第二十一章 放送室のガラス
- 山崎行政書士事務所
- 2月1日
- 読了時間: 6分

放送室のガラスは、声を閉じ込める顔をしている。教室の窓のガラスみたいに外へ風を逃がさないのに、向こう側の気配だけははっきり見せる。見えるのに、届かない。届かないのに、届いてしまう――そういう矛盾の真ん中に、マイクが一本立っている。
表彰の翌週、担任が幹夫(みきお)の机の上に、もう一枚紙を置いた。白いコピー。見慣れた升目の文章。自分の鉛筆の灰色が、黒いインクに変わっている。自分の言葉なのに、活字になると他人の顔をする。
「これさ。昼の放送で読んでみない? 入選作品、紹介したいんだ」
“読んでみない?”は、逃げ道のある言い方のはずなのに、幹夫には「決まった」に聞こえた。決まったものは、身体が先に段取りを始める。心のほうは追いつけないのに、指先だけがプリントの端を押さえて、皺が寄らないように整えていた。
「……はい」
声は短かった。短いのに、嘘じゃない短さだった。嘘じゃない短さは、胸の奥で少しだけ重くなって、でも落ちない。
先生は大げさにしないまま笑った。
「じゃあ、明日。昼休み、放送室ね。時間あるから、ゆっくりで大丈夫」
ゆっくりで大丈夫。その一言が、幹夫の中の“鳴る前の一拍”を少しだけ短くした。短くなると、怖さは消えないのに、倒れにくくなる。
その日の帰り道、しずてつの踏切はいつも通り鳴る前がうるさかった。遮断機が下りる前の、止まれる時間。止まれるから、考えてしまう。
明日、放送室。ガラスの向こうのマイク。赤いランプ。スピーカー。自分の声が、教室の天井に反響して戻ってくるより、もっと遠くへ行ってしまう感じ。
電車が通り過ぎる。窓の中に、買い物袋と制服の肘と、スマホの光。生活はいつも通り流れていく。いつも通りのものは、こちらを急かさない。急かさないのに、こちらが勝手に急ぐ。
家に帰ると、だしの匂いが先に迎えた。祖母が鍋を温めている匂い。湯気が立つ前の匂い。内側へ沈む匂いに触れると、喉の乾きが少しだけほどける。
自分の部屋で、プリントを机に広げた。活字の行間はきれいで、きれいすぎて息が入る隙間がない。息が入る隙間がないと、声は硬くなる。硬い声は、ガラスに当たって割れそうで怖い。
幹夫は一文目を、小さく声に出してみた。
「夏は、匂いが先に帰り道を作る」
声が、自分の耳に戻ってくる。戻ってくる声は、思ったより薄かった。薄いのに、部屋の空気だけが変わる。変わった空気は、元に戻りにくい。
二文目に行こうとして、喉の奥が詰まった。詰まるのは、言葉のせいじゃない。言葉の先に「聞く人の顔」を想像してしまうからだ。
教室で聞いていた俊。担任の先生。体育館の天井。そして――もし、どこかで母が聞いたら、という想像。想像は便利で、便利だから勝手に増える。増えすぎると、声が出ない。
そのとき、廊下で床板がきしんだ。父の足音。納屋から戻ってくる音。足音は一定で、一定の音は余計な言葉を薄くする。
ふすまの向こうで、父が止まった気配がした。止まった気配は、聞いている気配に似ている。似ているのに、父は声をかけない。声をかけないことで、こちらの声を守ることがある。
幹夫はプリントを持ったまま、もう一度だけ読み始めた。今度は、息を先に吸って、吐きながら言葉を置いた。
「火薬の匂いは、光より先に来る」
声が、少しだけ沈まない。沈まないのは音量のせいじゃない。吐く息の上に言葉を乗せたからだ。乗ると、声は落ちない。
ふすまの向こうで、父が小さく咳払いを飲み込む音がした。それだけ。それだけで、幹夫の背中の力が少し抜けた。
父が去り際に、短く言った。
「……水、飲め」
水。段取りの言葉。でも今夜の水は、喉のためだけじゃなく、声のための水にも聞こえた。
翌日、昼休み。放送室へ向かう廊下は、ワックスの匂いが薄く残っていた。面談の日と同じ匂い。匂いは、終わったことを終わらせない。終わらせない代わりに、「またここまで来た」を作る。
放送室の扉を開けると、機械の熱の匂いがした。古いプラスチック。ほこり。コード。扇風機が回っていて、風は冷たくないのに、空気だけは動く。動くと、息がしやすい。
ガラスの向こうに、放送委員の先輩が二人いた。ヘッドホン。スイッチ。小さなメーター。メーターは正直で、声が出ると針が動く。動くと、声が“ここにある”ことが確定してしまう。
担任が小さく言った。
「じゃあ、ここに立って。緊張したら、一回止めてもいいから」
止めてもいい。その逃げ道があるだけで、止めない方を選べる気がした。
幹夫はマイクの前に立った。マイクの黒は、海の黒より軽い。軽いのに、喉の奥へ影を落とす。
先輩が指で合図して、赤いランプが点いた。“ON AIR”の赤。赤は朱肉の赤と違って匂いがない。匂いがない赤は、余計に怖い。怖いのに、赤はただ点いているだけで、責めてこない。
幹夫の目の前のプリントが、少しだけ震えた。紙が震えると、手が震えていることが分かる。分かると、余計に震える。幹夫は紙の端を指で押さえ、紙の震えを止めるふりをした。ふりでもいい。ふりがあると、声が出る。
息を吸う。吐く。吐きながら、言葉を置く。
「夏は、匂いが先に帰り道を作る」
声が、スピーカーの向こうへ流れていく気配がした。流れていくのに、放送室のガラスは動かない。動かないガラスの中で、声だけが通っていく。通っていくと、身体だけがここに取り残される。取り残されるのが怖いのに、声が出ているあいだは、取り残されない。
二行目。三行目。火薬の匂い。煙がほどける方向。帰り道の混み方。言葉を“説明”しないまま、言葉だけを並べる。並べると、言葉が勝手に意味を運ぶ。運ぶ意味に、自分が追いつかなくてもいい、と初めて思えた。
読み終えた瞬間、先輩が音を下げるスライダーを動かした。声が、すっと遠のく。遠のいたあとに残る静けさは、踏切の後の静けさより軽い。軽いのに、空気だけが変わっている。
担任が小さく頷いた。
「よかった。ちゃんと届いたよ」
届いたよ、という言葉が、胸の奥へ落ちた。落ちたのに痛くない。痛くない落ち方は、受け取れる落ち方だった。
放送室を出ると、廊下の匂いが急に生活に戻った。昼のざわめき。弁当の匂い。窓から入るぬるい風。自分の声が校内のどこかでまだ鳴っている気がして、幹夫は少しだけ歩幅を速めた。速めたのに、逃げている感じはしなかった。速い歩幅は、帰り道を作る歩幅にもなる。
放課後、しずてつの踏切の前で、鳴る前の一拍が来た。今日は、その一拍が短かった。短いのではなく、身構える暇がなかった。身構える暇がないのに、転ばない。転ばない遅れがある。
家に着くと、祖母のやかんが鳴いた。湯気が立ち、茶の匂いが部屋に広がる。茶の匂いは内側へ沈む匂いで、放送室の機械の匂いを、ゆっくり剥がしてくれる。
父は居間でテレビをつけたまま、音量を一段下げた。振り向かずに言った。
「……読んだか」
幹夫は一拍置いて答えた。
「……読んだ。放送で」
父のリモコンの手が止まって、また動いた。音量がもう一段だけ下がる。言葉じゃない返事。父の返事。
「……そうか」
それだけ。でもその「そうか」は、朱肉の匂いのない赤いランプみたいに、静かに点いて消えない感じがした。
夜、スマホが震えた。母から。
「今日、学校で放送あったんだって? 先生が言ってた。 …幹夫の声、沈まなかった?」
幹夫は返信欄を開き、短く打った。
「沈まなかった。戻ってきた」
送信して、画面を伏せる。暗い画面に映る自分の目は、少しだけ“声の反響”を知っている目をしていた。反響する声は、駿河湾に沈む声とは違う。沈まない場所を、探せる声だ。
幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、ガラスの向こうへ渡った声が戻ってくるまでの短い時間――その短さが、踏切の一拍よりも自分を支えることがあるのだと、その夜の湯気の中で、指先だけがそっと覚えていた。





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