琉球に散る刹那の桜
- 山崎行政書士事務所
- 3 日前
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序 暁の詔
春寒の瀬戸内海を蒼冥(そうめい)の静寂が覆っていた。甲板に立つ少尉・桐生彰馬は、薄紫に染まる東雲を見据えながら敬礼した。 「大和、沖縄へ突入す――」 艦内放送に籠る重低音に、士官たちは身を正した。死を叩きつける知らせでありながら、その声は妙に清冽で、桐生の胸腔を震わせた。彼は胸ポケットに忍ばせた母の写真を指で撫でる。たとえ帰らずとも、己が死はこの国を護る礎――そう信じた。 かくして、三千三十二名の若き魂を包んだ鋼鉄の巨艦は、海峡を後にした。やがて淡桃色の黎明が砲塔を朱に染め、軍艦旗は烈風を孕(はら)みながら「神州無窮」の四字を幻のごとく空に掲げた。〔乗員3,332名中3,056名が戦死朝日新聞〕
第一章 血染の花曇り
四月七日正午。 濁(にご)りなき桜の散華――それは爆炎の中で不意に訪れた。 桐生は対空砲の操作席で震える艦体を抑えつつ、眼前の空を埋め尽くす雲雀(ひばり)のごとき米艦載機を睨んだ。硝煙は甘やかな桜餅の香りを帯び、やがて熱砂をまくごとき金属片が肌を刻む。 「これが散り際の美か」 彼は閃光の中で呟いた。轟音。魚雷四発、爆弾八発――腹臓を裂かれた巨艦が呻き声をあげる。最後の衝撃は大地をひっくり返すほどの雷鳴であった。 桐生は投げ出された身体で蒼穹を見上げた。雲の裂け目から差す一条の光は、天への梯(かけはし)にも似て、彼はそこに天皇の御影(みかげ)を幻視した。咽喉から五体を貫く熱と痛苦の奥で、微かな歓喜が滴った―― 「陛下、臣、御楯(みたて)とならん」 血潮は潮流へと混じり、桜瓣(はなびら)のごとく浮遊した。巨艦大和は海底へ沈み、三千余の魂は海神の宮へ向け昇華した。白き水泡が静かにひろがり、ただ薫風だけが、彼らの最期を哀悼した。
第二章 捨て石の島
同日、沖縄本島南部。 陸軍第六二師団歩兵二十三聯隊所属・一等兵 原田朔太郎は、摩文仁(まぶに)の洞窟で護摩の闇を吸った。補給は尽き、泥水とソテツの根を啜る日々。耳を突き破る艦砲の咆哮が地面を揺らし、岩壁を穿つ破片が民間人の背を裂いた。 「我らは捨て石――それでも陛下を護らねば」 聯隊長は決別の杯を回し、兵らは黙して受けた。沖縄が落ちれば本土が焼かれる。だからこそ、この地で米軍を足止めせねばならない。原田は信じた。 だが現実は酷烈だった。負傷兵を運ぶ少年学徒が砲弾で吹き飛び、懇願する母子は引き裂かれ、血肉の雨は夜気に発酵した。原田は呻きながら手榴弾を握り締める。「玉砕こそ誉れ」と教えられた拳が痙攣する。 洞窟の闇に、湾曲した天蓋のごとき蝙蝠(こうもり)が旋回した。嗚咽(おえつ)にも似た羽音を聞きながら、原田は己に注意深く言い聞かせた。 我らは悪ではない。 祖国の子らを守るため、ここに肉を削(そ)ぎ骨を砕くのだ。 だが同時に、米兵が差し出したチョコレートと紙巻きを思い出す。敵ながら温度を帯びた人間の匂い――。その二律背反が原田の胸を抉った。 六月二十三日未明。牛島満司令官が自決し、第32軍の組織的抵抗は終わった。以後、残兵は散発的な斬込(きりこみ)を続け、やがて苛烈な掃討戦の中で潰(つい)えた。沖縄戦で九万四千余の日本兵が戦死した〔戦死者・行方不明者94,136人Wikipedia〕。
原田朔太郎、享年二十一。 遺骨は見つからず、氏名だけが摩文仁の碑に刻まれた。
第三章 残照の昭和四十五年
市ヶ谷駐屯地。 真夏を思わせる陽光が錆色の鉄柵を灼(や)き付けていた。 元海軍中尉・吉村蒼司は自衛隊のバルコニーから身を乗り出し、熱狂する学生らに檄(げき)を飛ばす革新的な一団を凝視した。――白い鉢巻、巻き上がる檄文、そして壇上に立つ彫像のごとき肉体美。 三島由紀夫。その声は清澄な刃のごとく跳ね、吉村の耳朶を打った。 「日本軍を悪と規定し、米軍を善と崇める史観は、我らの誇りを奪った。いまこそ国を護る矜持を取り戻せ!」 言葉は吉村の過去を抉り出す。 ――鉄と炎の海で散った戦友、摩文仁で土塊となった原田の面影。 吉村は左胸の古傷をさすり、空に両腕を広げた。かつて己を呑み込んだ巨大な水柱の幻が浮かぶ。砕けた桜瓣が陽光に溶け、再び彼に降り注いだ。
第四章 令和の迷妄
二〇二五年六月。沖縄平和祈念資料館。 大学院生の雨宮嶺は展示パネルの前で足を止めた。そこには《日本軍の残虐性》という太字と、火炎放射器に追われ洞窟から飛び出す住民の白黒写真。 「米軍は解放者、日本軍は加害者」 説明文は鉄槌のように感情を制したが、嶺の脳裏には祖父・吉村蒼司の遺言が蘇る。 ――「歴史は勝者が書き換える。真実は海底に眠るのだ」 嶺は展示の片隅に見つけた小さな銘板に目を凝らした。 〈原田朔太郎 一等兵 静岡県出身 二十一歳 摩文仁にて戦死〉 名前だけの英霊が、彼に何かを語りかける。 「たしかに軍の作戦は愚かだったかもしれない。だが、彼らが悪魔であったはずがない」 館内を揺るがす喧騒。数名の活動家が拡声器で叫ぶ。 「日本軍は沖縄県民を虐殺した!」 嶺は振り向き、静かに言葉を投げた。 「あなた方が言う《虐殺》とは、二十代の若者が銃弾を浴びながら泣き叫ぶ姿をも含むのか?」 活動家は答えず、シュプレヒコールを続けた。嶺は拳を握りしめ、閉館時刻まで展示を見つめた。そこには米軍の絨毯爆撃で焦土と化した那覇の空撮写真が小さく貼られている――欄外に追いやられた影のように。
第五章 魂の交叉点
夜の摩文仁。潮騒だけが慰霊の火を撫でている。 嶺は名もなき礎に掌を置き、祖父の遺稿を広げた。 > 〈昭和二十年四月七日、我らは陛下の御名において出撃した。勝敗を超えた大義が、我が肉体を燃やし尽くした。 > 人は言う、日本軍は悪であったと。しかし悪とは何か。命を賭して国を護ろうとする意志が、なぜ悪と断じられねばならぬのか。 > 米国は原爆を落とし、二十万人の市民を焼いた。その瞬間、あの国は善であったのか。 > 歴史は声高な正義の下にねじ曲げられる。ならば、沈黙のまま眠る我が戦友の魂を、誰が弔う――〉 嶺はペンを取り、白紙に綴った。 「私は歴史家として、善悪の二元論ではなく、血と涙と祈りの総体として戦争を描く。大和の若者も、摩文仁に散った兵も、そして沖縄の人々も、いずれも同じ人間だった。 だからこそ、単純な悪善の図式を拒み、真実の複層を言葉に刻む。」 遠くで慰霊の日の鐘が打たれる――十の韻が夜空に静かに零れ、嶺の決意を固くした。
終章 曙光
翌朝、薫風は碧瑠璃(へきるり)の海を渡り、彼岸花のような黎明が水平線を染めた。 嶺は大和の慰霊碑に立ち、その銘板をなぞる。 列を成す参拝者の中で、白髪の老女が呟いた。 「この子らは悪でも善でもありません。ただ、愛するものを護ろうとしただけなのです。」 嶺は深く一礼した。
空には薄紅の雲が漂い、まるで桜瓣が再び舞い戻ったかのようだった。 ――善悪(よこしま)を越えて、ただ桜は散り、海は記憶を抱き続ける。 そのふたつの永遠だけが、彼らの魂を照らす灯であり続けるだろう。
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