狭間の工場 — 中小企業サイバー対応長編(山崎行政書士事務所・現場小説)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年9月14日
- 読了時間: 11分

止める/伝える/回す。中小企業では、この三つを同時にやるしかない。完璧な設計より、今の三分だ。—— 律斗
プロローグ|05:52
土曜の朝。静岡市の郊外、川瀬金属工業(従業員52名)の工場に、フォークリフトの逆流音が響く。社長の川瀬晴海(かわせ・はるみ)は、暗い食堂の自販機で缶コーヒーを買い、出荷管理のPCに顔を近づけた。
Your files are locked.支払いは72時間以内。交渉はここに——
画面の赤は、板金用の油の匂いより生々しかった。NASの共有フォルダは開かない。受注表のExcelも、BOM(部品表)も、曲げ加工のベンダー設定のファイルも、拡張子の最後に見たことのない記号が付いていた。
「……麻衣、起きてるか?」スマホの向こうで、経理兼CFOの川瀬麻衣(社長の長女)が短く息を飲む。
「給与の振込データ、月曜の朝一です。止まります。」「山崎さんに電話しよう。あの行政書士のチーム。」
第一章|ウォールーム、シャッターの内側(06:29–08:40)
06:29シャッターを半分だけ開けた工場の会議室に、山崎行政書士事務所のチームが滑り込む。先頭は律斗、隣にりな(法務)、ふみか(広報)、蓮斗(可視化)、奏汰(運用)、陽翔(現場支援)、悠真(調査)。
ホワイトボードに三行。
止める/伝える/回す
律斗「社長、ここでの約束は三つです。」
止める:暗号化の進行を止めるため、電源を抜く順番を指定します。
伝える:三文で現状を社内・主要取引先へ伝えます。電話が先、メールは後。
回す:出荷と給与を止めないための紙運用と復旧の順番を今決めます。
川瀬は頷いた。指が少し震えている。「やってください。」
06:42奏汰が工場のフロア図に赤ペンを走らせる。「隔離線はここ。事務所LANと工場LANを物理で切る。スイッチの上段と下段、上段だけ生かす。」陽翔が現場に走り、LANケーブルを一本ずつ抜く。油の付いた指で、青いクリップを押し込む。順番を間違えると、曲げ機のモニタまで落ちる。
06:57蓮斗がNASの前に立つ。「RAIDは生きてる。だけど共有は暗い。スナップショットの履歴は……七日前で止まってる。」麻衣が顔を上げる。「USBの外付け、昨日は交換してません。いつも金曜の午後なんですが——」
「戻れる線が七日前。給与の振込データは、昨日の更新。給与だけは別ルートで守る。」律斗。
07:05悠真が壁のホワイトボードにタイムラインを作る。
05:52 画面に脅迫表示
06:29 ウォールーム設置
06:42 物理分離開始
07:20 給与データの退避(優先)
08:10 受注表の紙印刷(残っていれば)
りな「給与は人の血。遅れは会社の信用に直結します。金融機関への電話を先に。振込の遅延があっても手数料を飲んで当日扱いにできるか、確認します。」
07:18ふみかが三文の原稿を置く。「社長、読み上げてください。」
現状:工場のファイル保存領域に不審な暗号化を確認。安全確保のためネットワークを区分しました。 対応:出荷は紙運用に切替、給与振込は別系統で確保します。 お願い:支払い先変更などメールだけの依頼は無効です。必ず電話での確認を。
「正午に一次報、17時に二次報。時刻を書きます。」りなが赤で線を引く。「不安に期限を。」
07:27工場の事務机。麻衣は給与振込ソフトのアイコンを見つめる。「このPCも暗号化の対象かもしれない。」奏汰が頷く。「オフラインで立ち上げる。USBでエクスポート。会計事務所の安全な回線を使って、銀行に入れる。」
「USBに入れた後、封筒に入れて社長と二人で持つ。」りな。「二名承認、口頭復唱。法律の線はここです。」
07:50出荷チームが集まる。現場長の石野が手を挙げる。「紙でいけるのは三時間が限界です。ラベル印刷が死ぬと、誤出荷が——」
陽翔「ラベルは単独PCを浮島にして生かす。ネットワークは切ったまま。USB経由でCSVだけ渡す。」「遅いけど確実。」石野はうなずいた。「やります。」
08:10プリンタが紙を吐く。昨晩の受注分だけは、モバイルのPDFに残っていた。薄い印刷の表に、油の指が重なる。川瀬は深呼吸を一度。やれることが見え始めた。
08:40工場の非常ベルではなく、外のトラックのバック音が鳴った。会社は動く。暗号化の表示の裏で、人が回す。
第二章|町のIT・坂井電算(09:05–12:30)
09:05「坂井電算さん、連絡が取れました。」麻衣が顔を上げる。町のIT屋、坂井(50代)。RMM(遠隔管理)の小さな管理画面に赤点が並ぶ。
坂井「金曜の夕方、CADのアドインが動かないって言われて、ウイルス対策を一時停止したんですよ。十分だけのつもりで……そのまま戻し忘れたPCが一台。」会議室の空気が一度止まる。律斗は責めない。「情報ありがとう。責任の追及は後。今は止める。」
悠真が坂井の画面を覗く。「RDPの穴が空いてる。転送のポート、外に出てます。」坂井は顔を赤くする。「工場の制御機が古くて、どうしても。」りなが静かに言う。「古さは罪じゃない。例外には期限を。期限が過ぎた例外は恒常的な弱点です。」
09:33金融機関から折り返し。『給与振込は当日扱いの臨時枠で対応可。手数料は二倍、社長決裁を。』川瀬は迷わず言う。「やってください。」
10:05ふみかが主要取引先15社に電話スクリプトを渡す。
現状:暗号化を確認。出荷は紙で継続。
お願い:支払い先の変更依頼は無効、電話確認を。
約束:正午に一次報、17時に二次報。
営業の若手が言う。「怒られます。」ふみかは頷く。「怒りは不安の言い換え。短く、同じ言葉を繰り返す。時刻を入れる。」
10:38NASの中で動いている何かが止まる。奏汰がスイッチの小さなLEDを見詰める。「進行は収束。落ちなかった端末は27台。暗号化されたのはServers: 2 / PCs: 19 / 共有: 1。」蓮斗が数字を四つだけ掲げる。
MTTD(検知まで):58分
一次封じ込め:2時間11分
出荷継続率:60%→正午80%(見込み)
給与の確保:当日扱い手配済
「取締役会はないけど、社長の頭の中は取締役会。」りなが小さく笑う。「数字は安心の形。」
11:20坂井が机を握りしめる。「社長、僕のせいです。」川瀬は首を振る。「坂井さん、うちの現場は金曜の夕方に無茶を言う。僕の責任でもある。」律斗「誰のせいかより、どこまで戻るかだ。七日前が限界。給与だけは昨日に戻す。受注はモバイルの履歴から補完、BOMは紙の図面から再入力。部門ごとに戻し担当を決める。」
11:58正午報の配信準備。ふみかが原稿を読み上げ、りなが**“確認”と“可能性”を別段**に直す。
事実:工場内のファイル領域で暗号化を確認。ネットワーク区分により進行を封じ込め。 影響:出荷は紙運用で継続、遅延は平均50分。給与振込は当日枠で確保。 連絡:支払い先変更は無効、電話確認を。17時に二次報。
川瀬は社内チャットに自分の言葉で短く添える。
「責めるために止めたのではない。守るために止めた。」
12:30食堂にコンビニの弁当が並ぶ。湯気はない。けれど、食べる人がいることが会社の証拠だ。
第三章|紙で回す午後、油の指と数字の行(13:10–18:20)
13:10ラベル印刷が孤島PCで復活。USBで渡したCSVが一枚ずつ吐かれる。石野「遅ぇ! でも間違えない。」陽翔「遅いけど確実、今日はそれ。」
14:05悠真がログを追う。「最初の侵入は一週間前。RDPのブルート。同じIDが何度も。金曜の20:12に権限昇格。」りなはノートに二本線。
確認:侵入経路は外部RDPの開放、ウイルス対策停止の重なり。
可能性:個人情報の第三者提供は未確認、継続調査。
「報告書の骨組みは今作る。72時間は月曜の朝からカウント。」りなはPPC(個人情報保護委員会)と取引先への連絡ラインを二枚に分ける。混ぜない。混ぜると時間が溶ける。
15:22脅迫サイトにタイマーが回る。00:00:00に向けて秒を刻む。ふみかは顧客向けQ&Aを配る。
身代金:払いません。
警察:連携中。
連絡:正午/17時に更新。言い切りは暴力ではない。不安に終わりを与える。
16:10出荷レーンの三番が再開。トラックがゆっくり動く。蓮斗が可視化の四つの数字を更新する。
出荷継続率:80%
遅延平均:43分 → 28分
給与確保:完了
暗号化の進行:停止(確認)
律斗「17時の二次報で**“回っている”を言う**。**“勝った”**とは言わない。」
17:00二次報。
封じ込め:進行停止。工場LANは区分を維持。 出荷:レーン3/4再開、遅延28分。 給与:当日枠で実行、完了予定。 次:日曜に復旧作業、月曜朝に**通常出荷80%**目標。
18:20蛍光灯が一本、チカチカする。誰も替えない。時間はそこにはない。
第四章|夜の復旧、安い椅子と高い判断(19:10–02:40)
19:10NASのスナップショットから七日前のBOMを戻す。差分は紙の図面と現場の記憶で埋める。麻衣は指先に紙の粉を付けて、番号を打ち直す。「間違えてない?」石野「お前の手、油の匂いがする。大丈夫だ。」
20:55坂井が椅子にもたれる。「更新、契約切れてたんです。UTMのライセンス、221日前に。」川瀬は沈黙のあと、小さく言った。「払うよ、今夜。言ってくれれば良かった。」りな「伝えられないのは伝える仕組みの欠陥。責任は共有。再発防止は人を責めない文章で。」
22:08悠真が一本、線を切る。外向けRDPを閉じ、VPNの仮運用を上げる。IDは二要素、期限は72時間。「仮の線に期限を。仮が常設になると、また同じ夜が来る。」
23:40ふみかが社内向けに**“おやすみ報”**を流す。
出荷:夜間は停止、誤出荷防止。 復旧:NAS差分の手作業継続。 お願い:脅迫メールの転送禁止、スクショは広報へ。
00:15脅迫タイマーがゼロになる。何も起きない。りな「時間は味方にも敵にもなる。見ない勇気。」
01:20奏汰が孤島PCの電源を落とし、深く息を吐く。「紙で回った。人で回った。」律斗は頷かない。頷くのは、月曜の午前だ。
02:40会議室の片隅に白い猫のマスコットが置かれる。やまにゃん。しっぽのUSB Type‑Cが、非常灯の緑を拾う。札には、誰かの手書きでこうある。
「遅いけど確実。」
第五章|月曜の朝、小さな勝負(06:30–12:10)
06:30月曜。工場の空気は冷たい。人が来る前の静けさは、稼ぐ準備の音だ。蓮斗の四つの数字が更新される。
出荷予定:通常比82%
給与:全員着金見込み
遅延目標:25分
復旧率(BOM/図面):67%
07:15銀行から着電。『着金、全員確認。』麻衣が笑う。目は赤い。
08:05ラベル印刷が本番に戻る。孤島から半島へ。陽翔が現場に短く言う。「復唱は続ける。二名承認も。」
09:10クレームが二件入る。営業「遅い!」と怒鳴られる。ふみかが電話を代わる。「遅らせたのは、守るためです。正午に状況を——」“正午”という時刻は、相手の呼吸を整える。
10:40坂井が請求書を出す。UTM更新、VPN機器、作業工数。川瀬は数字を丸で囲む。「払う。でも条件を付ける。例外に期限、二要素、復旧手順の文書。“金曜の夕方”のルールを一枚に。」りな「合意書、私が書く。**“言い切り”**で。」
12:10正午報。
回復:出荷82%、遅延平均23分。 給与:全員着金。 法:72時間の報告ライン継続、可能性は未確認。 次:夕刻、**復旧率90%**目標。
拍手はない。でも、ため息が軽くなった。
第六章|ポストモーテム、安堵と責任(木曜 17:00)
四日後。会議室にパネルが立つ。ポストモーテム。スクリーンには三つの列。
現場(出荷・製造・経理)
規制(72時間・PPC)
経営(信用・費用)
蓮斗が数字を読み上げる。
MTTD:58分 → 21分(改善後)
一次封じ込め:2h11m → 1h05m(練度向上)
出荷目標達成率:初日82%/二日目95%
例外期限遵守:67% → 96%
りなは原則を三行で貼る。
言い切る(事実と可能性を混ぜない)
期限を付ける(例外は時間で管理)
二重に確かめる(メールだけを信用しない)
坂井が小さく頭を下げる。「僕の現場、甘かった。」川瀬は前を見て言う。「“金曜の夕方”を守る仕組みがなかった。僕の責任だ。」ふみか「罰は短期、仕組みは長期。文章にして壁に貼る。」
やまにゃんの札が増える。
「メールだけなら、まだ半分。電話で、ほんもの。」「遅いけど確実。」「例外には期限。」
笑いが生まれ、疲労がほどける。会社は、細いけれど強い線でつながり直した。
終章|狭間を渡る
土曜の朝、先週と同じ自販機の前。川瀬が缶コーヒーを買う。薄い甘さ。画面にはもう赤はない。黒いコマンドも消えた。代わりに、プリンタが紙を吐き、フォークリフトが荷台を押す。仕事がある。給料が出る。文書が残る。約束が守られる。
中小企業に完璧な城はない。でも、三分で作れる堤防はある。止める/伝える/回す。遅いけど確実。例外には期限。その小さな言い切りが、見えない夜を渡す橋になる。
川瀬は缶を握り、シャッターを上げる。油の匂いが広がり、朝が入ってくる。狭間はまだある。けれど、渡り方をもう知っている。
—— 完
付録(壁に貼られたメモ/川瀬金属工業)
緊急時三文(社内/社外)
現状(確認した事実だけ)
対応(止める・回す・伝える)
時刻(次の報告予定を必ず入れる)
“金曜の夕方”ルール
ウイルス対策の例外は最長2時間、自動復帰。
RDPは外向け禁止、VPN+二要素のみ。
作業は二名承認、ログは翌営業日レビュー。
指標(毎週)
MTTD/MTTR
例外期限遵守率
主要出荷の遅延平均
給与準備のリードタイム
合言葉
「遅いけど確実。」
「メールだけなら、まだ半分。」
「例外には期限。」
(この物語はフィクションですが、描写・会話・数字の多くは中小企業の現場感に基づき、具体的な“攻撃手順”の開示は避けています。必要なのは止める判断、言い切る言葉、回す運用、そして例外に期限です。)




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