気に信用を失うかもしれない……」と戸田がぼやき、幹夫もうつむきながら「軍が動かないのも、逆に警察から ‘怪しい’と思われないか不安になる」と漏らす。 ビラ関係者との接触は久しく途絶えているが、いつどこで意外な形で警察の疑念を向けられるかは分からない。その不安が職人たちをじわじわ苦しめる。
第四章:秋夜の風鈴、短い共鳴
月末にさしかかったある夜、幹夫は残業を終え印刷所を出ると、冷たい風に思わず身を震わせる。「もう冬が近いな……」と呟きながら下宿へ帰る。
窓を開けると、空には澄んだ秋の夜空が広がり、月が淡く輝いている。二つの風鈴が軽く揺れ、**チリン……**と儚い音を合わす瞬間がある。
「この音が、静岡の父さんのところにも届けば……。今年ももうすぐ終わりだ。お互い何とか踏み止まっているけど、来年はどうなるのかな」と幹夫は独りごちる。
しばらくして風が止み、風鈴も静まる。幹夫は布団に潜り込み、「今月は大口軍仕事もなかったし、民間を伸ばせたが、このまま行けるわけでもない。とりあえず明日も頑張ろう……」とまぶたを閉じる。外からは秋虫のかすかな声が聞こえ、遠い茶畑の光景が脳裏をよぎる。
結び:秋の先へ、さらなる物語
昭和十年十月、印刷所は夏の激務を終え、民間仕事が継続して好調である一方、警察の巡回や軍の沈黙が不気味に影を落とす月となった。
大きな嵐が来ないまま秋深くなり、静岡の父からは「今年も拡張が再開せず、茶畑を守れそうだ」という安堵の知らせ。
幹夫は夜の風鈴が短く重なる音を聞くたび、東京と静岡がまだ繋がっていると感じ、薄暗い中でかすかな安心を覚える。
しかし、年の瀬が近づくにつれ、「このまま何もなく年を越せるのか」という疑問が頭をもたげてくる。二つの風鈴の音は、東京の下町と静岡の茶畑の繋がりを示し続けながら、訪れざるを得ない冬の入り口を静かに見つめていた。
序幕:秋の深まりと穏やかな空気
十月の秋も過ぎ、東京の下町には徐々に冬の気配を感じさせる冷え込みが差し始める。 印刷所では、幹夫や戸田、堀内、そして職人たちが夏の激務を乗り越え、ようやく落ち着いた民間案件をこなしつつ、年の終わりを見据えている。 しかし、軍は再び沈黙しており、「年末にもう一度大きな仕事を振ってくるのではないか」という不安がくすぶる。一方、警察の巡回は小規模に続き、反戦ビラの影は相変わらず薄暗いまま――そんな複雑な状態のまま、昭和十年(1935年)の十一月が幕を開ける。
第一章:民間仕事、年末進行の足音
十一月上旬、印刷所には以下のような民間案件が少しずつ舞い込む。
年末の行事やイベントのチラシ(商店会・町内会向け)
学校が年度末に向けて準備する文集や案内資料
私立団体が秋の文化活動を紹介する小冊子
社長は「これをきちんと捌いて評判を維持すれば、来年も軍の仕事だけに振り回されずにすむ」と期待。戸田は職人たちを奮い立たせ、「今こそ民間の基盤を固めよう」と営業や校正を活発に行う。 幹夫や堀内も「警察の動きがいま小さいうちに、できるだけ納品を進めたい」と考えながら、昼も夜も印刷機を動かす。多忙ながらも、夏のような徹夜地獄に比べれば、はるかに自由度を感じられた。
第二章:静岡の父、今年の収穫と継続
十一月中旬、幹夫のもとに父(明義)からの手紙が届き、「今年の茶の最終的な収量が確定し、そこそこ良い数字が出た」という報告がある。
「拡張再開がないまま一年が終わりそうだ。まさかこうして落ち着いた一年になるなんて、ありがたい話だ」と父は筆を進めるが、「戦意高揚の空気は相変わらずだから、来年もどうなるかは分からん」と警戒を継続している旨を伝える。
幹夫はこの手紙を読み、「父さんの陳情や町役場の努力が実を結んだんだな。こちらも民間仕事が充実していて、今年は意外なほど安定している」と胸を温める。夜に窓を開け、二つの風鈴を見つめ、「このまま年末まで落ち着けば……」と祈るように思う。
第三章:警察巡回、年末前の小波
十一月下旬、警察が年末前の巡回を強化するという噂が再び浮かぶ。
街の一角で「反戦ビラらしきものが夜中に貼られた」という情報があり、警察が印刷所や紙問屋をリストアップしているらしい。
社長は職人を集めて「皆、怯えずに堂々としていろ。軍の仕事の実績と、今は民間をやっている帳簿をちゃんと見せれば大丈夫だ」と言い聞かせる。
戸田は「いま警官に踏み込まれれば、年末の納期がズレる恐れもある。できるだけスムーズに対応しよう」と、軍ポスターの残った版下や在庫を整理する。
幹夫と堀内は「ビラ勢力がまだ生きているのか……。俺たちにはもう何もできないが、少しは応援したい気持ちもある」と、複雑な想いを胸に抱く。しかしいまは印刷所を守ることが最優先という現実が彼らを縛っていた。
第四章:夜の風鈴、わずかに震える
月末が近づき、町にも師走の気配が漂い始める。印刷所では民間案件の年末進行がじわじわと忙しさを増し、職人たちがやや慌ただしいムードで働く。
幹夫は夜遅くまで残業し、下宿へ帰り着くころには深夜。窓を開けると冷たい晩秋の風が室内に流れ込み、二つの風鈴をかすかに揺らす。
チリン……とごく短い音を聞き、幹夫は微笑みながら「父さんもそろそろ一年を終えようとしてる頃だな……俺たちも無事に年を越せるかもしれない」と思う。
しかし、完全には安心できない。もし軍が年末にもう一度大口のポスターを求めてきたら、また徹夜の地獄が待っている。警察が年の瀬に大々的な捜査を打ち出す可能性もある。 幹夫はそんな不安を抑えつつ、「今月は何とか大きな嵐が来ずに済んだ」と布団へ潜り込む。遠くで秋虫の声がかすかに響き、二つの風鈴が軽く共鳴している。
結び:秋の終わり、冬への序章
昭和十年十一月、東京の印刷所は民間仕事で忙しい月となり、軍の大口依頼が来ないまま一息つく時期を享受できた。
警察の巡回は継続しながらも、大掛かりな捜査には至らず、ビラの影も小さな噂程度に留まっている。
静岡では父が今年の茶畑を無事にまとめ上げ、拡張再開はないまま年の瀬へ向かう様子に、幹夫はほっとする。
そうして秋が深まる中、冬の入り口が見え隠れする。師走になれば軍や警察が動くかもしれないという警戒は消えないが、印刷所の職人たちは今のうちに稼ぎと評判を積み重ねて、苦しい時期に備えたいと思う。二つの風鈴は夜風に短くチリンと鳴り合い、遠い茶畑と下町を繋ぎながら――それぞれの土地が今年をどう締めくくるかを、静かに見守り続けているのだった。
序幕:冬の気配と年末の足音
十一月が終わり、東京の下町には本格的な冬の冷え込みが訪れはじめた。 印刷所では、幹夫や戸田、堀内らが民間仕事を粛々と進めつつ、「年末進行」で忙しくなる日々を迎えている。夏に続く軍の大口依頼がないまま、このまま師走を無事に越せるのか――そんな淡い期待と、不気味な不安が同居するなかで昭和十年(1935年)の十二月の幕が上がる。 外の道端には門松などの正月準備の雰囲気がちらほら見え、下町の人々は年の瀬の慌ただしさを感じつつも、どこか浮き立った空気を帯びていた。
第一章:民間案件、師走のラッシュ
十二月上旬、印刷所には年末恒例の民間印刷案件がやってくる。
商店会の「歳末大売出し」のチラシ、町内会の「年末行事」チラシなど、季節感にあふれた依頼が増加。
一部の学校からは、新年度の準備を見越した冊子制作の打診も入り、職人たちがスケジュール調整に奔走する。
社長は「いいじゃないか。年末ギリギリまで忙しいのは稼ぎ時だ」と嬉しそうだが、戸田は「軍が不意に来たらまた全部後回しになる。警戒は解けない」とくぎを刺す。 一方、幹夫や堀内も「今年いっぱいは乗り切りたい。このまま大きな軍仕事が来なければいいが」と内心で祈るような気持ちを抱えていた。
第二章:静岡の父、今年の総括
十二月中旬、幹夫のもとへ父(明義)から手紙が届く。
「いよいよ一年が終わるな。今年は軍拡再開がないまま、茶畑の収穫をまとめられた。町役場での陳情も引き続き粛々と進めている」
「戦意高揚が全国で叫ばれているが、ここではまだ穏やかに年末を迎えられそうだ。そちらも疲れすぎないよう、気をつけろ」と締めくくられている。
幹夫は「父さんも無事に一年を終える見込みか……本当によかった」と胸をなでおろす。 同時に、「こちら東京も、夏以降は軍の大口がなく、警察の巡回こそあれど事件は起きていない。意外なほど穏やかに年を越せるかもしれない……」と、淡い期待が頭をよぎる。
第三章:警察巡回と“年末見回り”
十二月下旬、歳末の慌ただしさのなかで警察が「年末見回り」の一環として印刷所を含む周辺地域を軽く巡回するという噂が流れる。
職人たちは「またか……」と苦い顔をしながら、在庫や帳簿を最終チェックする。
社長は「万が一、軍の依頼がないと怪しまれないかな?」と不安を口にし、戸田が「昨年の大口実績や、夏に徹夜でポスターを刷った分の書類を提示すれば問題ない」と提案。
実際に警官が来ても形式的な確認に留まり、深い捜査は行われない。幹夫は「ビラの噂もここ数ヶ月まとまった話は聞かないし、本当に姿を消してるのか……」と考えるが、もはや自分たちが手を貸す余地はまったくないので複雑な思いを抱えつつも何もできない。
第四章:下町の年末と夜の風鈴
年の瀬、職人たちが民間案件を急いで仕上げ、ようやく31日までには納品を済ませられる見通しが立つ。
街には門松や正月飾りが並び、店先では歳末大売り出しや餅つきの風景が見られるが、印刷所内はギリギリまで作業に追われ、「まともに正月を迎えられるのか……」と苦笑いする者も。
社長や戸田が「今年は苦労したが、大きな軍仕事もなかった下半期は民間に注力できた。なんとか乗り切ったな」と胸を撫でおろす。
幹夫は大晦日の晩、ようやく業務を終えて下宿へ戻る。窓を開けると、冷たい冬の風が吹き込み、二つの風鈴がチリンと短く合わさる。 「父さんも今夜は年越し……茶畑は今年も守り抜いたし、俺たち印刷所も今年は大口に振り回されながらも崩壊せずにやってこれた。来年はどうなるんだろう……」 疲れ切った身体を布団に沈めながら、幹夫は「二つの風鈴がまた鳴り合えば、静岡と東京が繋がっている証だ」と信じ、目を閉じる。
結び:昭和十年の終わり、次なる年への閑寂
昭和十年十二月、印刷所は民間仕事の年末進行を何とか捌き、軍の新たな大口依頼は来ないまま大晦日を迎えられた。
警察巡回はあったものの大掛かりな捜査には至らず、ビラの大きな動きも表面化しない。
静岡では父が茶畑を安定運営し、拡張再開なしで年を越せる見込みとなり、幹夫は心の底から安堵する。
昭和十一年(1936年)を目前に、二つの土地はともに嵐を回避して一年を締めくくる。だが戦意高揚の潮流が消えたわけでもなく、軍が抑え込んでいる力がいつ爆発するか分からない――その不安は決して消え去らない。夜更け、二つの風鈴が寒風にチリンと合わさる。幹夫は「今年はよく踏み止まれた」と心のなかで呟き、下町の冬の闇に瞳を閉じる。遠い静岡の父と東京の印刷所が共に乗り越えた昭和十年が幕を下ろし、新たな年への扉が静かに開かれようとしていた。





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