用宗の潮のオルゴール
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月22日
- 読了時間: 8分

幹夫青年は、夕ぐれの静岡の町を、南へ南へと歩いてゐました。
呉服町のガラスは白く光り、青葉通りの街灯が「ぱちり」と点き、電車のレールが遠くで「きいん」と鳴るのに、幹夫の胸の底だけは、いつもの湿つた石を抱へたまま、うまく明るくならないのでした。
――ぼくのさびしさは、いつも余計に響いてゐる。
――まるで、調律(ちやうりつ)の狂つた弦みたいに。
そのとき、ふと風の匂ひが変はりました。
町の匂ひの奥に、塩の針みたいな匂ひがすうつと刺さつて、つづいて魚のうろこの匂ひが、ほの暗い銀いろの布みたいに胸へ降りて来たのです。
幹夫青年は、気がつくと用宗(もちむね)の方へ向かふ電車に乗つてゐました。
車窓の外で家々の灯が遠のき、港の方の空が黒くひらけて、駿河湾がまるで大きな鉄の板のやうに沈んでゐます。
波の音はまだ聞こえないのに、胸の底の石が、波の拍子を先に知つてゐるみたいに、こつこつと位置を変へました。
用宗の小さな駅で降りると、空はもう半分夜で、空気は冷たく、しかし湿りを含んでゐました。
漁具置場のロープが「ぎし」と鳴り、遠くで犬が「わん」と一度だけ吠えました。
幹夫青年は防波堤の方へ歩き、やがて砂浜へ出ました。
砂は黒く、波は低く、
しゅ、しゅ、
しゅ、しゅ、
と、海が小さな息をついてゐました。
その息のあひだに、幹夫青年は、ほんのかすかな音を聞きました。
ちりん……
ちりん……
それは風鈴の音でもありません。
自転車の鈴でもありません。
もつと柔らかく、もつと冷たく、しかし確かに「決まつた音程」を持つてゐる音でした。
幹夫青年は耳を澄ませて、波打ち際をそろそろ歩きました。
すると、砂の上に小さな貝殻がたくさん溜まつてゐるところがあり、その貝殻の山の中から、
ちりん……
ちりん……
と、音が生まれてゐるのが分りました。
幹夫青年は、貝殻を一つ拾ひ上げました。
巻貝で、口の縁がすこし欠け、表面に薄い藻がついてゐます。
幹夫青年は、昔からの癖で、その貝殻を耳に当てました。
すると――
ちり、ちり、ちり……
ころろ……
りん……
貝殻の中で、まるで小さなオルゴールが回つてゐるやうに、澄んだ音が鳴つたのです。
しかもその音は、ただ鳴るのではありませんでした。波が寄せると少し低く、波が引くと少し高く、まるで海の呼吸に合わせて調律されてゐるのです。
幹夫青年は思はず立ち尽くしました。
――貝殻の中に、オルゴールがある。
――いや、海そのものが、オルゴールなのかもしれない。
そのとき、足もとの波打ち際で、小さな泡が一つ、
ぷつ
と割れました。
割れた泡の跡に、透明なものがすうつと浮き上がつて、砂の上に乗りました。
それは、小さなヤドカリでした。
背中に、豆粒ほどの巻貝をしよつてゐます。
ヤドカリは、貝殻の口から細い触角を出し、幹夫青年の方を見上げて、たいへん静かな声で言ひました。
――ミキオ青年。
――耳、よくきく。
――さびしさ、音程(おんてい)ずれてゐる。
幹夫青年は、びつくりして自分の胸を押さへました。
胸の底の石が、たしかに「ぐう」と鳴つたやうに感じたからです。
「……きみ、しゃべるのかい」
ヤドカリは、すこしだけ触角を振つて言ひました。
――しゃべる、のではない。
――潮(しほ)が、しゃべる。
――貝が、しゃべる。
――ミキオ青年の耳が、訳(やく)する。
ヤドカリは、幹夫青年の手の中の貝殻を指さしました。
――それ、潮のオルゴール歯(ば)。
――歯が欠けると、音、濁る。
――音が濁ると、さびしさ、余計に濁る。
幹夫青年は貝殻の欠けた縁を見ました。
欠けた縁は小さいのに、そこがあるかないかで、音はまるで変はるのだらう、と、なぜだかはつきり思へました。
ヤドカリは、波の寄せる瞬間を見計らつて、
――ついて来い。
と言つて、ぷつ、ぷつ、と泡の間を進みました。
幹夫青年も、靴をぬいで、そつと波打ち際へ足を入れました。
水は冷たいのに、その冷たさが、どこか正確で、正確さが少しだけ心を落ち着かせました。
波が引くと、砂の上に小さな潮だまりがいくつも現れます。
潮だまりは黒い鏡みたいで、その鏡の底に、貝殻と小石と海藻が「しん」と沈んでゐます。
ヤドカリは、その中でもいちばん大きい潮だまりの縁で止まりました。
潮だまりの底には、貝殻がずらりと並んでゐました。
巻貝、二枚貝、さざ波に磨かれた破片。
しかもそれらはでたらめに散つてゐるのではなく、まるで櫛(くし)の歯のやうに、等間隔に並んでゐるのです。
ヤドカリが言ひました。
――ココ、潮のオルゴール工房(こうばう)。
――海は、回転筒(かいてんとう)。
――小石は、突起(とつき)。
――貝殻は、櫛の歯。
――波は、ゼンマイ。
幹夫青年は、工房の全体を見ました。
波が寄せると、潮だまりの水位が上がり、小石が「ころ」と動きます。
波が引くと、砂が「さらり」と沈み、貝殻の縁に水がすうつと流れます。
そのたび、貝殻たちは、
ちりん……
ちりりん……
ころろ……
と、ほんの小さな音で鳴り合つて、たしかに短い旋律を作つてゐるのでした。
幹夫青年は、思はず口に出しました。
「……オルゴールだ。ほんとうに」
ヤドカリはうなづきました。
――だが、いま、狂ひ(くるひ)あり。
――狂ひは、海のせゐではない。
――狂ひは、人の糸。
ヤドカリが触角で指さすと、潮だまりの片隅で、透明な糸が貝殻の並びに絡まつてゐました。
釣り糸か、ナイロンの切れ端です。
糸は見えにくいのに、光を受けると「きらり」と冷たく光り、貝殻の歯を、少しだけ曲げてしまつてゐました。
そのせゐで、音が一つ、濁つてゐるのです。
濁りは小さいのに、濁りのある曲は、胸の底までひびきます。
ヤドカリが言ひました。
――ミキオ青年。
――宿題。
――糸、ほどけ。
――ほどいて、音を戻せ。
――音が戻ると、さびしさ、正しい速度になる。
幹夫青年は膝をつきました。
潮だまりの水は冷たく、指先がすぐ痺(しび)れて来ます。
糸は貝殻の間に食ひ込み、砂と塩でぬるぬるして、なかなかほどけません。
幹夫青年の胸の底の石が、また重くなりました。
「やめろ」といふ声が、胸の奥でこつこつ鳴りはじめました。
けれども幹夫青年は、その声を押し込めませんでした。
押し込めると、声は石になります。石は沈みます。沈むと、音が聞こえなくなるのです。
幹夫青年は、ただ胸の中でちいさく言ひました。
――いま、ほどく。
――それだけ。
指先で糸をつまみ、ゆつくり引くと、糸がすこしだけ動きました。
貝殻が「こつ」と鳴り、小石が「ころり」と転がりました。
波が寄せて来て、潮だまりの水がふうつと持ち上がり、糸の結び目を、ほんのすこし緩めました。
幹夫青年は、その瞬間の助けを逃さず、指で糸をほどきました。
するり。
糸が外れたとたん、貝殻の並びが、ふつと元の位置へ戻りました。
戻つた瞬間、潮だまり全体が、
ちりん……
ちりりり……ん
と、ひと息に澄んだ音を鳴らしました。
濁りが消えて、旋律がひとつに揃つたのです。
幹夫青年の胸の底の石も、その音に触れて、ふいに「ころり」と向きを変へました。
重さが消えたのではありません。
重さが、曲の中の低音になつたやうに思へたのです。
低音は重い。けれども低音があるから、曲は曲になります。
ヤドカリは、潮だまりの縁に立ち、誇らしげに言ひました。
――ヨシ。
――潮のオルゴール、正常。
――ミキオ青年のさびしさ、ピッチ、戻る。
「……さびしさが、ピッチ……?」
幹夫青年が言ふと、ヤドカリはすこしだけ触角を振りました。
――さびしさは、音。
――音は、周波数(しうはすう)。
――波は、およそ七秒(びょう)で一拍。
――胸は、一分七十拍(ぱく)前後。
――合はせ方、ある。
――合はせると、さびしさは刺さらない。
――刺さらずに、光る。
幹夫青年は、潮だまりのそばに座り、貝殻を耳に当てました。
オルゴールの音は、さつきよりも少し深く、少しやさしく鳴りました。
波が寄せると、ぶうん……
波が引くと、ちりん……
音は、海の呼吸に正直でした。
幹夫青年は、その呼吸に合わせて、自分も息をしてみました。
波が寄せる。
息を吐く。
しゅう……。
波が引く。
息を吸ふ。
すう……。
すると胸の中の石が、さつきまでのやうに「ぐう」と暴れず、
ただ、低いところで、静かに鳴つてゐるやうに感じられました。
――さびしさは、なくすものではない。
――さびしさは、調律するものなのだ。
幹夫青年は、そのことを、頭で理解したのではありませんでした。
貝殻の中のちりん、といふ音が、胸の骨へ直接触れて、さう言つたのです。
やがて波が大きく寄せて来て、潮だまりの工房は、ふわりと海の水に覆はれました。
貝殻の櫛の歯は見えなくなり、音も水の底へ沈みました。
けれども沈んだ音は消えません。海は水の底で、まだオルゴールを回してゐるのです。
ヤドカリは、最後に一度だけ幹夫青年を見上げました。
――ミキオ青年。
――貝を一つ、持て。
――迷つたら、耳へ。
――遠い宇宙(うちう)を探す前に、近い潮を聞け。
――近い潮が揃ふと、手が揃ふ。
――手が揃ふと、また誰かの糸がほどける。
幹夫青年は、さつきの貝殻をそつとポケットに入れました。
貝殻は軽いのに、胸の底の石は、すこしだけ「役に立つ重さ」になつたやうに思へました。
重さは残る。けれども重さは、曲の一部になれる。
幹夫青年は靴を履き、用宗の暗い砂浜を戻りはじめました。
うしろで波が、
しゅ、しゅ、
しゅ、しゅ、
と息をつきました。
その息の中に、たしかに、
ちりん……
と、小さなオルゴールの余韻が混じつてゐました。
幹夫青年は小さく言ひました。
「……あしたも、近いところの音を、ひとつ整へてみよう」
風が「すう」と通り、
駿河湾の黒い板が、遠くで「ゆらり」と光を返しました。
それが返事でも、ただの物理でも、どちらでもよいのでした。
潮のオルゴールは、遠くの銀河より近くで、いまも静かに回つてゐるのです。




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