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梅は酸(す)の暦を編む


 六月のはじめ、駿府城の堀の北側で、梅の木が低い鈴の音を立てました。葉脈は薄い川の地図のように透け、青い実はまだ固く、朝の光を丸ごと握りしめています。 幹夫は風で落ちた実を拾い、そっと手のひらで転がしました。すると、そのうちのひと粒が、ほんの少しだけ温度を上げて言いました。

「幹夫くん、きみは風の地図も水の字も集めた子だね。ぼくらは酸の暦で時間をしまう。手伝ってくれる?」

 幹夫はうなずき、ノートの七ページ目に題を書きました。〈梅—酸の暦〉。 梅は続けます。「二つの瓶を用意して。光の瓶には氷砂糖、影の瓶には塩。光は甘い時間を、影は静かな時間を保存する」

 家に戻ると、おばあちゃんが台所で大きな瓶を洗っていました。湯気は白い雲になって天井にのぼり、瓶の口がひとつずつ金色にひかります。「今日は梅仕事かい」「うん。光の瓶と影の瓶をつくるよ」 幹夫は実を拭き、竹串で小さな穴を一つずつ開けました。台所の秤は、重さの地図を指でなぞるみたいに、針をすこしずつ進めます。 氷砂糖は透明な六角星、塩は小さな白い石。梅の声が瓶の底から上がってきました。「順番は、星・実・星。それから光のページに『待つ』と書いて」

 光の瓶には、梅と氷砂糖が交互に重なり、やがて瓶の壁に最初の雫がひとつ現れました。雫はタンと落ちて、底で静かに砕けます。「海のページで覚えた拍子を思い出して」と梅が言いました。「うん。きょうは四拍子だ、タン・タン・タン・タン」 幹夫は雫のリズムをノートに写し、脇に〈風=南東/光=午前強〉と耳の注を書き添えました。

 影の瓶では、塩が梅の水を呼び出しはじめ、底で透明な湖がゆっくり増えていきます。森の水の字にも似た、静かな太い線。「影の瓶は夜の係りだ」と梅。「窓から離して、黄昏の綴じ糸で口を結ぶんだよ」 幹夫は布を十字にかけ、瓶の首をひとむすびしました。夕方、用宗の浜で聞いた二拍子に合わせて結ぶと、結び目が小さく「カチン」と鳴りました。

 雨が来た日、光の瓶では雫の拍子が三に寄り、影の瓶では塩の星が底でゆっくり溶けました。幹夫はページにこう書き足します。〈雨=拍子三/影=静かに上潮〉 安倍川の橋を渡る風が台所へ入り、瓶の表面に細い波紋が走りました。「風のページと、海のページと、黄昏の章が、ここで重なるんだね」「そう」と梅。「だから瓶は、ちいさな時間の井戸になる」

 三日目、光の瓶の色が、若草色からうすい琥珀へと変わりました。瓶の内側を登る雫は、砂のアルバムを逆さに読んでいるようです。「幹夫くん、今夜、を鳴らそう」「また?」「正午の鐘、黄昏の鐘につづく、梅雨の鐘だ。影の瓶の水位がひと目盛ふえたとき、瓶の肩をそっと指でたたいてごらん」 ——コトン。 台所の静けさの真ん中に、小さな音が沈んでいきました。幹夫の胸の中でも、同じ音が遅れて鳴ります。

 ページの下段に、幹夫はまとめを書きました。〈光=甘い時間(雫の拍子で数える)〉〈影=静かな時間(塩の星で縫う)〉〈瓶=時間の井戸/窓=天気の注〉 さらに余白に、矢印で街の地図を結びます。駿府城の梅→家の台所→用宗の二拍子→安倍川の風→駅前のひまわり。 線と線が交わる場所に、小さな印。そこはいつか、集まるべき場所になるはずです。

 数日して、梅雨の晴れ間。幹夫は光の瓶を窓辺に、影の瓶を棚の下段に置き直しました。ひまわりの天文台で覚えた光の折り目に合わせるためです。 瓶の中の梅が、低く笑いました。「きみは、待つという仕事が上手になったね」「うん。待つあいだ、地図帳が発酵する感じがする」「それが酸の暦。時間は酸っぱくしておくと、冬まで持つ」

 夜、幹夫は七ページ目のいちばん下に、ゆっくりと文を一本書きました。〈酸は、季節を保存する術。拍子を数え、影を結び、余白で待つ〉 書き終えると、瓶の底から一粒、明るい泡が生まれました。泡は細い星になって浮かび、やがて見えなくなりました。 窓の外では、駿河からの風がそっとページをめくり、遠く梅ヶ島の方へ湿った匂いを運んでいきます。上流の山では、もう来年の花の設計が始まっているのかもしれません。

 幹夫は瓶の布を軽く撫で、灯りを落としました。台所の闇に、ガラスの肩が小さく光ります。——風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、光は時刻、黄昏は綴じ糸。 そして梅は、待つ力で季節を編む暦。 ぼくは、その頁と頁をつなぐ、瓶の見張り番だ。

 
 
 

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