空っぽの袖
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 8分

幹夫は戸に手をかけたまま、一度だけ息を整えた。 自分の胸の中の小さな警報が、まだ鳴っている。さっきより穏やかになったはずなのに、家の戸の前に立つとまた、少しだけ音が尖る。家の中には母がいて、祖母がいて、守られる場所のはずなのに、守られる場所ほど、守りたくもなる。
戸を引くと、台所のほうから水の音がした。祖母が鍋を洗っている音だ。水が鉄に当たって、乾いた家にだけ響く硬い音。幹夫はその音が少し好きだった。水は正直だ。増えないものが増えた気がする音を出す。
「帰った?」
母の声がした。声は台所の奥からで、姿はまだ見えない。声だけが先に幹夫を捕まえる。捕まえられるのが怖いわけじゃない。捕まえられてしまうと、隠していたものまで一緒に捕まる気がするのだ。
「うん」
幹夫はそう答えた。口が乾いていたので、声が少し粉っぽくなった。
母が出てきた。手ぬぐいで手を拭きながら、幹夫の足元を見る。砂。草履の鼻緒の隙間に、海の砂が白く詰まっている。幹夫は胸がきゅっと縮んだ。自分が悪いことをしたわけでもないのに、砂はいつも「見つかった」みたいな顔をする。
「足、洗ってき」
母はそれだけ言った。叱らない声だった。叱らない声のほうが、幹夫には重い。叱られるなら、痛いのは外側だけで済む。叱られないのに言われると、自分が母を疲れさせたみたいな気がする。
幹夫は頷いて、裏口へ回った。桶の水は冷たくて、足の裏がきゅっと縮む。砂が水に溶けて、白い濁りが一瞬だけできて、すぐ透明になる。砂は消えるのに、消えた気持ちは残るのが不思議だった。
足を拭いて戻ると、母は座敷に座っていた。膝の上に縫い物。今朝の続きだ。母の指は、針を持つ形にいつも少しだけ歪んでいる。歪みは弱さじゃなく、暮らしの癖だ。
「どこまで行った」
母は縫い目から目を離さずに聞いた。見ないで聞くときは、答えを半分しか欲しがっていない。幹夫はそれを知っている。
「浜」
「……ひとりで?」
「うん」
嘘ではない。けれど全部でもない。貝殻のこと。男のこと。「欠けてるのが、ええ」と笑った目の明るさのこと。幹夫はそれを言ってしまうと、母の眉間が固くなる気がした。固くなるのは怒りではない。心配だ。心配は、怒りより幹夫を黙らせる。
母は糸を引き、ふっと息を吐いた。吐いた息が、障子の白に薄く溶ける。湯気ではない。湯気みたいに見えない息。
「遠く行くなよ」
母は、さっきと同じことをもう一度言った。二度言うときは、本当は別のことも言いたいときだ。幹夫は頷いて、畳の縁を見た。縁の模様はいつも同じなのに、今日は少しだけ濃く見えた。
そのとき、戸口のほうで「こんちは」と声がした。男の声だ。低くて、少し喉が乾いている声。
母が顔を上げた。祖母も台所から顔を出した。幹夫の胸が、先にその声を知ってしまう。浜で会った男だ。空っぽの袖が風に揺れていた男。
男は戸口に立ったまま、帽子を取って頭を下げた。室内に入るのに躊躇する人の下げ方だった。入っていいのか、入ってはいけないのか、その境目で体を止めている。
「ああ……戻ったとこで、すまんね」
祖母が先に言った。祖母の声はいつも少しだけ強い。強いのは、弱いものを守るためだと幹夫は思う。
「いや、ちょいと……幹夫、さっき」
男が言いかけて、目線が幹夫に落ちた。幹夫は、思わず背筋を伸ばした。自分が呼ばれるときの体の固さ。嬉しいのに、怖い。
男はポケットを探り、白い貝殻を取り出した。欠けた縁が、家の薄暗さの中で少しだけ光る。
「これ。もろた。……助かった」
助かった、という言葉が、家の中に置かれた。置かれた瞬間、母の縫い針が止まった。祖母の手も止まった。言葉ひとつで、空気が変わる。
母の目が幹夫を一度だけ見た。見て、すぐに男のほうを見る。見続けない。見続けると、何をしたのか、どうしてしたのか、言葉にしなければならないからだ。
「そんなの……」
母は言いかけて、言葉を短くした。
「いえ、あんたが助かったならええけど」
祖母が代わりに言った。祖母はこういうとき、言葉を引き受ける。母の代わりに、幹夫の代わりに。幹夫はそれを、ありがたいと思うのに、少し苦しくもなる。祖母が引き受けるぶんだけ、祖母の背中が重くなる気がするから。
男は貝殻を握り直した。片腕で帽子を持ち、残った手で貝殻を包むようにする。貝殻が割れないように、というより、欠けたところで自分が傷つかないようにしている手つきだった。浜で幹夫が砂で丸めた縁に、男の親指がそっと触れた。
「欠けてるの、丸めてくれたんだろ。刺さらんように」
男は笑った。笑い方が、声だけ先に出る。目は遅れて笑う。遅れる目の笑いは、幹夫の胸の奥をくすぐった。
母は、針を置いたまま男を見た。見ながら、目だけで「気ぃつけて」と言っているようだった。幹夫は母の目を見て、すぐ逸らした。逸らすと、急に自分が悪いことをしたみたいになる。だから、今度は逸らしたくなかった。
男は少しだけ居心地悪そうに体を揺らし、それからもう一度ポケットを探った。出てきたのは、小さな紙包みだった。紙包みは、薄いのに重そうに見える。
「これ、ほんの……」
男が差し出したのは、角砂糖だった。ひとつ。白い四角。白さが、欠けた茶碗の白い欠けに似ている。似ているのに、これは欠けていない。完璧な角で、きちんと立っている。
幹夫の喉が、勝手に鳴った。甘いものは、匂いだけで胸を痛くさせる。甘いものは嬉しいはずなのに、嬉しさがまっすぐ来ない。嬉しさの前に、「これを出すために男が何を我慢したのか」を想像してしまうからだ。
「そんな、もらえん」
母が言った。声は低い。低い声は、本気の声だ。
「ええって。……おれ、こういうの、手ぇ出すこともできんで。代わりに、預けるわ」
男は笑って言った。笑いながら、自分の空っぽの袖をちらりと見た。見たのは自慢じゃない。事実を確認しただけの目だった。事実を確認する目は、痛い。
母は一瞬だけ黙った。受け取るべきか、断るべきかの間で、母の目がほんの少し揺れた。幹夫はその揺れが分かった。母の揺れは、すぐに幹夫の胸に移る。
祖母が、紙包みを受け取った。受け取る手は、意外なくらい柔らかかった。
「ありがと。……あとで仏さんにも、ちょっと供えよ」
祖母はそう言って、紙包みを棚の上に置いた。置き方が丁寧だった。丁寧に置けば増えるわけじゃないのに、丁寧に置くと、白さが少しだけ優しくなる。
男は座敷に上がらず、戸口のところで立ったまま話した。居間に入れば長居になる。長居は、人の痛みを露出させる。男はそれを避けているようだった。
「こっちは、鳴らんかったなぁ」
男がふと、外の空を見た。空の色を確かめる目。
「え?」
幹夫が、つい声を出してしまった。何が鳴らないのか、分かっているくせに。
男は、少し困った顔で笑った。
「サイレン。向こうじゃ鳴った。鳴っても、こっちまで届かん。……届かんほうが、ええのか、わるいのか、分からん」
母が、目を伏せた。祖母が、口の端をぎゅっと結んだ。家の空気が、一瞬だけ冷える。冷えるのに、風は入っていない。冷えるのは、言葉のせいだ。
幹夫の胸の中で、小さな警報がまた鳴り始めた。さっきまで穏やかだったのに、男が「サイレン」と言った瞬間、音が尖る。幹夫は自分の胸を押さえたくなった。押さえたら鳴り止む気がする。でも押さえても、鳴るものは鳴る。
男は、母の伏せた目を見て、すぐに話題を戻した。
「幹夫、ええ子だな。……浜で拾ったもんを、ちゃんと拾い直せる」
また、ええ子だな。 その言葉が来た瞬間、幹夫は嬉しさより先に、くすぐったさの痛みが来た。ええ子、という言葉は、皮膚の内側を撫でる。撫でられると、そこが弱くなる。
幹夫は返事ができず、ただ頭を下げた。頭を下げると、胸の中の音が少し遠くなる。遠くなるだけで、消えはしない。
男は「じゃあな」と言って帰っていった。空っぽの袖が、戸口の光の中で一瞬だけ白く見えた。白さは貝殻の内側に似ていた。似ているのに、貝殻ほど綺麗ではない。綺麗ではないほうが、本物だと幹夫は思った。
男が見えなくなると、家の中の時間が動き出した。祖母が鍋を火にかける音。母が針を持ち直す音。どれも小さいのに、戻ってきた感じがする音。
幹夫は棚の上の紙包みを見た。角砂糖ひとつ。それが家にある、というだけで空気が少し変わる。甘いものが家にある空気は、未来が少しだけある空気だ。
幹夫は、砂糖を早く食べたいとは思わなかった。食べたらなくなる。なくなると、白さが消える。消えるのが惜しい。幹夫はいつも、嬉しいものを長く置いておきたくなる。置いておけば、誰かが少し楽になる気がするからだ。自分が食べるより、母や祖母が楽になるほうが、胸が軽い。
「幹夫」
母が呼んだ。針を持ったままの声。
幹夫は母を見た。母は幹夫の指先を見ていた。今朝ちくりとしたところ。赤はもう消えかけているのに、母の目はそこを見逃さない。
「……痛いとこ、ある?」
母はそう聞いた。たったそれだけの言葉なのに、幹夫の胸が熱くなった。母の優しさは、湯気みたいに見えにくい。見えにくいけれど、鼻先に来ると分かる。
「だいじょうぶ」
幹夫は言った。大丈夫、という言葉は、大人がよく使う。幹夫はそれを真似してみたかった。母の負担にならない言葉を、ひとつでも持ちたかった。
母は、ほんの少しだけ眉を動かした。笑ったのか、困ったのか、どちらでもない。どちらでもない表情が、いちばん切ないと幹夫は思う。切ないのに、見ていたい。
「じゃあ……昼、芋、焼こうか」
母は言った。提案みたいな声だった。母の口から「〜しようか」が出る日は少ない。出た日は、家が少しだけあたたかい。
幹夫は大きく頷いた。頷くと、胸の中の音がほんの少しだけ丸くなる。貝殻の縁を砂で丸めたみたいに。
昼になれば、芋の匂いが出る。 湯気が立つ。 届くものが、またひとつ増える。
幹夫はそう思いながら、棚の上の紙包みにもう一度目をやった。白い四角は、まだ食べられていないのに、もう「ありがとう」の味がした。





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