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第28話 データ侵害通知、鳴らない電話を待ちながら


静岡市葵区、青葉通りから少し入った山崎行政書士事務所では、その日の午前、電話機が異様な存在感を放っていた。

 黒い電話機である。 いつもそこにある。 いつも鳴る。 なのに今日は、誰もがその電話機を見ていた。

「鳴りますかね」

 陽翔が言った。

「電話なので、鳴る可能性はあります」

 悠真が淡々と返す。

「そういうことではなくて」

 さくらは湯呑みを持ったまま、電話機を見つめていた。

「今日のお客様、個人情報漏えいの疑いがあるって……」

 その言葉で、事務所の空気が少し引き締まった。

 データ侵害。 漏えいの疑い。 報告。 本人通知。 委託先確認。 Azureログ。 社内外説明。

 言葉だけでも、胃のあたりが固くなる。

 香澄は深蒸し茶をそっと置いた。

「まずは、事実を確認すること。分からないことを分からないまま決めないこと。今日はそこからですね」

 悠真は、すでにホワイトボードの前に立っていた。

 白いボードの中央に、まっすぐな線を引く。

 時系列表。

 その文字だけで、少し空気が落ち着いた。

「悠真さん、もう表を作ってる」

 陽翔が言った。

「電話を待っている時間にも、できることはあります」

「鳴らない電話を待ちながら、時系列表」

「詩にしないで」

 奏汰がヘッドホンを首にかけたまま言った。

 その瞬間。

 電話が鳴った。

 りりりりりん。

「来た!」

 陽翔が立ち上がった。

「はい!」

 さくらも立ち上がり、持っていたお茶が少し傾いた。

「さくらちゃん、湯呑み!」

 あやのが叫ぶ。

 さくらは慌てて戻そうとしたが、湯呑みの中のお茶は、小さな弧を描いてテーブルへ落ちた。

「ああっ!」

「一次対応、布巾!」

 りなが叫ぶ。

「インシデントです!」

 陽翔が言う。

「お茶です」

 悠真が冷静に言った。

 香澄が受話器を取った。

「はい、山崎行政書士事務所です」

 全員が固唾をのむ。

「……はい。ええ。いつもありがとうございます。コピー用紙の納品ですね。はい、午後で大丈夫です」

 香澄が受話器を置いた。

 沈黙。

 陽翔が静かに座った。

「コピー用紙でした」

「電話に過剰反応しすぎです」

 悠真が言った。

 さくらは布巾でお茶を拭きながら、小さく言った。

「私の初動対応、失敗しました」

「いいえ」

 香澄は微笑んだ。

「被害範囲は限定的です。再発防止策は、緊張しているときに湯呑みを持って電話を待たないこと」

 悠真がホワイトボードの隅に書いた。

 教訓:湯呑みを持ったまま緊急電話を待たない。

「それ、正式な手順書に入りますか?」

 陽翔が聞く。

「入りません」

 悠真は即答した。

 午前十時、入口の鈴が、からん、と鳴った。

 入ってきたのは、地元の小売向けEC支援会社「駿河コマースリンク」の代表、戸倉社長。 その後ろには、情報システム担当の三浦、総務担当の杉本が続いていた。

 三人とも、顔が硬い。

「山崎先生、急な相談ですみません」

 戸倉社長は席に着くなり、深く頭を下げた。

「個人情報が漏えいしたかもしれません」

 応接室の空気が、今度こそ本当に引き締まった。

 香澄は穏やかに言った。

「まず、分かっていることから確認しましょう」

 悠真がホワイトボードの時系列表に向かう。

「発覚した時刻からお願いします」

 三浦がノートパソコンを開いた。

「昨日の十九時四十分ごろ、委託先のメール配信サービス会社から、“不審なAPI利用が検知された”と連絡がありました。弊社のEC顧客リストを連携しているサービスです」

「その後は?」

「二十時過ぎに、弊社側で管理画面を確認しました。ただ、誰が何をしたか分かるログがすぐには見つからなくて」

 奏汰が顔を上げた。

「Azure側のログは?」

「EC基盤はAzureです。サインインログとアクティビティログはあります。ただ、メール配信サービス側の詳細ログは委託先に確認中です」

 蓮斗は静かに頷いた。

「まず、Azure、委託先サービス、ECアプリの三つを分けましょう」

 ホワイトボードに、りなが三つの箱を描いた。

 Azure環境。 ECアプリ。 メール配信委託先。

 悠真は時系列表を作り続ける。

 十九時四十分 委託先から不審API利用の連絡。 二十時十分 自社で管理画面確認。 二十時三十分 該当APIキーを停止。 二十一時十五分 Azureサインインログ確認開始。 二十二時〇〇分 委託先に詳細ログ提出依頼。 本日十時 山崎事務所へ相談。

「該当APIキーは停止したんですね」

 蓮斗が聞いた。

「はい」

 三浦が頷く。

「ただ、停止前に顧客情報が取得された可能性があると言われています」

 杉本が不安そうに言った。

「顧客情報には、名前、メールアドレス、購入履歴、一部の配送先情報が含まれます。クレジットカード情報は決済代行会社側なので、うちでは持っていません」

 ふみかのピンクのクリップボードに、文字が走る。

 氏名。 メールアドレス。 購入履歴。 配送先情報。 クレジットカード情報は自社非保持。 委託先。 APIキー。 不審利用。 本人通知。 報告要否。 社外説明。

 陽翔は珍しく黙っていた。

 しかし、電話機がまた鳴った。

 りりりりりん。

「来た!」

 今度は三浦まで少し立ち上がった。

 さくらは湯呑みを持っていなかった。 学習していた。

 香澄が受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所です」

 全員が見る。

「……はい。いえ、当事務所ではウォーターサーバーの新規契約は……はい、失礼いたします」

 香澄が電話を置いた。

 沈黙。

 陽翔が小声で言った。

「水の営業でした」

 奏汰が言った。

「今回の水は、漏えいしていません」

「うまいこと言わないでください」

 さくらが少し笑った。

 笑いは小さかった。 けれど、緊張で固まった応接室には、その小ささがちょうどよかった。

 悠真は淡々と話を戻した。

「次に、分かっていること、分かっていないこと、推測を分けます」

 ホワイトボードに三つの欄ができた。

 分かっていること。 分かっていないこと。 推測。

「分かっていることは、委託先が不審なAPI利用を検知したこと。該当APIキーを停止したこと。顧客情報が含まれるサービスであること。クレジットカード情報は自社では保持していないこと」

 杉本が頷く。

「はい」

「分かっていないことは、実際に個人情報が外部へ取得されたか。取得された場合、どの範囲か。原因がAPIキーの漏えいなのか、委託先側の設定なのか、自社環境の問題なのか」

 三浦が小さく言った。

「そこが一番怖いです」

「推測は、まだ推測として扱います」

 悠真はペンを置いた。

「危機対応で最初に大事なのは、事実と推測を混ぜないことです」

 陽翔が静かにメモを取った。

「今日の悠真さん、冷静さが防火扉みたいです」

「比喩は不要です」

 でも、誰も笑い飛ばさなかった。

 その冷静さが、今の応接室には必要だった。

 蓮斗はAzureログの確認に入った。

「まず、該当時間帯のサインインログを見ます。管理者アカウント、不審なIP、普段と違う国や地域、失敗したログイン、成功したログイン。次に、アクティビティログでAPIキーやシークレット、アプリ登録に変更がなかったかを確認します」

 奏汰が続けた。

「ストレージやアプリ側のログも見ます。顧客データのエクスポート、API呼び出し回数、異常なアクセス元、時間帯。委託先からは、不審API利用の時刻、アクセス元、対象データ、レスポンス件数、検知理由をもらう必要があります」

 三浦は、急いでメモを取る。

「委託先には、どんなふうに聞けばいいですか?」

 かなえが契約書を開いた。

「その前に、委託先との契約を見ます。事故時の報告義務、ログ提出、再委託、調査協力、秘密保持がどう書かれているか確認しましょう」

 契約書には、こうあった。

「情報セキュリティ上の問題が生じた場合、受託者は速やかに委託者へ報告するものとする。」

 かなえの眼鏡が一ミリ下がった。

「“速やかに”だけですね」

 陽翔が小さく言う。

「また便利だけど曖昧な言葉が」

「はい」

 かなえは付箋を貼った。

「今回の調査では、まず詳細ログの提供、影響範囲、暫定対応、再発防止策、第三者や再委託先の関与有無を確認します。今後の契約では、報告期限、報告内容、ログ提出の範囲、緊急連絡先を具体化したほうがいいです」

 戸倉社長が眉を寄せた。

「今は、契約の見直しより、とにかく報告をどうするかが不安です。誰に、いつ、何を報告すべきなのか……」

 香澄はうなずいた。

「そこを整理しましょう。まず、外部への正式な報告や通知が必要かどうかを判断するためにも、事実確認が必要です。ただし、確認が終わるまで何もしない、というわけではありません」

 しょうこがホワイトボードに書いた。

 報告・通知の整理 一、社内の誰に共有するか。 二、委託先へ何を確認するか。 三、監督機関等への報告要否を検討するか。 四、本人通知が必要か検討するか。 五、取引先・関係先へ何を説明するか。

「社内では、経営層、情報システム、総務、顧客対応、広報、必要に応じて法務担当。まず、少人数の対応チームを作ります」

 ちぎりが、社内向け説明資料のたたき台を作り始めた。

「現時点の社内共有文は、こういう形がいいと思います」

 画面には、簡潔な文章が並んだ。

 現在、メール配信サービスに関する不審なAPI利用の連絡を受け、影響範囲を確認しています。 現時点で確認できている事実、未確認事項、実施済み対応を分けて整理しています。 顧客対応や外部説明は、対応チームからの指示に沿って行ってください。 個別判断での連絡やSNS投稿は控えてください。

 杉本が目を丸くした。

「これ、すごく助かります。社内チャットに何を書けばいいか分からなくて」

 ちぎりは穏やかに言った。

「危機のときほど、短く、正確に、同じ言葉で伝えるのが大切です」

 電話がまた鳴った。

 りりりりりん。

 全員が振り向く。

 今度は誰も立ち上がらなかった。 少し成長していた。

 香澄が受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所です」

 応接室が静まる。

「……はい。少々お待ちください」

 香澄の声が変わった。

 全員の背筋が伸びた。

「駿河コマースリンク様の委託先、メール配信サービス会社のご担当者様からです」

 三浦が立ち上がりかける。

 香澄は落ち着いて言った。

「スピーカーにします。皆さん、メモを」

 電話の向こうの担当者は、早口だった。

 不審なAPI利用は昨日十九時三十二分から三十八分にかけて発生。 アクセス元は通常と異なるIP。 APIキーによる認証は成功していた。 取得された可能性のあるデータは、メール配信用リストの一部。 現時点で確認できる範囲では、クレジットカード情報やパスワードは含まれない。 詳細ログは追って提出予定。 委託先側で該当APIキーは失効済み。 再委託先の関与は現時点で確認中。

 悠真の時系列表が、ものすごい速度で埋まっていく。

 さくらは今度こそお茶を持っていない。 両手でメモを取っている。

 電話が終わると、応接室に重い沈黙が落ちた。

「取得された可能性がある、ということですね」

 戸倉社長が言った。

「はい」

 蓮斗が頷く。

「ただし、範囲はまだ確定していません。詳細ログが必要です」

 悠真はホワイトボードを見た。

「これで、分かっていることが増えました。同時に、次の確認事項も増えました」

 戸倉社長は苦しそうに言った。

「お客様に、いつ言えばいいんでしょうか。まだ確定していないのに言うべきなのか、確定するまで待つべきなのか」

 香澄は、少し間を置いて言った。

「ここは慎重に判断します。報告や本人通知が必要かどうか、どのタイミングで、どの内容を伝えるか。専門的な確認をしながら進める必要があります。ただ、準備は今すぐできます」

 みおが静かに言った。

「電話が鳴るのを待つだけじゃなくて、伝える言葉を先に整えておくんですね」

 陽翔が小さく頷いた。

「鳴らない電話を待ちながら、やることはある」

 今度は誰も茶化さなかった。

 その後、社外説明の文案作成に入った。

 あやのが、顧客向け文案に赤を入れる。

「“漏えいしました”と断定するにはまだ確認が必要です。ただ、“漏えいの可能性がある事案を確認している”という表現は検討できます」

 かなえが続ける。

「対象となる可能性のある情報、現時点で含まれないと確認している情報、実施済み対応、今後の対応、問い合わせ窓口。ここを整理しましょう」

 ちぎりが、読みやすい形に整えた。

 このたび、当社が利用するメール配信サービスにおいて、不審なAPI利用が確認されました。 現在、対象となる情報の範囲を委託先とともに調査しています。 現時点では、クレジットカード情報やログインパスワードが含まれる事実は確認されていません。 該当するAPIキーは停止し、追加のアクセス防止措置を実施しました。 詳細が判明次第、必要な対応を行います。 お問い合わせ窓口は以下のとおりです。

 杉本は、その文案を見て少しだけ泣きそうな顔をした。

「やっと、言葉になりました」

 香澄はやさしく言った。

「危機のとき、人は言葉を失いやすいです。だから、事実に沿って、落ち着いて、相手が知りたいことを並べます」

 奏汰は技術対応を整理した。

 APIキーの停止。 新しいAPIキーの発行は、原因確認後に限定的に行う。 権限を必要最小限にする。 不要な連携を停止する。 Azureサインインログを確認する。 アプリ登録、シークレット、権限変更を確認する。 委託先ログと照合する。 今後はAPI利用のアラートを設定する。 定期的に委託先のログ提出と連携権限を確認する。

 蓮斗は、さらに淡々と補足した。

「委託先のログが出たら、時系列に重ねます。Azure側のログと食い違いがないか見ます。アクセス元、対象データ、件数、認証方法。ここを確認します」

 三浦は深く頷いた。

「やることが見えてきました」

「見えれば、動けます」

 蓮斗が言った。

 夕方近く、対応方針がまとまった。

 社内対応チームを作る。 時系列表を更新し続ける。 委託先へ詳細ログ、影響範囲、再委託先の関与、原因、再発防止策を確認する。 Azureログ、ECアプリログ、委託先ログを突き合わせる。 APIキーやアプリ権限を棚卸しする。 監督機関等への報告要否、本人通知の要否、通知内容を専門的に確認する。 顧客向け文案、社内向け文案、取引先向け文案を分けて準備する。 問い合わせ窓口を一本化する。 SNSや個別返信で不確かな情報を出さない。 事後には、委託先契約、ログ提出、API権限管理、インシデント対応手順を見直す。

 しょうこが、最後に三行でまとめた。

「一、危機対応では、事実・未確認・推測を分ける。 二、Azureログ、委託先ログ、社内記録を時系列でつなぐ。 三、報告や通知は、慌てて叫ぶのではなく、相手が判断できる言葉で届ける。」

 戸倉社長は、その三行を見て、長い息を吐いた。

「ここに来る前は、電話が鳴るのが怖かったんです。委託先からも、お客様からも、取引先からも。でも今は、鳴ったら何を聞くか、少し分かりました」

 杉本も言った。

「社内に何を言うかも見えました」

 三浦はノートパソコンを閉じた。

「ログを見ます。ちゃんと、時系列にします」

 香澄はうなずいた。

「焦らず、でも止まらず。危機対応は、その両方が大切です」

 その言葉の直後、電話が鳴った。

 りりりりりん。

 全員が振り向いた。

 しかし、今度は誰も飛び上がらなかった。

 さくらも、お茶をこぼさなかった。

 香澄が受話器を取る。

「はい、山崎行政書士事務所です」

 静かな間。

「……はい。承知しました。折り返しご連絡いたします」

 香澄は受話器を置いた。

「コピー用紙、到着が少し遅れるそうです」

 応接室に、どっと笑いが起きた。

 緊張が、少しだけほどけた。

 陽翔が言った。

「コピー用紙も、遅延通知をしてくれたんですね」

 悠真が頷いた。

「適切な通知です」

 さくらが笑った。

「第一報ですね」

 戸倉社長も笑った。

「今日初めて、電話の音で笑えました」

 その笑いは、決して軽いものではなかった。 漏えいの疑いは、まだ解決していない。 これから確認すべきことは多い。 報告や通知の判断も慎重に進めなければならない。

 それでも、笑えるだけの落ち着きが少し戻っていた。

 夕方、駿河コマースリンクの三人が帰ったあと、事務所には静かな疲れが残った。

 さくらは、自分がこぼしたお茶の跡をもう一度確認した。

「朝は、電話が鳴るだけでパニックでした」

 香澄が微笑む。

「でも、最後は落ち着いて聞けましたね」

 悠真はホワイトボードの時系列表を眺めていた。

「危機対応では、落ち着きは才能ではなく、手順で作るものです」

 陽翔がメモを取った。

「今日の最終名言です」

 蓮斗が言った。

「ログも、落ち着くためにあります」

 奏汰も続けた。

「分からないものを、分かる順番に並べるためです」

 みおが言った。

「鳴らない電話を待つ時間も、何もしない時間じゃないんですね」

 香澄は窓の外を見た。

 青葉通りの夕方。 街灯が少しずつ灯り、木々の影が歩道に伸びている。

 危機は、突然やってくる。 電話一本で。 メール一通で。 ログの一行で。

 その瞬間、人は不安になる。 誰に言えばいいのか。 何を言えばいいのか。 いつ言えばいいのか。 まだ分からないことを、どう扱えばいいのか。

 でも、落ち着きは作れる。

 時系列にする。 事実と推測を分ける。 ログを確認する。 委託先に聞く。 社内の言葉をそろえる。 外に伝える言葉を整える。 そして、一人で抱えない。

 それが、データ侵害通知の前に必要な、最初の灯りなのだ。

 その日の終業前、悠真は正式な資料を保存した。

「個人情報漏えい疑い_初動対応時系列整理_初版.docx」

 蓮斗は別ファイルを保存した。

「Azureログ確認項目_委託先ログ照合表.xlsx」

 かなえは契約見直しメモを保存した。

「委託先契約_事故報告ログ提出条項整理.docx」

 陽翔が横からのぞいた。

「正式ですね。鳴らない電話感がありません」

「必要ありません」

 悠真が言った。

「では、思い出フォルダ用に」

「作る前から止めます」

 しかし、三分後。

 共有フォルダに新しいファイルができていた。

「データ侵害通知_鳴らない電話を待ちながら_事実と推測を分ける版.xlsx」

 悠真は画面を見た。

 削除キーに指を置いた。

 その瞬間、さくらが言った。

「そのタイトルなら、今日の教訓を忘れません」

 蓮斗も頷いた。

「時系列表の重要性が残ります」

 香澄が笑った。

「思い出フォルダなら、残しましょう」

 悠真は静かにため息をついた。

「思い出フォルダなら」

 翌朝、戸倉社長からメールが届いた。

「昨日はありがとうございました。委託先から詳細ログの一次提出があり、対象範囲の確認を進めています。社内対応チームを作り、時系列表を更新しています。電話が鳴っても、まずメモを取るようにしました」

 陽翔が読み上げると、事務所に小さな笑いが広がった。

 さくらは湯呑みを両手で持ったまま言った。

「私も、電話が鳴ったら湯呑みを置きます」

 悠真が頷いた。

「よい再発防止策です」

 香澄はお茶を淹れながら、青葉通りの朝を見た。

 今日も電話は鳴る。 良い知らせも、悪い知らせも、ただのコピー用紙の遅延も。

 大切なのは、鳴った瞬間に慌てることではなく、受け取った情報を落ち着いて並べること。

 青葉通りの契約書は、今日も笑う。 鳴らない電話を待つ時間の中にも、危機を乗り越えるための小さな準備があることを知りながら。

 
 
 

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