第19話 ペット信託と猫型セキュリティ担当
- 山崎行政書士事務所
- 14 時間前
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静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その朝、陽翔が真剣な顔でコピー機を見つめていた。
「コピー機って、猫に似てませんか」
所長の山崎香澄は、湯呑みを持ったまま動きを止めた。
「どこが?」
「気まぐれです。忙しいときに限って紙詰まりします。あと、温まるまで少し時間がかかります」
悠真が書類をそろえながら言った。
「コピー機に謝ってください」
「猫には?」
「猫にも」
さくらが笑いをこらえながら、今日の相談票を確認した。
「今日のお客様は、ペット信託とマイクロチップ登録のご相談です。猫ちゃんをとても大切にされている方だそうです」
「猫ちゃん」
陽翔の目が輝いた。
「ついに山崎事務所にも猫案件が」
「案件という言い方をしないで」
香澄が笑った。
ふみかはピンクのクリップボードを開いた。
「ペット信託、相続、飼育費用、引き受けてくれる人、マイクロチップ登録情報、緊急時の連絡先……確認することが多いですね」
しょうこは、いつものように相談内容を分類した。
「大きく分けると、財産の準備、世話をする人の準備、登録情報の準備、日常の記録の準備です」
陽翔が感心したように言った。
「しょうこさん、猫の話も四分類」
「猫だからといって、分類を怠りません」
そのとき、入口の鈴が、からん、と鳴った。
「こんにちは。予約していた佐野です」
入ってきたのは、六十代前半の女性だった。やさしい色のカーディガンを着て、手には大きなトートバッグ。バッグには、猫の刺繍が入っている。
「山崎です。どうぞ、おかけください」
香澄が案内すると、佐野千鶴は丁寧に頭を下げた。
「今日は、うちの猫のことでご相談したくて」
陽翔が小声で言った。
「主語がすでに温かい」
悠真が静かに言う。
「聞こえています」
「すみません」
佐野はトートバッグから、写真を何枚も取り出した。
白と茶色のふわふわした猫。丸い目。少し偉そうな表情。窓辺で眠る姿、段ボールに入る姿、座布団を占領する姿。
「名前は、こはくです。十三歳です」
「かわいいですね」
さくらが思わず言った。
佐野の顔がぱっと明るくなった。
「でしょう? この子は本当に賢くて、私が落ち込んでいると横に来てくれるんです。あと、薬の袋を開ける音だけは絶対に聞き逃しません」
「賢さの方向が猫ですね」
陽翔が言った。
佐野は笑ったあと、少し表情を落ち着かせた。
「私、一人暮らしなんです。もし私に何かあったら、こはくをどうしたらいいのか、最近ずっと考えていて。親戚には猫アレルギーの人もいますし、友人も高齢で。お金だけ残しても、この子の世話をしてくれる人が決まっていなければ意味がないでしょう?」
応接室の空気が、やわらかく真剣になった。
香澄はうなずいた。
「そのお気持ち、とても大切です。ペット信託は、飼い主さんに万一のことがあったとき、ペットの飼育費用や世話の方法をあらかじめ決めておくための仕組みです」
悠真がホワイトボードに書いた。
誰が世話をするか。 誰がお金を管理するか。 どのように費用を使うか。 こはくの生活をどう守るか。 残ったお金をどうするか。
「まず、こはくちゃんを実際に世話してくれる方、飼育費用を管理する方、必要に応じて見守る方を分けて考えます」
佐野は真剣にメモを取った。
「世話をする人と、お金を管理する人は、別でもいいんですか?」
「はい。むしろ、分けたほうが安心な場合もあります」
香澄が言った。
「たとえば、こはくちゃんを引き取ってくれる人に毎月必要な費用を渡す。その費用がきちんと使われているか、別の人が確認する。そういう形も考えられます」
ふみかがピンクのクリップボードに書き込む。
飼育者候補。 信託財産。 支出項目。 動物病院。 食事。 薬。 緊急連絡先。 見守り役。
「こはくちゃんの普段の暮らしも、記録しておくといいですね。ごはんの種類、病院、薬、苦手なこと、好きな寝場所」
佐野は、少し照れたようにトートバッグから厚いノートを取り出した。
「実は、あります」
ノートの表紙には「こはく様 生活記録」と書かれていた。
陽翔が小さく感動した。
「“様”がついています」
佐野は胸を張った。
「うちでは、こはくが一番偉いので」
悠真が静かに言った。
「家族内の権限設計が明確ですね」
「悠真さん、猫にも権限設計」
さくらが笑った。
ノートには、こはくの好物、嫌いな音、通院履歴、ワクチン、薬、トイレの好み、来客時の隠れ場所まで細かく書かれていた。
しょうこはそれを見て、要点をまとめた。
「これは、こはくちゃんの生活仕様書ですね」
「仕様書!」
陽翔が目を輝かせた。
「猫の仕様書、なんて温かい響き」
奏汰が奥からぼそっと言った。
「仕様変更は猫側から随時発生します」
佐野が声を出して笑った。
「本当にそうです。昨日まで好きだったおやつを、急に見向きもしなくなるんです」
その後、話題はマイクロチップ登録に移った。
佐野は少し不安そうに言った。
「マイクロチップは入っています。でも、登録情報が古いかもしれません。前に引っ越したとき、住所を変えたかどうか覚えていなくて」
香澄はやさしく言った。
「登録情報が古いと、万一迷子になったとき、連絡が届かないことがあります。住所、電話番号、緊急連絡先、飼い主情報を確認しましょう」
陽翔が言った。
「猫の迷子札ですね」
あやのがうなずいた。
「前回のDNS回を思い出しますね」
「DNS?」
佐野が首をかしげる。
悠真がすぐに言った。
「お気になさらず。山崎事務所内の比喩です」
ふみかはクリップボードに追加した。
マイクロチップ登録情報の確認。 住所。 電話番号。 緊急連絡先。 引き受け予定者。 動物病院の情報。
「ペット信託の内容と、登録情報や生活記録がつながっていると安心ですね」
みおが資料を持って入ってきて、写真のこはくを見た瞬間、目を丸くした。
「かわいい……」
「みおさんが、結論より先に感想を」
陽翔が言った。
みおは少し照れながら言った。
「でも、これも大事な情報ですよね。かわいいから守りたい、って」
佐野は写真を見つめて、静かにうなずいた。
「そうなんです。この子が、私の毎日なんです」
その言葉に、応接室が少しだけ静かになった。
相続や信託という言葉は、どうしても財産の話に見える。 けれど、ここで話しているのは、預金額だけではなかった。
朝、こはくが鳴く時間。 お気に入りの毛布。 病院が苦手なこと。 薬を飲ませるコツ。 雷の日に隠れる場所。 佐野が帰宅すると、玄関まで迎えに来ること。
それらを未来へつなぐための相談だった。
そのときだった。
入口のほうで、かすかな音がした。
かり。
かりかり。
「今、何か聞こえませんでした?」
さくらが顔を上げた。
陽翔が立ち上がる。
「ついにコピー機が猫化しましたか」
「違います」
悠真が言った。
香澄が入口へ向かうと、ドアの隙間から、小さな灰色の猫が顔を出していた。
全員が固まった。
猫は固まらなかった。
堂々と事務所に入り、周囲を一瞥し、まるで最初から予約していた相談者のように歩いてきた。
「猫……」
佐野が目を丸くした。
「こはくではないですね」
灰色の猫は、応接室には入らず、まっすぐ事務スペースへ向かった。
そして、事務机の上に置かれていた書類の山に飛び乗った。
その書類は、さくらが午後の整理のために出していたISMSの重要書類だった。
情報資産台帳。 リスク評価表。 アクセス権限一覧。 教育記録。 委託先管理チェックリスト。
猫は、その上でくるりと丸くなった。
そして、寝た。
完璧な寝つきだった。
事務所の全員が、息をのんだ。
陽翔が小声で言う。
「猫型セキュリティ担当……」
悠真が眉をひそめた。
「重要書類の上で寝ています」
奏汰が冷静に言った。
「可用性が低下しました」
「いや、機密性は上がったかもしれません」
陽翔が言う。
「誰も近づけません」
さくらが慌てた。
「すみません! 書類を出しっぱなしにしていました!」
灰色の猫は、さくらの焦りなど一切気にせず、しっぽを一度だけ揺らした。
佐野は心配そうに言った。
「迷い猫かしら。首輪は……ないですね」
香澄はそっと近づいた。
「驚かせないようにしましょう。陽翔くん、急に動かないで」
「僕、そんなに猫に警戒されますか?」
「されそうです」
悠真が即答した。
ふみかがピンクのクリップボードを抱えながら言った。
「まず、猫ちゃんの安全確認ですね。次に、飼い主さんが分かるかどうか。マイクロチップを読み取れるところに相談する必要があります」
佐野がうなずいた。
「動物病院や保護団体さんに連絡したほうがいいですね」
その間、灰色の猫はISMSの書類の上で、ますます深く眠っていた。
しょうこが状況を三行にまとめた。
「一、猫が迷い込んだ。 二、重要書類の上で寝ている。 三、紙を出しっぱなしにしてはいけない」
陽翔が感動したように言った。
「しょうこさん、猫インシデントも三行」
「インシデントです」
悠真が言った。
「ただし、猫を責めてはいけません」
「責める対象は?」
さくらが小さく手を挙げた。
「私です……」
香澄はやさしく首を振った。
「責めるためではなく、運用を見直すためです。重要書類を使ったら、席を離れる前にしまう。来客スペースと作業スペースを分ける。紙の情報資産も、アクセスできる状態にしない」
奏汰が言った。
「猫は、アクセス権限を確認しません」
「自由すぎるユーザーですね」
陽翔が言った。
蓮斗が続けた。
「紙資料も情報資産です。クラウド上の権限だけ整えても、机の上に出しっぱなしでは意味がありません」
佐野は、眠っている猫を見ながら笑った。
「この子、ずいぶん大事なことを教えてくれたんですね」
みおが言った。
「猫って、言葉を使わずに結論を置いていきますね」
「結論の猫」
陽翔がささやいた。
その後、事務所は二つの対応を同時に進めることになった。
一つは、佐野のペット信託の整理。
こはくの飼育者候補。 飼育費用の見込み。 信託財産の額。 費用の支払い方法。 見守り役。 生活記録。 マイクロチップ登録情報の確認。 緊急時の連絡先。
もう一つは、迷い込んだ灰色猫の対応。
猫の安全確保。 近所への聞き取り。 動物病院への連絡。 マイクロチップ確認の相談。 ISMS書類の回収。 紙資料の管理ルール見直し。
陽翔がホワイトボードを見て言った。
「ペット信託と情報資産管理が、同じ日に合流するとは」
「奇跡的ですが、筋は通っています」
悠真が言った。
「どこがですか?」
「大切なものには、置き場所と連絡先と管理者が必要です」
事務所が静かになった。
佐野は、その言葉をゆっくり受け止めた。
「こはくにも、書類にも、そうなんですね」
「はい」
香澄が微笑んだ。
「大切なものを大切にするには、気持ちだけでなく、仕組みが必要です」
灰色の猫は、まるでその言葉を聞いたかのように、薄く目を開けた。
そして、また寝た。
午後になるころ、近所の動物病院に相談し、灰色の猫を安全に連れて行く手配が整った。香澄とふみかが柔らかいタオルとキャリーを用意したが、猫はなかなか動かなかった。
陽翔がそっと呼びかける。
「猫型セキュリティ担当さん、退勤のお時間です」
猫は動かない。
さくらが、少し離れたところから猫用のおやつを差し出した。
猫は片目を開けた。
そして、ゆっくり立ち上がった。
ISMS書類から降りた瞬間、さくらが素早く書類を回収した。
「情報資産、復旧しました!」
陽翔が拍手した。
「可用性、回復!」
悠真が書類を確認した。
「爪跡はありませんね」
奏汰が言った。
「完全性も維持されています」
香澄が笑いをこらえた。
「皆さん、猫をIT用語で評価しないで」
灰色猫は、おやつに導かれ、無事にキャリーへ入った。
佐野はその様子を見て、目を細めた。
「この子も、ちゃんと帰れるといいですね」
「はい」
香澄はうなずいた。
「マイクロチップや登録情報は、こういうときに大切なんですね」
佐野は自分のノートを見た。
「こはくの情報、今日帰ったら必ず確認します。私が元気なうちに、こはくが困らないようにしておきたいです」
香澄は、やさしく言った。
「それは、とても大きな愛情だと思います」
佐野は少し照れたように笑った。
「こはくに言ったら、“当然です”って顔をされそうです」
「権限者ですからね」
悠真が言った。
陽翔が小声で言う。
「悠真さん、こはく様の権限を正式認定」
打ち合わせの最後、しょうこが今日の要点をまとめた。
「一、ペット信託では、世話をする人、お金を管理する人、見守る人を決める。 二、マイクロチップ登録や生活記録は、ペットが帰るための道しるべになる。 三、紙の重要書類も情報資産なので、出しっぱなしにしない」
佐野は三行を見て、笑った。
「三番目だけ、うちのこはくにも言い聞かせたいです。書類の上で寝るのが好きなので」
さくらが深くうなずいた。
「猫は、紙の上が好きです」
「だからこそ、紙をしまうんですね」
ふみかが言った。
佐野は、こはくの写真をしまいながら言った。
「今日来てよかったです。ペット信託というと、難しい制度の話かと思っていました。でも、こはくの毎日を未来につなぐ準備なんですね」
香澄は微笑んだ。
「そうです。こはくちゃんが、これからも安心して暮らせるようにするための約束です」
佐野は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします。こはくのために、ちゃんと準備します」
佐野が帰り、灰色の猫も動物病院へ向かい、事務所には夕方の光が戻った。
さくらはISMS書類を鍵付きキャビネットにしまった。
「反省しました。紙も情報資産。出しっぱなしにしません」
奏汰が言った。
「猫による物理アクセス対策も必要です」
「それは想定外でした」
蓮斗が静かに言った。
「想定外を減らすのがリスク管理です」
陽翔がメモを取る。
「猫型セキュリティ担当、かなり優秀でしたね」
悠真は言った。
「優秀でしたが、常駐は不要です」
「でも、採用したら事務所の人気が上がります」
「書類の可用性が下がります」
みおが笑った。
「でも、今日の猫ちゃんがいなかったら、紙を出しっぱなしにしないって、ここまで実感できなかったかもしれません」
香澄は窓の外を見た。
青葉通りの木々が、夕方の風に揺れている。
相続や信託は、財産の話だけではない。 マイクロチップ登録は、番号の話だけではない。 ISMSも、台帳や規程の話だけではない。
どれも、大切なものが迷子にならないようにするための仕組みなのだ。
猫の暮らし。 飼い主の思い。 紙の書類。 情報資産。 帰る場所。 連絡先。 守る人。
それぞれ違うようで、根っこは同じだった。
大切なものを、大切に扱う。 そのために、言葉にして、記録して、置き場所を決める。
その日の終業前、悠真は正式な資料を保存した。
「ペット信託_初回相談整理_佐野様.docx」
陽翔が横からのぞいた。
「正式ですね。猫型セキュリティ担当感がありません」
「必要ありません」
「では、思い出フォルダ用に」
悠真がすでに振り向いていた。
「作る前から止めます」
しかし、三分後。
共有フォルダに新しいファイルができていた。
「ペット信託と猫型セキュリティ担当_紙を出しっぱなしにしない版.xlsx」
悠真は画面を見た。
削除キーに指を置いた。
その瞬間、さくらが言った。
「そのタイトルなら、反省が残るので……少しだけ」
ふみかも頷いた。
「情報資産管理の教訓として、忘れにくいです」
香澄が笑った。
「思い出フォルダなら、残しましょう」
悠真は静かにため息をついた。
「思い出フォルダなら」
翌朝、動物病院から連絡があった。
灰色の猫にはマイクロチップが入っていて、無事に飼い主と連絡が取れたという。名前は「しらす」だった。
「しらす!」
陽翔が声を上げた。
「静岡らしい名前ですね」
香澄は嬉しそうに笑った。
「帰れる場所が分かってよかった」
さくらは鍵付きキャビネットを見た。
「書類も、しらすちゃんも、ちゃんと帰る場所が大事ですね」
みおが静かに言った。
「大切なものには、帰れる場所を作っておくんですね」
陽翔がメモを取った。
「湯呑み候補です」
悠真が言った。
「猫用の迷子札なら、向いています」
「湯呑みではなく?」
「今回は迷子札です」
全員が笑った。
青葉通りの契約書は、今日も笑う。 こはく様の未来と、しらすの帰り道と、鍵付きキャビネットにしまわれたISMS書類を、そっと見守りながら。





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