第六章 煙がほどける方向
- 山崎行政書士事務所
- 1月31日
- 読了時間: 10分

花火の日の朝は、音より先に匂いが立つ。米が炊ける匂い。海苔の匂い。梅干しの酸っぱさ。台所の湯気がまだ薄いうちから、祖母は手を休めずに動いていた。湯気は形がないのに、家の中の空気を「今日は特別だ」に変える力がある。
「幹夫、これ持ってけ」
祖母が差し出したのは、ラップに包まれたおにぎりだった。握り目が少し硬い。硬いのは、崩れないようにするためだ。崩れないようにする、という意志は、ときどき言葉より強い。
父は納屋の前で、軽トラの荷台をもう一度だけ押していた。押して、揺れないか確かめて、押した手を引っ込める。確かめる動作はいつも通りなのに、今日は少しだけ早い。段取りが早いのは、混む前に動きたいからだ。それだけのはずなのに、幹夫(みきお)は、その早さの中に「遅れたくない」を見てしまう。
「早めに出るぞ」
父の声は短かった。短い声は、答えを要求しない。要求しないから、幹夫は「うん」と言える。言えるのに、言葉が軽くならない日がある。
軽トラで国一へ出るころ、空はまだ高い青だった。昼の青は嘘がない。嘘がないぶん、夕方の影が来るのが早い気がする。国一沿いの看板が、やけにくっきり見える。くっきり見えるものほど、あとで薄くなる。
安倍川の方へ近づくと、交通量が増え、車の速度が揃わなくなる。揃わない速度は、車内の会話を減らす。減った会話の代わりに、窓の外の匂いが入る。焼きそばの甘い焦げ、揚げ物の油、濡れた草、砂利の埃。いろんな匂いが混ざって、夏の輪郭を勝手に作る。
父は信号のたびに、ブレーキの踏み方を少しだけ変えた。止まりすぎないように、急がないように。車の揺れは、運転する人の気持ちが出る。幹夫はその揺れで、父が緊張していることだけを知った。緊張の理由までは分からない。分からないまま、分かってしまう。
駐車場に停め、堤防へ向かう道に入ると、人の流れが一気に濃くなる。子どもの手を引く親、レジャーシートを抱える高校生、クーラーボックスを引く家族。誰もが目的地を知っていて、知っている足取りは迷いが少ない。迷いが少ない群れの中にいると、自分の迷いだけが浮く。
「はぐれんなよ」
父が言った。それだけで十分だった。父の言葉はいつも少ないけれど、少ない言葉ほど“守る”の形を持つことがある。
河原に出ると、白い石が眩しかった。真昼の眩しさとは違う。夕方が近い眩しさ。白の中に、影が混ざる準備がある。準備がある白は、どこか遠い。
父は場所を決めるのが早かった。土手の少し上。川面が見えて、人の波が直接ぶつからない場所。祖母のおにぎりを広げると、海苔の匂いが一瞬だけ強くなった。その匂いは、清水の塩とは違う。外側に貼りつかず、内側へ沈む。沈む匂いは落ち着く。落ち着くから、余計なことを考えられる。
幹夫はスマホを握った。画面を点けずに、ただ握った。握ると角が掌に当たる。角の痛みは、いまここにいることを確かにする。
「……来るか」
父が、前を見たまま言った。来る、という言葉に名前は付いていない。付いていないのに、幹夫は分かった。分かった瞬間、胸の奥が少し狭くなった。
幹夫は画面を点けた。母からのメッセージは、すでに来ていた。
「着いた。人、多いね。 土手のほう、どこにいる?」
“どこにいる”という問いは、場所の話のはずなのに、幹夫には別の意味も混じって聞こえた。どこにいる。どこまで来た。どこに戻れる。答えは場所だけでいいはずなのに、場所だけでは済まない感じがする。
幹夫は短く返した。
「土手の上。白いテープの近く」
送信した瞬間、胸の奥が一度だけ沈んで、それから浮いた。沈むのは怖さ。浮くのは、段取りが進んだという安心。段取りの安心は、感情より先に来る。
しばらくして、母が現れた。人の流れの向こうから、影の中を歩いてくる。手提げ袋を両手で抱え、髪の細い毛を耳の後ろへ戻す。戻す指が丁寧すぎる。丁寧すぎる動きは、間違えたくない人の癖だ。今日も同じ癖が、風の中で揺れていた。
母が、父のほうを見た。父はすぐには見返さなかった。視線を川面に落として、落としたまま、ようやく小さく頷いた。見ると落とす、その一瞬のためらいが、父の言葉みたいだった。
「……幹夫」
母は幹夫の名前を呼んだ。人の声が多い中で、その呼び方だけは妙に聞こえる。沈まないように喉の奥で支えている声。支えている声は、遠くまで飛ばない代わりに、ちゃんと届く場所を選ぶ。
幹夫は返事をしなかった。しなかったのではなく、返事の形を探しているうちに、周りの笑い声と、屋台の呼び込みと、川の音が間に入ってしまった。
代わりに、祖母のおにぎりを一つ差し出した。言葉の代わりに、白い形。母は一瞬だけ手を止めてから、受け取った。
「……ありがとう」
ありがとうの後ろに、言えなかったものが何枚も重なっているのが分かる。分かるのに、剥がさない。剥がすと破れる気がした。
日が落ちる前、空がいちど静かになる。花火の前の静けさは、蝉が鳴く前の一拍に似ている。まだ鳴っていないのに、鳴ると分かってしまう。分かってしまうから、身体が先に身構える。
アナウンスが流れ、拍手がどこかで起こり、波みたいに広がって消える。消える拍手は軽い。軽いのに、空気だけが変わる。変わった空気の中で、幹夫は母の横顔を見た。母は空を見上げている。見上げ方が、少しだけ怖い人の見上げ方だった。期待と、怖さと、取り戻せなさが混ざった視線。
父は相変わらず、前を見たままだった。見上げないのではなく、見上げるタイミングを決められないように見えた。決められないままでも、ここにいる。そのことだけが、今日の一番の不思議だった。
最初の一発が上がったとき、空がいきなり“鳴った”。光より先に、腹に来る音。それから、遅れて光。光は大きいのに、すぐ消える。消える前の一瞬だけ、河原の白が青く染まる。青い白は、昼の白よりずっと現実味がない。
火薬の匂いが、遅れて来た。遅れて来るものがあることを、幹夫は茶の甘みで知っている。火薬の匂いも同じだった。遅れて来て、喉の奥に薄く貼りつく。貼りついた匂いは、言葉の形を邪魔する。だから花火のあと、人は一瞬だけ黙る。
母が小さく息を吸った。吸った息が、どこかで震えている気がした。震えは声にならない。声にならない震えが、いちばん素直だ。
父は、そのとき初めて空を見上げた。見上げる角度が、少しだけ遅い。遅いのに、間に合う。間に合う遅さがあることを、幹夫は知らなかった。
幹夫も、見上げた。富士を見上げるには幼すぎたころの首の痛みが、一瞬だけ戻った。けれど今日は痛みが怖くなかった。痛みの先に、光があったからだ。光は消える。でも消えるものを見るために、人は首を上げる。
何発も上がり、空が何度も鳴る。煙が溜まり、風がそれを押す。煙は白く、白いのに重い。重い白は、原稿用紙の白にも少し似ていた。まっさらではない白。何かを吸ってしまった白。
母の指が、手提げ袋の持ち手を握り直した。関節が白くなる。白くなるのは、落としたくないからだ。幹夫は一歩だけ近づき、持ち手に指先をそっと添えた。
奪わない。支えきらない。ただ、触れていることが伝わるくらいの重さで。
母は何も言わなかった。言わない代わりに、握る力がほんの少し緩んだ。緩んだことが返事みたいだった。その一瞬、花火の音が遠のいた気がした。遠のいたのではなく、耳の奥の段差が少しだけ平らになったのだと思った。
終わりの合図は、最後の大きな光の後に来る。拍手。歓声。すぐに、ざわめき。帰るためのざわめきは、来るときより早い。早い群れは、誰かの肩にぶつかっても止まらない。止まらないから、呼び声が増える。
「○○! こっち!」
誰かの名前が飛ぶ。名前は風に乗って、いちど上に跳ねてから、川の音に混じって消える。消えるのに、確かにそこにあった。幹夫はその呼び声を聞くたび、胸の奥のどこかが小さく動いた。名前は、呼ばれるだけで重さを持つ。
父が言った。
「先、行くぞ」
段取りの声。段取りの声は強い。強いから、人の流れの中でも折れない。母が小さく頷き、幹夫も頷いた。三人で、人の流れに乗る。乗る、というより、押されながら同じ方向へ運ばれる。
国一のほうへ出る道は、すでに渋滞の匂いがしていた。エンジンの熱、ブレーキの焦げ、汗、屋台の残り香。その匂いの中に、火薬の匂いがまだ残っている。残っている匂いは、楽しかったかどうかを聞かない。ただ、喉の奥に居座る。
母が、歩きながらぽつりと言った。
「……昔ね」
そこで言葉を切った。切ったところに、人の波が入り込む。入り込むと、言葉は続かない。続かない言葉ほど、続きがある。
幹夫は顔を上げずに、母の歩幅を見た。母の歩幅は小さい。小さい歩幅は、周りの速さに置いていかれそうになる。置いていかれそうになるとき、人は持ち手を強く握る。母の指がまた白くなる。
幹夫は、持ち手に添えた指先に少しだけ力を足した。支えすぎない程度。でも離れない程度。その“程度”を探す指先が、自分でも少し大人みたいに感じた。大人みたいに感じるのに、誇らしくはなかった。ただ、必要な動きだった。
父が、前を見たまま言った。
「……休むか」
休む、というのは座ることではなく、呼吸を整えることだ。人の流れの中で「休む」と言えるのは、立ち止まる勇気がある人だ。父にその勇気があることを、幹夫は初めて知った。
歩道の端、植え込みの影で三人は一度だけ止まった。止まると、周りの速さだけが際立つ。速さの中で止まるのは怖い。けれど止まった瞬間、母の肩が少し落ちた。落ちたことが、返事みたいだった。
母が、ようやく続きを言った。
「渋滞の車の中で、幹夫が寝ちゃって。 抱えたら、すごく軽くて……軽いのが、怖かった」
軽いのが怖かった。その言葉は、説明をしすぎない。しすぎないから、真ん中だけが残る。幹夫は「ごめん」とも「覚えてない」とも言えなかった。言葉がどれも違う気がした。違う言葉を置くくらいなら、置かないほうがいい。
代わりに、幹夫は持ち手に添えた指先を、ほんの少しだけ動かした。“聞いた”の合図。“ここにいる”の合図。言葉じゃない合図。
母はそれ以上言わなかった。言わなくても、火薬の匂いがまだ喉に残っている。残っているものがあると、無理に言葉で埋めなくてもいい気がする。
やがて、軽トラを停めた場所が見えた。父が鍵を鳴らし、ドアを開ける。車内の匂いが流れ出す。土と茶と機械油。火薬の匂いがその上に薄く重なる。混ざると、どちらでもない匂いになる。どちらでもない匂いは、今日という一日の匂いだ。
母はそこで立ち止まった。ここから先は一緒ではない、という境目の立ち止まり方。母は手提げ袋を抱え直して、幹夫を見た。
「……少しだけでいいって言ったのに、長くなっちゃったね」
謝る形をしているのに、謝っていない言い方。“長くなった”が、ただの事実として置かれている。事実として置かれると、受け取れる。
幹夫は、ようやく短く言えた。
「……うん。でも、大丈夫」
大丈夫、という言葉が、自分の口から出たことが少し意外だった。意外なのに、嘘じゃない感じがした。嘘じゃない感じは、言葉の正しさじゃなくて、言ったあとの沈み方で分かる。幹夫の「大丈夫」は沈まなかった。火薬の匂いに邪魔されても、沈まなかった。
母が、小さく笑った。笑い声は大きくない。でも沈まない。沈まない笑い声は、港の風の中の声と同じで、支えられている。
父が、車内から短く言った。
「……行くぞ」
段取りの声。段取りの声は、別れの言葉の代わりにもなる。
母は一歩下がって、軽く手を上げた。手を上げる動作は短い。短い動作は、余韻を残す。幹夫は手を上げなかった。上げない代わりに、目を逸らさなかった。逸らさないことが、今日の返事になった。
帰りの国一は、まだ混んでいた。テールランプの赤が、水たまりの上で増える。赤が増えると、どこまでも続くように見える。続く赤は、終わりを急がない。急がない終わりは、少しだけ優しい。
車内で、父はラジオの音量を一段下げた。いつもの動き。でも今日は、その動きが“静かにしてやる”みたいに見えた。静かにしてやる、というのは優しさの形をした段取りだ。
幹夫の喉には、まだ火薬の匂いが残っている。残っている匂いは、言葉の代わりにそこにいる。言葉が出ない夜があっても、匂いだけは残る。残った匂いは、後から原稿用紙の白を汚してくれるかもしれない。汚れた白は、白より少しだけ扱いやすい。
家に着くころ、祖母のやかんが鳴った。湯気が立ち、茶の匂いが部屋に広がる。火薬の匂いの上に、茶の匂いがゆっくり重なる。重なると、喉の奥の膜が少しだけほどける。
父が玄関で、背中越しに言った。
「幹夫」
名前だけ。語尾も理由もない。でもその呼び方は、今日一日の終わりの合図みたいに、まっすぐだった。
幹夫は短く返した。
「……いる」
その夜、机の上の原稿用紙に、幹夫は一行だけ足した。
「花火のあと、煙がほどける方向に、人は帰っていく」
書いたあと、鉛筆を置いた。窓の外で、虫が鳴いていた。蝉ではない、小さな声。夏が本気を出す前の声。
幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど火薬の匂いが消える前に、言葉じゃない返事がいくつも交差した夜のことだけは、指先がしっかり覚えていた。




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