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曖昧な恐怖を越えて

 「こんなクレーム、いつから当たり前に受け入れるようになったんだろう」 都内郊外の量販店で働く若い女性――仮にAさんと呼ぼう――がそう呟いたのは、今年の梅雨入り前、雨がよく降る季節だったと聞く。私が彼女と出会ったのは、ある労働相談の現場である。

 量販店では客数が増えれば増えるほど、不満を抱える客の割合も大きくなる。これ自体は仕方ない。だが、それが“カスハラ”――不当な要求や暴言、さらには身体的な暴力へと発展する事例が増えているのだ。Aさんが勤める店舗だけでなく、全国の様々な現場で同様の被害が報告されている。

 Aさんは、クレーム対応で毎日のように心をすり減らしていた。返品ポリシーを無視した無茶な要求、同じ話を何十分も繰り返され、最後には「バカ」「クビにしてやる」といった罵倒。初めは「私が至らないのかな」と思い詰めたが、経験を積むほどに「これはおかしい」と気づいたという。行き過ぎた要求や暴言は、もはや“サービス”や“気遣い”では処理できない問題だ。

 そうした中、Aさんの勤務先の企業――通信販売から実店舗まで展開する大手チェーン――が、この春、「カスタマーハラスメント対応マニュアル」をようやく導入した。目的は明確で、「従業員を保護し、心理的および身体的安全を確保する」ため。いわゆる“泣き寝入り状態”から一転して、「何かあったら、すぐ相談していい」という方針を打ち出したのだ。

 私自身、最初は「そんなマニュアル程度で変わるのか?」と半信半疑だった。だが、Aさんの表情は少し明るくなっていた。これまではひたすら謝り、辛くても上司に“怒られる”のが怖くて報告を控えていた。ところが新しいマニュアルには、「不当な要求や暴言は毅然と断る」「理にかなわない拘束にはエスカレーション」「必要なら警察や弁護士に相談」とまで、具体的なステップが書かれていたのだ。

 たとえば、誰かが“無茶な要求”をされればすぐに上司や法務にエスカレーションしてもよい――“誰か”とはAさんのような非正規の若いスタッフでも、だ。その後、会社が従業員をサポートする仕組みが動き出すので、一人で耐え続ける必要がなくなった。実際、Aさんがこの新ルールを使い始めた途端、「それならばもう話はいい」と憤慨して去っていく客が数人いたというが、「そんな人とは最初からまともに向き合えない」と上司がはっきり断言したことに驚いた、と彼女は笑う。

 当然、企業としては「顧客を失うリスク」はゼロではないだろう。だが、Aさんの上司はこう語ったという。「お客様以前に、社員が健康でいられなければ店も会社も回らない」。言われてみれば当たり前の話だ。“客が神様”という昭和的な言い回しを、令和の若者たちは素直に受け容れられない。私たちの社会は、“働く人たちが自分の健康や尊厳を大事にできるか”が問われる段階に来ている。

 だから、最近では法的根拠まで細かく示すマニュアルが増えた。労働基準法や労働安全衛生法で保護される環境のもとで働く権利、刑法上の暴言・暴力・脅迫の定義――それらを企業が「武器」として持ち、従業員に渡す。私は、それがようやく常識になりつつあることに安堵する一方で、ここに至るまでの道のりの長さを改めて痛感する。体調を崩して退職していった者、理不尽な仕打ちに耐えかねて心を閉ざしていった者が、どれほど多かったことか。

 Aさんは言う。「理不尽なことを理不尽だと気づくまで、すごく時間がかかったんです。私がダメだから怒鳴られるのかなって」。それはきっとAさんの問題だけではない。社会全体が、悲しいことに、“自分より弱い存在を標的にするストレス解消”を黙認してきた面があるからだ。そこに「やむを得ない」とか「仕事だから仕方ない」と言い含めることで、本来不要な“我慢”を押しつけてきた。

 ようやく、その歪みが糾され始めている。「冷静な対応」「記録の作成」「エスカレーション」「従業員のケア」――言葉にすれば味気ないが、これらのステップが、Aさんのような人たちを救う手綱となる。それを使いこなすには、会社の本気度や、周囲の理解、さらには従業員自身の自己防衛意識が不可欠だ。それでも、これまでは何もなかったのだから、導入しただけでも前進だといえる。

 誰かが“言ってはいけないこと”を言い、誰かが“されてはいけないこと”をされ、傷ついていく。そんな当たり前に潰されていた尊厳を守るには、企業、社会、働く私たちが連帯して取り組むしかない。Aさんは「まだトラウマがすっかり消えたわけではないけど、“会社が私を守ろうとしてくれる”と実感できるだけで、気持ちが全然違う」と笑った。

 曖昧な恐怖、あの「自分だけがおかしいのかもしれない」という不安から、一人でも多くの働く人たちが解放されること。それが今後のカスハラ対応マニュアルに課された使命なのだろう。私たちはこれを“絵に描いた餅”で終わらせないためにも、一歩ずつ、しかし確実に現場を変えていかなければならない。手を抜けば、再び歪みは戻ってくる。

 Aさんの勤める量販店には、梅雨明けとともに夏物セールの準備が進められていた。賑やかな店内と裏腹に、彼女は久しぶりに「朝起きるのが憂鬱じゃない」と小さく言う。そんな当たり前のことに、私たち社会はようやく気づいたのだ――“理不尽さに飲み込まれない”という最低限のことすら、まだまだ多くの場所で確立されていない。小さな一歩の先に続く、大きな変化を見届けるまで、私は取材を続けていくつもりだ。

 
 
 

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