用水の水晶ラジオ(御門台版)(舞台:静岡市清水区 御門台)
- 山崎行政書士事務所
- 2025年12月26日
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幹夫青年は、御門台の夜の住宅のあひだを、ゆっくり歩いてゐました。 空気は冬の硝子みたいに澄んで、息を吐くと白い息がふうっと出て、街灯の白い光の中でいちど膨らみ、それから闇の方へほどけて消えました。
消えるのに、あたたかい。 幹夫は、また思ひました。
(ことばも、白い息みたいならいい。 出て、消えて、でも少しあたたかい。)
けれど幹夫の胸の中のことばは、息みたいに軽くありません。 冷えた小石みたいに角ばって、胸の奥でごろごろしてゐます。
――「遅い。」 ――「いまさら。」 ――「でも言はないと、もっと遅い。」
そんな見えない裁判官が、胸の中でこつこつ机を叩いてゐました。 机の上には、送られないままの短い文が、切符みたいに何枚も並んでゐるのです。
そのとき、道の脇から、さらさら、といふ音が来ました。 御門台の、家の裏や坂のふもとを縫ふやうに走る、細い用水です。 昼はただの水の道なのに、夜になると、音だけがはっきりして、まるで水が自分の仕事を誇ってゐるやうに聞こえます。
幹夫は、音の方へ寄って行きました。 用水は、石の縁に沿ってまっすぐで、冷たく、しかし不思議にあたたかい顔をしてゐました。 水は冷たいのに、音はあたたかい。 あたたかい音は、人の胸の机の音を、すこしだけ遠くへ押しやります。
街灯の光が、水面へ細い帯になって落ちました。 その帯は、水の揺れでちぎれて、銀の切れはしになり、つぎつぎ流れて行きます。 ちぎれた光は、まるで小さな銀河の粉――いや、銀河の砂みたいでした。
幹夫は、用水の縁にしゃがんで、耳を近づけました。 さらさら、の中に、時々、ぴん、と高い音が混ざってゐます。 ぴん。 ぴん。 石がぶつかった音なのかもしれません。 けれど幹夫には、それが「合図」のやうに聞こえました。 まるで、見えない波が、用水の中で受信されてゐるみたいに。
(……水晶ラジオだ。)
幹夫は、理科室の棚を思ひ出しました。 電池がなくても、空気の中の波を拾って鳴る装置。 鉱石(方鉛鉱)と、猫のひげみたいな細い針と、長い線(アンテナ)で出来た、あの不思議なもの。
御門台の夜には、アンテナがちゃんとありました。 頭の上を走る電線です。 電線は黒い線で、星の下へまっすぐ引かれてゐます。 地面(アース)もあります。用水が、地面の奥へ冷たい道をつくって、ずっとつながってゐる。 そして――検波(けんぱ)の鉱石の代りに、用水の底の白い石が、ほんの少し透けて光ってゐました。
幹夫は、その白い石を一つ拾ひました。 冷たくて、角が丸くて、掌の中でちいさく光を返す石。 幹夫はそれを、勝手に「水晶」と呼びました。 ほんたうに水晶かどうかは分かりません。けれど、呼び方しだいで世界はすこしだけやさしくなります。
幹夫は、その石を用水の縁にそっと置きました。 それから、耳をまた近づけました。 さらさらの音が、すこしだけ変はったやうに聞こえます。 変はる、といふのは、大きくなるのではありません。 さらさらの底に、もっと細い「ふるへ」が混ざるのです。
ふるへは、ことばの形をしてゐません。 けれど、ことばの手前の形――息の手前の形をしてゐます。 幹夫は、そのふるへを、胸の中で勝手に訳しました。
――こちら、御門台用水局。 ――夜間通信、受信よし。 ――報告。胸のことば、凍結中。 ――対策。短くして放流せよ。
幹夫は、思はず笑ひさうになりました。 用水が「放流せよ」と言ふのは可笑しいのに、可笑しいのに、胸の奥が少し楽になるのです。 裁判官は、こういふふるへの議事録が取れないので、机を叩くのをやめてしまふことがあります。
そのとき、遠くで、静鉄の音が短く来ました。 ツン。 御門台の夜の、あの一点の合図。 その一音が、電線の上を走って、用水のさらさらに落ちたやうに思へました。 波が合ふ。 合ふと、音は一瞬だけ「意味」に近づきます。
幹夫は、ふうっと息を吐きました。 白い息が用水の上へ落ち、街灯の光を受けて薄い雲になり、すぐに流れの方へ引かれて消えました。 消えるのに、あたたかい。 あたたかいのに、残らない。 残らないから、重くならない。
(ひとことは、残らない火花でいい。) (残らないのに、確かにあたたかい火花。)
そのとき、用水の向う側の道で、足音がしました。 こつ、こつ。 見ると、犬を連れた人がゆっくり歩いてゐます。 犬は用水のところへ来ると、鼻先を少し下げて、さらさらを嗅ぎました。 そして、耳をぴんと立てました。 犬は、人間より先に「受信」してゐるやうに見えました。
「こんばんは」
幹夫が言ふと、相手は驚きもせず、にこっと会釈しました。
「こんばんは。水、よく鳴くね」
水、よく鳴く。 そのひとことが、幹夫にはうれしかった。 自分だけが「ラジオ」と思ひ込んでゐるわけではないのです。 水は夜に鳴き、鳴きながら、何かを運んでゐる――その感じは、誰の目にもほんの少しは映るのかもしれません。
犬は用水の上をのぞき、尾をふりました。 尾の動きが、まるで小さなアンテナみたいでした。 アンテナは大きくなくていい。 大きいと風に折れる。 小さいアンテナほど、しぶとく波を拾ふ。
人と犬が去って行くと、用水のさらさらはまた、幹夫だけの音になりました。 けれど、もう寂しくありませんでした。 さらさらの底に、さっきの「放流せよ」がまだ残ってゐる気がしたからです。
(放流……。)
ためたことばは凍る。 凍ると重くなる。 重いものは、胸の中でぶつかって痛い。 なら、細い用水みたいに流せばいい。 一度に全部は流れない。 でも、細くても、流れれば、つながる。
幹夫はポケットからスマホを出しました。 画面の白い光は正確で、少し厳しい。 けれど今夜は、用水のさらさらと、街灯の銀河の粉が、その白さに薄い“にじみ”を足してくれる気がしました。 にじむ白は叱りません。 にじむ白は、短いものを通します。
幹夫は長い文を書きませんでした。 水晶ラジオの音は小さい。 小さい音には、短い言葉が似合ひます。 短い言葉なら、風に乗り、電線の上を走り、どこかの胸の「受信機」に届くかもしれません。
幹夫は、たった一行だけ打ちました。
――「御門台の用水が水晶ラジオみたいに鳴いてる。元気?」
送信すると、胸の中で、なにかが小さく発車しました。 汽笛は鳴りません。 でも、さらさらの底のぴん、のやうに、確かに鳴ったのです。 そして、胸の中の裁判官の机の音は、その鳴りを聞いてゐるうちに、いつの間にか止んでゐました。
幹夫は、拾った白い石を用水へそっと戻しました。 石は、ぱちん、と小さく水に触れ、すぐにさらさらに吸ひこまれて行きました。 吸ひこまれて、流れて、見えないところへ行きます。 けれど見えないからといって無くなるわけではありません。 用水は、御門台の下のどこかで、ちゃんとつながってゐるのです。
幹夫青年は、御門台で大きな奇跡を見たわけではありません。 ただ、水の音を水晶ラジオと思ひ、短い言葉を一つ放流しただけです。 けれど、その“だけ”があると、冬の夜はちゃんとあたたかい方へ進みます。 御門台の用水は今夜もさらさら流れながら、星のふるへと、人の息と、ひとことの勇気を、同じ水の道にそっと混ぜてゐたのでした。





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