清水の空と新茶の星
- 山崎行政書士事務所
- 1 時間前
- 読了時間: 11分

清水の空と新茶の星
清水の空は、海の匂いをしていた。
幹夫は、そう思った。
空に匂いがあるなんて言えば、学校の友だちは笑うかもしれない。けれど清水の港へ来ると、空はただ青いだけではなかった。駿河湾の水の匂い、遠くの船の錆びた匂い、波に濡れた石の匂い、そして山の茶畑から降りてくる新茶の香りまでが、空の中で薄く混じり合っていた。
五月の終わりだった。
一番茶の忙しさが少し落ち着き、村の大人たちの声にもようやく息をつく間が戻ってきたころ、幹夫は父に連れられて清水の港へ来ていた。
父の手には、小さな茶缶があった。
今年できたばかりの新茶である。祖母が丁寧に和紙で包み、缶の蓋の上に細い紐をかけてくれた。届け先は、母が生前親しくしていた古い知り合いだという。清水の港で働いていた人で、今は足を悪くして、港のそばの小さな家に一人で住んでいるらしかった。
「母さんが、毎年持っていっていた」
車の中で、父はそう言った。
それ以上の説明はなかった。
父は母の話を多くしない。けれど、その短い言葉の中に、長くしまっていたものを少しだけ取り出すような響きがあった。
幹夫は助手席の窓から外を見ていた。
山の茶畑から町へ下りるにつれて、空の広さが変わっていく。茶畑の上の空は、若葉に近い。風も、光も、露も、みんな茶の葉に触れているように見える。けれど清水の空は、もっと開けていた。海へ向かって大きくひらき、雲も鳥も船の煙も、ゆっくり遠くへ流れていく。
幹夫は十二歳だった。
人より少しだけ、胸の中が薄くできている少年だった。誰かの何気ない言葉が一日じゅう胸に残る。夕焼けの色が深すぎると、理由もなく泣きたくなる。茶の若葉を摘むときには、その葉が抱えていた朝露や夜の冷たさまで指に移るような気がする。
父は、そんな幹夫を心配していた。
「お前は、何でも胸に入れすぎる」
父はよくそう言った。
責めているわけではない。むしろ父は、どうしたら幹夫が傷つかずに済むのか分からず、困っているのだと幹夫にも分かっていた。
けれど、胸に入ってくるものを止める方法など、幹夫は知らなかった。
風が吹けば、茶の葉は揺れる。
雨が降れば、土は匂う。
誰かの声が少し沈めば、心はそれを聞いてしまう。
それは、幹夫にとって自然なことだった。
母が生きていたころ、幹夫はその感じ方を恥ずかしいとは思わずにいられた。
母は幹夫の言葉を笑わない人だった。茶畑で、幹夫が「露の中に空が入っている」と言えば、「そうね、空もたまには葉っぱの上で休みたいのね」と言った。港へ行って、幹夫が「海が空を飲んでいるみたい」と言えば、「じゃあ、夕方には空が少ししょっぱくなるかもしれないわ」と笑った。
母は去年の冬に亡くなった。
雪の降らない、ただ冷たいだけの日だった。病院の白い壁、消毒液の匂い、窓辺の水仙、細くなった母の手。幹夫はその手を握っていたのに、言いたいことをほとんど言えなかった。
ありがとう。 行かないで。 また清水の空を見に行こう。 新茶の星が見えたら、教えてね。
どの言葉も喉の奥で固まり、声にならなかった。
新茶の星。
その言葉を、幹夫は母から聞いたことがあった。
まだ幼いころ、母に連れられて清水の港へ来た日のことだ。夕方、港の空が薄い金色から青紫へ変わるころ、母は小さな湯呑みに新茶を注ぎ、幹夫に見せた。
「見て、幹夫」
湯呑みの水面に、一番星が映っていた。
淡い緑の茶の中で、小さな光が揺れていた。
「新茶の星よ」
「空の星じゃないの?」
「空の星でもあるし、お茶の星でもあるの。茶畑で育った若葉が、清水の空を映して、もう一度星にするのよ」
母の言葉はいつも、少し不思議だった。
でも幹夫は、それを本当のこととして聞いた。
父は港近くの小さな家に茶缶を届けた。
相手は、白い髪の老人だった。元は港で荷役の仕事をしていたという。名前は村上といった。顔には深い皺があり、手は大きく、潮風で乾いていた。
「今年も来たか」
老人は父の顔を見ると、そう言った。
そしてすぐ、少しだけ目を伏せた。
「いや、今年は……そうか。奥さんは、もう」
父は黙って頭を下げた。
幹夫も頭を下げた。
部屋の中には、古い港の写真がたくさん飾られていた。白黒の船、荷を運ぶ人々、昔の清水の岸壁。窓からは港のクレーンが見えた。鉄の大きな腕が空へ伸びている。その向こうに、五月の雲がゆっくり流れていた。
村上老人は、茶缶を両手で受け取った。
「奥さんは、毎年これを持ってきてくれた」
老人は缶の蓋に触れた。
「港で働く者はな、海の匂いには慣れている。だが、五月の新茶の匂いを嗅ぐと、山が近くなる」
父は静かに頷いた。
老人は幹夫を見た。
「君が幹夫くんか。小さいころ、一度会ったことがある。お母さんの後ろに隠れていた」
幹夫は、覚えていなかった。
けれど、その言葉だけで胸が少し痛くなった。
母の後ろに隠れていた自分。
母の背中。
母の白い手ぬぐい。
覚えていないはずなのに、どこかで見たことがあるような気がした。
「奥さんは、清水の空が好きだったよ」
老人は言った。
「茶畑の空とは違う、とよく言っていた」
「どう違うって?」
幹夫は思わず尋ねた。
老人は少し笑った。
「清水の空は、船の行き先を知っている空だと」
幹夫は窓の外を見た。
港の上の空は広かった。鳥が一羽、クレーンの先をかすめて飛んでいく。雲は駿河湾の方へゆっくり流れ、青の中に白い線を残していた。
船の行き先を知っている空。
母らしい言葉だった。
茶缶を渡したあと、父と幹夫は港の近くを歩いた。
夕方にはまだ少し早かった。清水の町には、海の湿り気と、揚げ物の匂いと、遠くの市場の声が残っていた。港には船があり、ロープがあり、潮に濡れた岸壁があった。
幹夫は空を見上げた。
雲が高かった。
そして、その雲の下を、何羽ものかもめが風に乗っていた。
「お父さん」
「なんだ」
「お母さんは、清水の空が好きだったんだね」
「ああ」
父は短く答えた。
「お父さんは?」
父は少し考えた。
「俺は、あまり空を見なかった」
「どうして?」
「海へ来ると、船や荷物ばかり見ていた。畑では葉を見る。空は、天気を見るために見るくらいだった」
父は港の向こうを見た。
「母さんは、空を見るために空を見ていた」
幹夫は父の横顔を見た。
その言葉の中には、少しの後悔があった。
「もっと一緒に見ればよかった?」
幹夫が尋ねると、父はすぐには答えなかった。
波が岸壁に当たり、小さく砕けた。
「そうだな」
父は低く言った。
「もっと見ればよかった」
幹夫は胸が静かに痛んだ。
父にも、言えなかったこと、しなかったこと、戻れない時間がある。
母を失ったのは、自分だけではない。
そう分かっていても、父の寂しさはずっと遠くに見えていた。けれど今、清水の空の下で、少しだけ父の胸の中が見えた気がした。
父も、母と同じ空を見られなかったことを悔やんでいる。
その痛みは、幹夫の痛みとは違う形をしている。けれど、たぶん同じ新茶の香りの中で震えている。
夕方、父は岸壁近くのベンチに腰を下ろした。
祖母が持たせてくれた小さな急須と湯筒を、父は鞄から取り出した。幹夫は驚いた。
「お茶、持ってきてたの?」
「祖母さんがな」
父は少し照れたように言った。
「港で飲めと」
小さな茶葉の包みもあった。
今年の新茶だった。
父は慣れない手つきで茶葉を急須に入れた。湯を少し冷まし、注ぐ。急須から、青く澄んだ香りが立った。
その香りは、港の潮風の中で、不思議なほどはっきりしていた。
山の香りだった。 茶畑の香りだった。 けれど清水の空の下で嗅ぐと、そこに海の広さも少し混じっているように感じられた。
父は湯呑みを二つ並べた。
それから、鞄の中を探って、もう一つ小さな湯呑みを取り出した。
母の分だった。
幹夫は胸がいっぱいになった。
父は何も説明しなかった。ただ、その小さな湯呑みにも新茶を注いだ。白い湯気が港の風に流れた。湯気は上へ昇り、清水の空へほどけていった。
幹夫は湯呑みを両手で包んだ。
水面は淡い緑だった。
まだ星は出ていない。けれど空の色が、湯呑みの中に薄く映っていた。青から金色へ、金色から少しずつ紫へ変わり始める清水の空。
一口飲むと、若い苦みが舌に触れた。
母を思い出す苦み。 父の後悔を聞いた苦み。 言えなかった言葉がまだ胸に残っている苦み。
けれど、そのあと甘みが戻ってきた。
ゆっくりと、潮風の中でほどけるように。
幹夫は目を閉じた。
茶の中に、山の茶畑があった。 清水の空があった。 港の船があった。 母の「新茶の星」があった。 父の小さな湯呑みがあった。 そして、幹夫自身の胸の中で、まだ言葉にならない寂しさがあった。
「おいしいか」
父が尋ねた。
「うん」
「どんな味だ」
幹夫は少し考えた。
「清水の空を映した新茶の味」
父は眉を寄せた。
「分かるような、分からんような」
けれど声はやわらかかった。
幹夫は湯呑みを見つめた。
そのとき、港の空に一番星が出た。
薄い紫の空の中に、小さな光がひとつ。
幹夫は思わず息を止めた。
星は湯呑みの水面にも映った。
淡い緑の新茶の中で、小さな光が揺れている。
幹夫の胸が強く鳴った。
「お父さん」
「なんだ」
「見て」
父が湯呑みを覗き込んだ。
水面の中で、星が揺れていた。
「新茶の星」
幹夫は小さく言った。
父は黙っていた。
港の音が少し遠くなった気がした。
波の音。かもめの声。船のエンジン。町のざわめき。それらの中で、湯呑みの星だけが静かに光っていた。
「母さんが、そう呼んでいた」
父は低い声で言った。
幹夫は父を見た。
「覚えてるの?」
「ああ」
父は湯呑みの星を見つめた。
「この港で、同じように茶を飲んだときだ。母さんが、湯呑みの中の星を見て、新茶の星だと言った」
幹夫は何も言えなかった。
母の言葉は、自分の記憶の中だけではなかった。
父の中にもあった。
それも、同じ清水の空の下で。
「お父さん」
「なんだ」
「お母さんのこと、話すと苦しい?」
父は少しだけ目を伏せた。
「苦しい」
正直な返事だった。
「でも、話さないでいると、もっと遠くなる」
幹夫は頷いた。
「僕も」
父は幹夫を見た。
幹夫は湯呑みを包む手に力を入れた。
「僕も、思い出すと苦しい。でも、思い出さないようにすると、お母さんが遠くなる」
夕方の風が吹いた。
母の分の小さな湯呑みの湯気は、もう薄くなっていた。
けれどその水面にも、星が小さく映っていた。
幹夫はそれを見て、胸が締めつけられた。
「お母さんにも、見えてるかな」
父は答えなかった。
その代わり、小さな湯呑みを少しだけ空の方へ向けた。
それは父なりの返事だった。
幹夫には、そう分かった。
清水の空は、ゆっくり夜へ変わっていった。
星が少しずつ増えていく。町の灯も増えていく。港には地上の星がともり、空には遠い星がともる。そのあいだに、新茶の香りが漂っている。
幹夫は思った。
清水の空は、上にあるだけではない。
港の水に映る。 湯呑みの新茶に映る。 父の沈黙に映る。 母の記憶に映る。 自分の涙にも、たぶん映る。
小さなものほど、大きな空を映すのかもしれない。
茶の葉の露も。 湯呑みの水面も。 感じやすい胸も。
その日の帰り道、父と幹夫はあまり話さなかった。
けれど沈黙は冷たくなかった。車の窓から、清水の夜の灯が流れていく。港のクレーンが黒い影になり、遠くの船の灯が水面に揺れていた。
幹夫は胸の中で、一番星の映った湯呑みを思い出していた。
新茶の星。
母が名づけた星。
父も覚えていた星。
今年、幹夫がもう一度見つけた星。
家に戻ると、祖母が起きて待っていた。
「見えたかい」
祖母はそう尋ねた。
何が、とは聞かなかった。
幹夫は頷いた。
「新茶の星」
祖母は微笑んだ。
「そうかい」
父は何も言わなかった。
けれど仏壇の前に行き、清水で使った小さな湯呑みを母の写真のそばへ置いた。
その仕草を見て、幹夫の胸は温かくなった。
夜、幹夫は机に向かった。
白い紙を出し、鉛筆を握った。
今日の清水の空を書きたかった。
忘れたくなかった。でも、ただ握りしめるのではなく、言葉にして少し外へ流したかった。
幹夫は書き始めた。
――清水の空は、海の匂いがします。 ――そして新茶の香りもします。 ――山で育った茶の若葉が、港の空を映すと、湯呑みの中に小さな星が生まれます。 ――母はそれを、新茶の星と呼びました。
字は少し震えていた。
けれど、幹夫は消さなかった。
震える字には、港の風が入っている。湯呑みの星が入っている。父の「苦しい」が入っている。
――今日、父と清水へ行きました。 ――父も母の言葉を覚えていました。 ――母のことを話すと苦しいけれど、話さないでいると遠くなると言いました。 ――僕も同じです。 ――新茶の星は、母が遠くなったのではなく、違う場所に映るようになったのだと教えてくれました。
幹夫は一度、窓の外を見た。
茶畑は見えない。
けれど香りがあった。
続きを書いた。
――星は空にあります。 ――でも、湯呑みの中にもあります。 ――母はもういません。 ――でも、父の記憶の中にも、祖母の湯気の中にも、僕の胸の中にも、少しずつ映っています。 ――清水の空と新茶の星は、小さなものが大きなものを映せることを教えてくれました。
最後に、こう書いた。
――僕の心は、すぐ揺れます。 ――でも、揺れる水面にも星は映ります。 ――だから僕は、この揺れやすい心を、少しだけ大切にしてみようと思います。
書き終えると、幹夫は紙を畳まずに机の上へ置いた。
窓を開ける。
夜風が入ってきた。
遠い清水の港は見えない。けれど、空はつながっている。茶畑も見えない。けれど、新茶の香りはかすかにある。
幹夫は夜空を見上げた。
星がひとつ、静かに瞬いていた。
その光は、ほんの少しだけ緑がかって見えた。
幹夫は小さく微笑んだ。
清水の空に、新茶の星がまたひとつ灯ったのだと思った。





コメント