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用宗の潮のオルゴール

 幹夫青年は、夕ぐれの静岡の町を、南へ南へと歩いてゐました。

 呉服町のガラスは白く光り、青葉通りの街灯が「ぱちり」と点き、電車のレールが遠くで「きいん」と鳴るのに、幹夫の胸の底だけは、いつもの湿つた石を抱へたまま、うまく明るくならないのでした。

 ――ぼくのさびしさは、いつも余計に響いてゐる。

 ――まるで、調律(ちやうりつ)の狂つた弦みたいに。

 そのとき、ふと風の匂ひが変はりました。

 町の匂ひの奥に、塩の針みたいな匂ひがすうつと刺さつて、つづいて魚のうろこの匂ひが、ほの暗い銀いろの布みたいに胸へ降りて来たのです。

 幹夫青年は、気がつくと用宗(もちむね)の方へ向かふ電車に乗つてゐました。

 車窓の外で家々の灯が遠のき、港の方の空が黒くひらけて、駿河湾がまるで大きな鉄の板のやうに沈んでゐます。

 波の音はまだ聞こえないのに、胸の底の石が、波の拍子を先に知つてゐるみたいに、こつこつと位置を変へました。

 用宗の小さな駅で降りると、空はもう半分夜で、空気は冷たく、しかし湿りを含んでゐました。

 漁具置場のロープが「ぎし」と鳴り、遠くで犬が「わん」と一度だけ吠えました。

 幹夫青年は防波堤の方へ歩き、やがて砂浜へ出ました。

 砂は黒く、波は低く、

 しゅ、しゅ、

 しゅ、しゅ、

 と、海が小さな息をついてゐました。

 その息のあひだに、幹夫青年は、ほんのかすかな音を聞きました。

 ちりん……

 ちりん……

 それは風鈴の音でもありません。

 自転車の鈴でもありません。

 もつと柔らかく、もつと冷たく、しかし確かに「決まつた音程」を持つてゐる音でした。

 幹夫青年は耳を澄ませて、波打ち際をそろそろ歩きました。

 すると、砂の上に小さな貝殻がたくさん溜まつてゐるところがあり、その貝殻の山の中から、

 ちりん……

 ちりん……

 と、音が生まれてゐるのが分りました。

 幹夫青年は、貝殻を一つ拾ひ上げました。

 巻貝で、口の縁がすこし欠け、表面に薄い藻がついてゐます。

 幹夫青年は、昔からの癖で、その貝殻を耳に当てました。

 すると――

 ちり、ちり、ちり……

 ころろ……

 りん……

 貝殻の中で、まるで小さなオルゴールが回つてゐるやうに、澄んだ音が鳴つたのです。

 しかもその音は、ただ鳴るのではありませんでした。波が寄せると少し低く、波が引くと少し高く、まるで海の呼吸に合わせて調律されてゐるのです。

 幹夫青年は思はず立ち尽くしました。

 ――貝殻の中に、オルゴールがある。

 ――いや、海そのものが、オルゴールなのかもしれない。

 そのとき、足もとの波打ち際で、小さな泡が一つ、

 ぷつ

 と割れました。

 割れた泡の跡に、透明なものがすうつと浮き上がつて、砂の上に乗りました。

 それは、小さなヤドカリでした。

 背中に、豆粒ほどの巻貝をしよつてゐます。

 ヤドカリは、貝殻の口から細い触角を出し、幹夫青年の方を見上げて、たいへん静かな声で言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――耳、よくきく。

 ――さびしさ、音程(おんてい)ずれてゐる。

 幹夫青年は、びつくりして自分の胸を押さへました。

 胸の底の石が、たしかに「ぐう」と鳴つたやうに感じたからです。

 「……きみ、しゃべるのかい」

 ヤドカリは、すこしだけ触角を振つて言ひました。

 ――しゃべる、のではない。

 ――潮(しほ)が、しゃべる。

 ――貝が、しゃべる。

 ――ミキオ青年の耳が、訳(やく)する。

 ヤドカリは、幹夫青年の手の中の貝殻を指さしました。

 ――それ、潮のオルゴール歯(ば)。

 ――歯が欠けると、音、濁る。

 ――音が濁ると、さびしさ、余計に濁る。

 幹夫青年は貝殻の欠けた縁を見ました。

 欠けた縁は小さいのに、そこがあるかないかで、音はまるで変はるのだらう、と、なぜだかはつきり思へました。

 ヤドカリは、波の寄せる瞬間を見計らつて、

 ――ついて来い。

 と言つて、ぷつ、ぷつ、と泡の間を進みました。

 幹夫青年も、靴をぬいで、そつと波打ち際へ足を入れました。

 水は冷たいのに、その冷たさが、どこか正確で、正確さが少しだけ心を落ち着かせました。

 波が引くと、砂の上に小さな潮だまりがいくつも現れます。

 潮だまりは黒い鏡みたいで、その鏡の底に、貝殻と小石と海藻が「しん」と沈んでゐます。

 ヤドカリは、その中でもいちばん大きい潮だまりの縁で止まりました。

 潮だまりの底には、貝殻がずらりと並んでゐました。

 巻貝、二枚貝、さざ波に磨かれた破片。

 しかもそれらはでたらめに散つてゐるのではなく、まるで櫛(くし)の歯のやうに、等間隔に並んでゐるのです。

 ヤドカリが言ひました。

 ――ココ、潮のオルゴール工房(こうばう)。

 ――海は、回転筒(かいてんとう)。

 ――小石は、突起(とつき)。

 ――貝殻は、櫛の歯。

 ――波は、ゼンマイ。

 幹夫青年は、工房の全体を見ました。

 波が寄せると、潮だまりの水位が上がり、小石が「ころ」と動きます。

 波が引くと、砂が「さらり」と沈み、貝殻の縁に水がすうつと流れます。

 そのたび、貝殻たちは、

 ちりん……

 ちりりん……

 ころろ……

 と、ほんの小さな音で鳴り合つて、たしかに短い旋律を作つてゐるのでした。

 幹夫青年は、思はず口に出しました。

 「……オルゴールだ。ほんとうに」

 ヤドカリはうなづきました。

 ――だが、いま、狂ひ(くるひ)あり。

 ――狂ひは、海のせゐではない。

 ――狂ひは、人の糸。

 ヤドカリが触角で指さすと、潮だまりの片隅で、透明な糸が貝殻の並びに絡まつてゐました。

 釣り糸か、ナイロンの切れ端です。

 糸は見えにくいのに、光を受けると「きらり」と冷たく光り、貝殻の歯を、少しだけ曲げてしまつてゐました。

 そのせゐで、音が一つ、濁つてゐるのです。

 濁りは小さいのに、濁りのある曲は、胸の底までひびきます。

 ヤドカリが言ひました。

 ――ミキオ青年。

 ――宿題。

 ――糸、ほどけ。

 ――ほどいて、音を戻せ。

 ――音が戻ると、さびしさ、正しい速度になる。

 幹夫青年は膝をつきました。

 潮だまりの水は冷たく、指先がすぐ痺(しび)れて来ます。

 糸は貝殻の間に食ひ込み、砂と塩でぬるぬるして、なかなかほどけません。

 幹夫青年の胸の底の石が、また重くなりました。

 「やめろ」といふ声が、胸の奥でこつこつ鳴りはじめました。

 けれども幹夫青年は、その声を押し込めませんでした。

 押し込めると、声は石になります。石は沈みます。沈むと、音が聞こえなくなるのです。

 幹夫青年は、ただ胸の中でちいさく言ひました。

 ――いま、ほどく。

 ――それだけ。

 指先で糸をつまみ、ゆつくり引くと、糸がすこしだけ動きました。

 貝殻が「こつ」と鳴り、小石が「ころり」と転がりました。

 波が寄せて来て、潮だまりの水がふうつと持ち上がり、糸の結び目を、ほんのすこし緩めました。

 幹夫青年は、その瞬間の助けを逃さず、指で糸をほどきました。

 するり。

 糸が外れたとたん、貝殻の並びが、ふつと元の位置へ戻りました。

 戻つた瞬間、潮だまり全体が、

 ちりん……

 ちりりり……ん

 と、ひと息に澄んだ音を鳴らしました。

 濁りが消えて、旋律がひとつに揃つたのです。

 幹夫青年の胸の底の石も、その音に触れて、ふいに「ころり」と向きを変へました。

 重さが消えたのではありません。

 重さが、曲の中の低音になつたやうに思へたのです。

 低音は重い。けれども低音があるから、曲は曲になります。

 ヤドカリは、潮だまりの縁に立ち、誇らしげに言ひました。

 ――ヨシ。

 ――潮のオルゴール、正常。

 ――ミキオ青年のさびしさ、ピッチ、戻る。

 「……さびしさが、ピッチ……?」

 幹夫青年が言ふと、ヤドカリはすこしだけ触角を振りました。

 ――さびしさは、音。

 ――音は、周波数(しうはすう)。

 ――波は、およそ七秒(びょう)で一拍。

 ――胸は、一分七十拍(ぱく)前後。

 ――合はせ方、ある。

 ――合はせると、さびしさは刺さらない。

 ――刺さらずに、光る。

 幹夫青年は、潮だまりのそばに座り、貝殻を耳に当てました。

 オルゴールの音は、さつきよりも少し深く、少しやさしく鳴りました。

 波が寄せると、ぶうん……

 波が引くと、ちりん……

 音は、海の呼吸に正直でした。

 幹夫青年は、その呼吸に合わせて、自分も息をしてみました。

 波が寄せる。

 息を吐く。

 しゅう……。

 波が引く。

 息を吸ふ。

 すう……。

 すると胸の中の石が、さつきまでのやうに「ぐう」と暴れず、

 ただ、低いところで、静かに鳴つてゐるやうに感じられました。

 ――さびしさは、なくすものではない。

 ――さびしさは、調律するものなのだ。

 幹夫青年は、そのことを、頭で理解したのではありませんでした。

 貝殻の中のちりん、といふ音が、胸の骨へ直接触れて、さう言つたのです。

 やがて波が大きく寄せて来て、潮だまりの工房は、ふわりと海の水に覆はれました。

 貝殻の櫛の歯は見えなくなり、音も水の底へ沈みました。

 けれども沈んだ音は消えません。海は水の底で、まだオルゴールを回してゐるのです。

 ヤドカリは、最後に一度だけ幹夫青年を見上げました。

 ――ミキオ青年。

 ――貝を一つ、持て。

 ――迷つたら、耳へ。

 ――遠い宇宙(うちう)を探す前に、近い潮を聞け。

 ――近い潮が揃ふと、手が揃ふ。

 ――手が揃ふと、また誰かの糸がほどける。

 幹夫青年は、さつきの貝殻をそつとポケットに入れました。

 貝殻は軽いのに、胸の底の石は、すこしだけ「役に立つ重さ」になつたやうに思へました。

 重さは残る。けれども重さは、曲の一部になれる。

 幹夫青年は靴を履き、用宗の暗い砂浜を戻りはじめました。

 うしろで波が、

 しゅ、しゅ、

 しゅ、しゅ、

 と息をつきました。

 その息の中に、たしかに、

 ちりん……

 と、小さなオルゴールの余韻が混じつてゐました。

 幹夫青年は小さく言ひました。

 「……あしたも、近いところの音を、ひとつ整へてみよう」

 風が「すう」と通り、

 駿河湾の黒い板が、遠くで「ゆらり」と光を返しました。

 それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。

 潮のオルゴールは、遠くの銀河より近くで、いまも静かに回つてゐるのです。

 
 
 

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