泡は宛名を書く
- 山崎行政書士事務所
- 2025年8月23日
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広野海岸公園の浜は、朝のうち青磁(せいじ)みたいに澄んで、昼が近づくと砂の色がすこし緑を帯びます。砂粒は細かい硝子粉のように光り、そこへ白い泡が紙の端をやさしく削るみたいに寄せては返っていました。 幹夫はノートを開き、八ページ目の上に小さく題を書きます。〈潮の手紙〉。
泡が一筋、足首を撫でて逃げるとき、きめの細かい声がしました。「やあ幹夫くん。きみは風の地図と水の字、海の拍子と砂のアルバム、光の地図と黄昏の綴じ糸、それから梅の暦まで、ちゃんと持っているね」「うん。ここでは何を覚えればいい?」「ぼくらの**宛名(あてな)**を書いてほしい。潮の手紙は届くと同時に消えるから、宛名が残らない。きみの鉛筆で、消えた直後の場所へ、そっと名前を置いておくんだ」
幹夫は波打ち際に細い棒線を引きました。そこが郵便受けの口です。泡が寄せるたび、口は白くふくらみ、引くとき黒い唇になって、砂に細い皺を置いていきます。「誰あての手紙?」「たとえば、うもれた貝。朝いちにひとつ、午後にもうひとつ。黒い石には三つの点線。スナガニには丸印を、流木には長い横線を。——ほら、今の白い帯は『浜全体あて』だよ」
幹夫はページに記号の一覧を作りました。〈貝=点二つ〉〈石=点三つ〉〈蟹=丸〉〈流木=長線〉〈浜=白帯〉。 耳を澄ますと、波はきょう、四拍子です。タン・タン・タン・タン。影の指揮を習った用宗のパラソルの声が、金具をひとつだけカチンと鳴らして賛成しました。
砂の上に、点々と緑色のかけらがありました。海で角が丸くなった小さな硝子です。「それは付録だよ」と泡。「たまに手紙には付録がつく。読者をよろこばせるための、遅れて届く光だ」 幹夫はかけらをひとつ拾い、ノートの端に貼れるように、薄い紙にくるみました。〈付録—窓の色〉。
昼の手前、沖の色が一段深くなって、泡の粒が細かく変わりました。「午後は、二行(にぎょう)で書く」と泡。「一行目は白、二行目は影。白い行であいさつ、影の行で本題。——忘れないように、浜の黒いところへ二本、線を引いておいて」 幹夫は濡れた砂の帯に平行な線を二本、指でなぞりました。引き波がその線をほんの少し削って、きれいな書体に整えます。
そこへ、穴からスナガニがひょいと現れました。目を高く上げ、殻を軽く鳴らします。「郵便の補助に来たよ。点線で配達済みを打つから、きみは宛名にだけ集中して」「たのむよ」 蟹は小さな爪で、砂の上に点線を素早く刻みました。泡がそこへ白い帯をふわりとかぶせるたび、点線はいっそうくっきり見えます。「配達済みは点線、承知しました」と幹夫はメモを足しました。
遠く、清水港のほうでクレーンが首を振りました。折りたたんだ昆虫の脚みたいな影が、空の低いところでゆっくり動きます。「港からの長い風が来る」と泡が言いました。「宛名がずれるよ。線の端に、風の方角を小さな三角で書いておくと、あとで読み返すのが楽になる」 幹夫は三角の矢印を砂に置き、ノートにも〈風=東南→〉と耳の注を書き添えました。波は拍子をすこし変え、タン・タタンと五に寄りはじめます。
宛名をいくつか書いているうち、幹夫は気づきました。白帯に混ざって、ときどき**言葉の欠片(かけら)**が流れてきます。「『おかえり』とか『ここにいる』とか、そんな感じがする」「それは町からの返事だよ」と泡。「道の端、バスの停留所、橋のたもとで言われた言葉が、薄くなって海へほどけてくる。私たちはそれを宛名の脇に小さく添える。読む人が安心するようにね」 幹夫は〈返事=薄字〉と書き、砂の線のかたわらにほんの短い鉛筆の影を置きました。
午後三時、雲が低く入り、海の面は絹の裏側みたいに静かになりました。「そろそろ消印(けしいん)の時間だ」と泡。「宛名の端っこに、きみの影を一度だけ乗せてごらん。すぐ消えるが、それで手紙は確かに『きょう、ここへ届いた』ことになる」 幹夫は立って、波打ち際の黒い帯に自分の影の先を落としました。 ——カン。 胸の中で鐘が小さく鳴り、白い泡が影の先を撫でていきます。消えると、そこだけすこし、砂の粒が細かくなっていました。「それが消印。黄昏の綴じ糸で覚えた二拍子に合うように、タン・タンで押す」
作業を終えかけたとき、一本の白帯がほかより長く伸び、幹夫の足もとまで来ました。泡はいつもより低い声で言います。「幹夫くん。きみの地図帳の最初のページ——風の地図を、ここにコピーしておくよ。冬の嵐が来たら、浜はそれを広げて迷子にならない。いいかい?」「お願い」 白帯は軽くひるがえり、風の矢印の群れを砂に薄く写し取りました。矢印はすぐ見えなくなりましたが、砂の中でわずかに方向をそろえ、きっと誰かの足裏で読めるでしょう。
夕方、広野の浜は紫がかった色に変わり、沖の方で二羽の鳥が入れ替わりに低く飛びました。 スナガニが穴にもぐる前に、砂へ短い点線を打ちます。「配達完了。きみの宛名は、浜のアルバムに綴じておいた。きょうの手紙は、夜の読者に届く」「夜の読者?」「月と、港灯と、波の底の魚。それから、ひまわりの種の夢だよ」
幹夫はノートの八ページ目を閉じる前に、まとめの行を一本、置きました。〈潮の手紙=届くと同時に消える。宛名は人が書き、消印は影が押す。付録は遅れて光る〉 そして、余白に小さく地図を描きます。広野海岸の線——用宗の指揮——駿府城の堀——駅前の三角地——安倍川の橋。線と線が交わるところへ、丸をひとつ。そこはまた、集まるべき場所になるはずでした。
帰り道、風は南東からやわらかく吹き、橋の上で川は三拍子で石を撫でました。 家に着くと、窓から駿河の匂いがそっと入り、机の上の地図帳の端をふくらませます。幹夫はページを撫でて、静かに言いました。——風は道しるべ、水は文字、海は拍子、砂は配達、光は時刻、黄昏は綴じ糸、梅は暦。 そして潮は、宛名を書いて消える手紙。 ぼくは、その宛名と消印を見守る、浜の記録係だ。




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