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用宗の朝市、塩むすびの交換


 幹夫青年が朝に弱いことは、本人がいちばんよく知つてゐる。

 朝といふものは、世間が急に道徳家の顔をして、人の怠け心へ小言を言ひに来る時間である。幹夫はその小言が苦手で、だから大抵、朝はなるべく見ないふりをして過ごして来た。


 ところがその朝に限つて、目が覚めた。

 目が覚めた理由は立派ではない。寝つきが悪かつたのでもない。何かが胸の奥で、こつ、こつ、と小さく鳴つてゐて、寝返りを打つても鳴り止まない。

 ――湯気だとか、十円玉の「ちん」だとか、太鼓の「どん」だとか。

 この頃、幹夫の胸は、さういふ小さな音に弱くなつてゐた。


 それで彼は、ふいに用宗の朝市のことを思ひ出した。

 用宗。潮の匂ひのする、静岡の町の端つこ。港の朝に、魚が並び、声が飛び、湯気が立つ――そんな噂を、いつだつたか誰かから聞いた。噂は、頭の中で勝手に育つて、ある朝ふいに「行け」と命令することがある。幹夫は、その命令に逆らふほどの気力もなく、顔を洗ひ、髪を整へ、財布だけは確かめて家を出た。


 まだ日が高くない時間の静岡駅は、夜の名残をうすく引きずりながら、朝の顔へ着替へる途中である。

 改札の「ピッ」がまじめに鳴り、人の足音がやけに乾いて聞こえる。幹夫はその乾いた音の中に混ざり、用宗へ向ふ電車に乗つた。窓の外へ流れて行く町の屋根は、夜の間に余計な言ひ訳を少し落として、思つたよりあつさりしてゐる。


 用宗に着くと、空気がすぐ違ふ。

 潮がある。鉄がある。網と縄の匂ひがある。

 匂ひが多いところでは、人間の言ひ訳が息をしにくい。言ひ訳が息をしにくいのは、幹夫にとつて救ひであつた。言ひ訳が黙ると、身体が先に動ける。


 港へ向つて歩くと、朝市はもう始まつてゐた。

 大きな祭りほど派手ではない。提灯も少ない。けれど、声がある。声があるだけで、場は十分に祝祭になる。

 「おはよう」

 「こつち見て」

 「今日のはいいよ」

 さういふ短い言葉が、潮風に乗つて飛び交ひ、飛び交ふうちに、まるで港の上に見えない屋根を作る。幹夫は、その屋根の下へ、少し遅れて入つて行つた。


 並ぶものは、魚だけではない。

 野菜があり、漬物があり、パンのやうなものもあり、湯気の立つ汁もある。生活がそのまま並んでゐる。生活が並ぶと、人の顔が柔らかくなる。スーパーの棚には、生活は並んでゐても顔が並ばない。顔があるところが朝市の強さである。


 幹夫は、まず自分の立ち姿を直さうとした。

 「何でもない顔」を作る癖がある。何でもない顔を作るのは、何でもないふりをして傷つかないためである。

 けれど朝市の中では、その何でもない顔が、少しだけ野暮に見えた。野暮に見えたからといつて、すぐ粋な顔が出来るわけではないが、野暮だと気づけるだけでも、今日は上等だ。


 人の波の端を歩いてゐると、白い布ののれんの下で、湯気が一つ、いかにも元気に立つてゐるのが見えた。

 塩むすびの屋台である。

 大きな鍋から飯が見え、手のひらで握られた白い丸が、竹の籠にきちんと並ぶ。海苔は巻いてない。梅も見えない。塩だけで勝負してゐる顔である。塩だけのものは、嘘をつかない。


「塩むすび、握りたてだよー。港の塩、いい塩だよー」


 声をかけてゐるのは、年配の女であつた。

 顔は日焼けしてゐるが、目の奥がよく笑ふ。手の動きが速いのに、せかせかしてゐない。急いでゐるのに、急いでゐるふりをしない。――ああいふ手つきが「粋」といふものかもしれぬ、と幹夫は思つた。


 幹夫は屋台の前で立ち止まつた。

 立ち止まつた瞬間、いつもの癖が喉まで出かけた。買ふか買はぬかを頭で決めようとする癖である。だが、塩むすびを前にして、買ふか買はぬかなどと考へるのは、ひどく面倒で、ひどくみみつちい。

 ――難しくすると冷める。

 どこかで聞いた言葉が、湯気の中から顔を出した。


 それで幹夫は、先に言つた。


「おはようございます」


 自分の口から出た「おはよう」が、思つたより明るく響いたので、幹夫は一瞬びつくりした。

 朝の言葉は、夜の言葉より軽い。軽いから、転がる。


 女は、手を止めずに笑つた。


「おはよう。いいねえ、先に言つてくれると、こつちも手が軽くなる」


 手が軽くなる――。

 幹夫はその言ひ方が好きだと思つた。朝市は、説教の代りに手の話をする。手の話は、胸へ入りやすい。


「ひとつ、ください」


「はいよ。熱はないけど、心があったかいよ」


 女は冗談めかして言ひ、紙に包んだ塩むすびを渡した。

 包みの上から、ほんのり温かい。温かさがあると、食べる前から勝ちである。


 幹夫が小銭を探してゐると、女がちらりと見て言つた。


「細かいの、なけりゃ後でいいよ。朝市は逃げない。――逃げるのはこつちの気分だけ」


 また、そんなことを言ふ。

 この町の人は、さらりと人の胸の内を言ひ当てて、しかも威張らない。威張らないのがありがたい。威張られると、幹夫はすぐ逃げたくなる。逃げたくならない程度の正しさが、ここにはある。


「いえ……あります」


 幹夫は、どうにか十円玉と五十円玉を探し出して渡した。

 十円玉が手の中で、かちりと鳴つた。大道芸の帽子の音が思ひ出され、幹夫は口元だけで笑つた。

 女はお釣りを返しながら言つた。


「はい、ありがと。兄さん、今日はいい顔してるよ。塩むすびが似合ふ顔」


 塩むすびが似合ふ顔。

 それは誉め言葉としては地味だが、地味な誉め言葉ほど長持ちする。幹夫は「立派だ」より「似合ふ」の方が好きだつた。


 幹夫は港の端の堤防へ行き、ベンチに腰を下ろした。

 海は青いといふより、朝の光で白く、遠くの船が黒い点になつてゐる。カモメが勝手に鳴く。勝手に鳴くものが多い場所は、人間の言ひ訳が居づらい。


 紙を開くと、塩むすびは小ぶりで、ふつくらしてゐた。

 塩がきれいに光つてゐる。幹夫はひと口かじつた。

 米の甘さが先に来て、塩があとから追ひかける。追ひかけて来る塩は強すぎない。強すぎない塩は、生活に似てゐる。生活も強すぎると続かない。


 そのとき、隣のベンチに、若い男が腰を下ろした。

 法被でも作業着でもない。けれど手が少し荒れてゐて、港の匂ひを持つてゐる。男は紙袋を覗いて、困つたやうに笑つた。


「……やべえ。朝飯、買ふの忘れた」


 独り言のやうに言つたが、声はわざと小さくない。誰かに聞こえた方が、助かると知つてゐる声である。

 幹夫は、ここで見て見ぬふりをする癖を発動させかけた。見て見ぬふりをすれば、自分は傷つかない。だが、見て見ぬふりをする自分が、あとで必ず胸の中でうるさくなるのを、幹夫はもう知つてゐた。


 幹夫は、塩むすびをもう一度見た。

 ひとつしかない。

 ひとつしかないと、人はすぐ「自分の分だ」と固くなる。固くなると、心も固くなる。

 しかし朝市の湯気は、今朝の幹夫を少しだけ柔らかくしてゐた。


「……半分、いります?」


 幹夫が言ふと、若い男は、ぱつと顔を上げた。

 そして、すぐ首を振つた。


「いや、さすがに貰うのは悪い」


 貰ふのは悪い。

 幹夫は、その言葉がわかる。貰ふのが悪いと言ふのは、善人の顔をした照れである。照れは、人間の粋の入口でもある。


「じゃあ……交換ならどうです」


 幹夫は、思はず言つてしまつた。

 言つてから、交換などと気の利いたことを言つた自分が可笑しくて、少し赤くなつた。


「交換?」


 男が眉を上げる。


「僕、塩むすび半分出します。……そっちは、何かあります?」


 男は紙袋をぱちぱち叩いて、中身を探した。

 出て来たのは、小さなパックである。白いものが詰まつてゐる。


「しらす。……朝、貰つた。これなら半分、出せる」


 しらす。港の朝の白い光みたいな食べ物だ。

 幹夫は笑つてしまつた。


「じゃあ、それで」


 幹夫は塩むすびを手で割つた。

 手で割ると、米がほどける。ほどけるのが気持いい。

 男はしらすを半分に分け、箸も何もないので、パックの蓋を折り返して、器のやうにして差し出した。


「……こういうの、いいっすね」


 男が言つた。


「貰うと、なんか借りが出来る感じするけど、交換だと気が楽」


 気が楽。

 幹夫は、その一言に救はれた。

 幹夫は、好意を受け取るのが苦手だ。受け取ると、返さねばならぬ気がして、その返し方がわからず、結局逃げる。だが交換なら、最初から「行つて来い」になつてゐる。行つて来いになつてゐると、逃げ道の言ひ訳が必要ない。


「僕も、貰うの苦手で」


 幹夫が言ふと、男は笑つた。


「分かる。……でも朝市の人って、貰わせ方が上手いっすよね。『後でいいよ』とか言って」


「言ひますね」


「言われると、後でちゃんと返したくなる。あれ、うまい」


 うまい。

 幹夫は、女の「朝市は逃げない」を思ひ出した。逃げるのは気分。ならば、気分が逃げないうちに、返すのがよい。返す――と言つても、大げさな返済ではない。挨拶でいい。顔でいい。次に来るでいい。


 幹夫は、しらすを塩むすびにのせて食べた。

 米の甘さの上に、しらすの塩気が重なる。塩が二つ重なるのに、強くない。海の塩と人の塩は、案外仲良く出来るらしい。

 男も塩むすびを頬張り、「うま」と小さく言つた。小さく言つた「うま」は、嘘がない。


「兄さん、どっちから来た?」


「静岡の方から。……朝、弱いんですけど」


「それでここ来るの、偉いっすね」


 偉い、と言はれると幹夫は照れる。照れるが、今朝はその照れをすぐ打ち消さなかつた。照れが残ると、少しだけ自分が明るくなる。


「偉くないです。……匂ひに引つ張られただけ」


「匂ひで動けるの、だいじっすよ。頭で動くと疲れる」


 男はさらりと言つた。

 港の若い者は、案外、人生の要点を短く言ふ。短く言はれると、こちらの言ひ訳が挟まる隙がない。隙がないと、胸へすとんと落ちる。


 二人は、それ以上深い話をしなかつた。

 深い話をしないのに、空気は悪くない。

 むしろ、深い話をしないことで、朝のままの軽さが保たれる。朝は、軽い方がいい。重い朝は一日をひきずる。


 食べ終へて、男が立ち上がつた。


「じゃ、俺、戻るっす。……交換、ありがと」


「こちらこそ」


 男は手を上げて歩いて行つた。

 背中が、港の風にうまく乗つてゐる背中だつた。背中が軽いと、こちらの背中まで軽くなる。


 幹夫は、しばらく海を見た。

 朝市のざわめきが、遠くでまだ鳴つてゐる。太鼓ほど大きくないが、生活の太鼓である。生活の太鼓は、毎日鳴る。毎日鳴る音を、たまには味方につけていいのだらう。


 幹夫は立ち上がり、さつきの塩むすびの屋台へ戻つた。

 女は相変らず手を動かしてゐる。幹夫が近づくと、女はすぐ気づいて笑つた。


「お、兄さん。戻つて来たね」


「さつき、塩むすび……半分、交換に使ひました」


 幹夫は、自分でも可笑しい報告をした。

 女は目を丸くして、それから声を立てて笑つた。


「いいねえ! 塩むすびはね、腹だけぢやなくて、縁も満たすんだよ」


 縁。

 幹夫は、その言葉を重たく感じなかつた。女の口から出る縁は、湯気みたいに軽い縁だ。


「……もう一つ、買つて帰ります」


「はいよ。今度は梅、入れとく? 朝の酸つぱさは、元気になるよ」


「じゃあ……梅で」


 女は、塩むすびの真中に梅をちよこんと入れ、包んで渡した。

 幹夫が金を出すと、女はお釣りと一緒に、小さな袋をそつと添へた。


「これ、海苔。おまけ。交換のしるし」


 交換のしるし。

 幹夫は、胸の奥がふいに温かくなるのを感じた。

 おまけを受け取るのが怖い男が、今朝は怖くない。怖くないのは、交換の形を知つたからだ。受け取つたら返せばいい。返すのは金ぢやなくて、挨拶でもいい。次に来るでもいい。


「……ありがとうございます。おはようございます、また」


 幹夫が言ふと、女は手を振つた。


「またね。兄さん、朝が似合ふ顔になつたよ」


 朝が似合ふ顔。

 その言葉は、立派な励ましよりずつと効いた。

 幹夫は、朝が似合ふ人間にならうとは思はない。けれど、朝が似合ふ瞬間があつてもいい。瞬間があれば、明日も半歩ぐらゐ出られる。


 帰りの電車で、幹夫は紙包みを膝に置き、窓の外の海の名残を見た。

 スマホを取り出して、短く打つ。


 ――「用宗の朝市で塩むすび半分と、しらす半分を交換した。朝がちょつと勝ち。」


 送信してしまふと、胸の内の石が、ひとつ丸くなつた気がした。

 丸い石なら、持ち歩ける。持ち歩ければ、歩ける。


 幹夫青年は、用宗の朝市で塩むすびを食べたのではない。

 塩むすびの半分を交換して、ほんの少し、人の朝と自分の朝を混ぜた。

 その混ざり方が、思つたより明るかつたのである。

 
 
 

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