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第十一章 フィルムの匂い

土曜日の午前中、幹夫(みきお)は机の上のビニール袋を、開けたり閉じたりしていた。写真の束は薄いのに、袋の口を開けるたび、古い紙の匂いがふわっと出る。湿り気のない甘さ。時間の色。茶の匂いとは違うのに、どこか同じように“あとから残る”匂いだった。

一枚だけ、あの花火の写真を抜き取る。角が丸い。丸くなった角は、触られた回数の分だけ正直だ。裏にある母の字を、幹夫は今日もなぞらなかった。なぞらない代わりに、指先で紙の厚みだけを確かめる。紙は薄い。薄いのに、戻せない言葉がそこに挟まっているみたいに感じる。

台所では祖母が米をといでいた。水の音が、一定に続く。一定の音は、心の中の余計な言葉を薄くする。薄くなったところへ、祖母がさらっと言う。

「今日、出かけるだら。雨、降らんけど、汗で紙ふやかすなよ」

紙、と言う。作文とも写真とも言わない紙。紙という便利な言い方が、幹夫には少しだけ助かった。便利な言葉は、重さを分けてくれる。

「うん」

幹夫は返して、写真をもう一度ビニール袋に戻した。袋の口を閉じると、匂いが閉じ込められる気がする。閉じ込めると安心するのに、閉じ込めたままにしておけないから、今日は持っていく。

居間では父がテレビをつけたまま、音量を小さくしていた。音量を下げる動作はいつもと同じなのに、今日はその動きが「気づいている」の形に見えた。気づいているのに、踏み込まない。踏み込まないことで段取りを守る。父はそういう守り方をする。

玄関で靴を履いていると、父が背中越しに言った。

「……写真か」

幹夫は一拍遅れて、短く答えた。

「……うん」

父はそれ以上言わなかった。言わない代わりに、テレビの音をもう一段下げた。言葉じゃない返事。父の返事。

「戻ったら、茶、飲め」

父の“茶”は、祖母の“茶ぁ飲め”より硬い。硬いのに、今日はその硬さが足元みたいだった。足元があると、出ていける。

しずてつの電車は、昼の熱を少しだけ遅らせて運んでいた。車内の冷房の匂い、誰かの柔軟剤、しずてつストアの袋から漏れる惣菜の匂い。生活の匂いが重なると、自分の匂いが分からなくなる。分からなくなると、少しだけ楽になる。

幹夫はリュックの上から、ビニール袋の角を指で押さえた。角が硬い。硬い角は、逃げ道を減らす。逃げ道が減ると、心臓が少しだけ速くなる。速くなるのに、走り出さないでいられる速さだった。

新静岡で降り、セノバの裏を抜け、堀のほうへ歩く。堀の水面は、空の白を落として揺れていた。揺れている白は眩しすぎない。眩しすぎないと、見ていられる。ベンチに座ると、背中の汗がシャツに貼りつく。貼りつく感じは、港の塩の膜とは違う。汗は内側のものだ、と分かってしまう。

母は、五分遅れて来た。遅れたことを謝るみたいに、歩幅が小さい。小さい歩幅は急ぎたいのに急げない人の歩き方で、幹夫はその歩き方を見た瞬間、胸の奥がきゅっと狭くなった。狭くなるのに、逃げなかった。

母は手提げ袋を両手で抱え直して、幹夫の前に立った。

「……幹夫」

名前を呼ぶ声は小さい。小さいのに、堀の水面の揺れの上をちゃんと渡ってくる。支えている声は、届く場所を選ぶ。

幹夫は一拍遅れて返した。

「うん」

その返事は沈まなかった。沈まなかったことが、今日の最初の“進んだ”だった。

母は隣に座らず、少し距離を残してベンチの端に腰を下ろした。距離は、まだ必要だった。必要な距離を置ける人の優しさに、幹夫は少しだけ息がしやすくなる。

母が手提げ袋から、クリアファイルを出した。中には原稿用紙。折り目は増えていない。増やさないように、という母の言葉どおりの角の立ち方をしている。母はそれを幹夫の膝の上にそっと置いた。湯飲みの底みたいに、音を立てずに。

「……これ、返すね。あなたのだから」

あなたの、という言い方が、少しだけ照れくさくて、でも逃げ道もなくて、幹夫は視線を原稿用紙に落とした。白い紙の上の鉛筆の灰色が、急に“自分のもの”に戻ってくる。戻ってくると、戻ってきた重さがある。

「……ありがとう」

幹夫がそう言うと、母は小さく首を振った。振り方は短くて、強くない。強くないのに「ううん」と言っている。

「……読ませてくれて、ありがとう」

読ませてくれて、という動詞は、渡すより柔らかいのに、確かに手が要る言葉だった。幹夫は返事を探して、見つからないまま、リュックの中からビニール袋を出した。

袋を出す動作は、渡す動作の手前で一度止まる。止まったまま、母の手を見る。母の手はすぐには出てこない。拒否じゃない。受け取る準備をしているだけ。

幹夫は袋を母の膝の上にそっと置いた。置いた瞬間、胸の奥が一度だけ沈んだ。沈むのに、固まらない。固まらない沈み方は、最近よく知っている。

母は袋を開け、写真を一枚取り出した。取り出した途端、古い紙の匂いが小さく立つ。母は写真の表を見て、すぐ裏を返した。裏返す動作が早い。裏にある言葉を、先に見てしまう人の動作だった。

母の視線が止まる。止まったまま、母の喉が小さく動いた。動いたのに声にならない。声にならない動きは、たいてい正直だ。

「……まだ、あったんだ」

母の声は小さかった。小さいのに沈まない。沈まないのは、喉の奥で支えているからだ。支えている声は、港の風の中の声と同じ種類だった。

母は写真の表へ戻し、しばらく見つめた。花火の光が滲んだ白。河原の白い石。夜の黒。腕の中で寝ている小さな幹夫。その隣の父。

母は、父の写っている部分を指で隠さなかった。隠さないまま、ただ見ている。見ている目が、思い出す目と、確認する目を行ったり来たりする。

「……お父さん、笑ってるね」

笑ってるね、という言葉が、痛くなかった。痛くないのに、軽くもない。ちょうど、茶の苦味のあとに来る甘みみたいな位置に落ちた。

幹夫は写真の端を見た。丸い角。触られた回数の角。自分の手の中の角と、母の指先の角が、同じ写真の上で少し違う温度を持っている気がした。

「……父ちゃん、これ、机に置いた」

幹夫がそう言うと、母は写真の裏をもう一度見た。裏の字を読む目は、さっきよりゆっくりだった。ゆっくり読む目は、言葉を置く場所を探している目だ。

母は、写真の裏の字を見つめたまま言った。

「……軽いの、怖かったって、書いてあるでしょ」

幹夫は頷いた。頷いたのに、言葉は出ない。“軽い”が怖いという矛盾が、当時の母の腕の筋肉の疲れと一緒に、写真の裏に閉じ込められている気がした。

母は写真を裏返したまま、指を止めた。

「……ね。これ、あなたに見せたこと、なかったと思う」

なかった、と思う。断定しない言い方が、救いになる。救いになるのに、同時に重い。断定しないのは、相手の中に余白を残すからだ。

幹夫は言葉を探して、見つけたのは短いものだった。

「……今、見た」

言ったあと、胸の奥が少しだけほどけた。ほどけたのは答えが出たからじゃない。言葉が往復したからだ。

母は写真をそっと袋に戻し、袋の口を閉じた。閉じると、匂いが閉じ込められる。閉じ込められると、壊れにくい。母は袋を手提げ袋に入れず、膝の上に置いたまま、堀の水面を見た。

「……作文のさ」

母が言って、少しだけ止まる。止まったところに風が入って、堀の水面が揺れた。揺れると、言葉は続きやすくなる。

「踏切の、鳴る前がいちばんうるさいって……あれ、わかる気がした」

幹夫は視線を上げなかった。上げたら、顔の中身が見えてしまう気がしたからだ。代わりに、膝の上のクリアファイルの角を指で押さえた。角が硬い。硬い角は、倒れない。

母は続けた。

「鳴っちゃえば、仕方ないのにね。 鳴る前って、止まれるから……いろいろ、考えちゃう」

“止まれる”という言葉が、踏切の一拍と、父が花火の帰りに「休むか」と言った瞬間と、重なった。止まれることは、逃げじゃなくて、選ぶことになる。選ぶことは重い。重いのに、選べるなら少しだけ安心する。

幹夫はそこで、ようやくほんの少しだけ言えた。

「……うん。止まれるの、うるさい」

うるさい、という言葉が自分の口から出たのに、変に尖らなかった。尖らなかったのは、母が先に“わかる”を置いてくれたからだ。置いてくれたものの上なら、言葉は滑らない。

母は小さく笑った。笑い声は大きくない。でも沈まない。沈まない笑い声は、清水の風に負けない声と同じ種類だった。

別れ際、母は手提げ袋を抱え直して立ち上がった。いつもの癖。でも今日は、その抱え直しが少しだけ軽く見えた。軽いのは、荷物が軽いからじゃない。腕の中の“落としたくないもの”が、少しだけ座り直したからだ、と幹夫は思った。

母は膝の上のビニール袋を持ち上げたまま言った。

「……これ、コピーしてもいい? 写真じゃなくて、裏の字。残しときたい」

残しときたい。その言い方に、もう一度胸の奥がきゅっと狭くなった。狭くなるのに、嫌ではない。嫌ではない狭さは、たぶん、通り道ができる狭さだった。

幹夫は小さく頷いた。

「……うん」

母は「ありがとう」と言って、袋を手提げ袋に入れた。袋の中で紙が一度だけ擦れて、小さく音が鳴る。その鳴り方が、約束みたいに残る。

母は歩き出して、二歩目で振り返った。

「……幹夫、今度、茶町、通ろうか。匂い、落ち着くから」

幹夫は「うん」と言った。その「うん」は、風にさらわれなかった。さらわれない声があることを、幹夫は少しずつ覚えていく。

家に戻ると、祖母のやかんが鳴く直前の気配がした。湯気が立つ前の揺れ。踏切の一拍と似ているのに、怖くない。続きが分かるからだ。

父は居間でテレビをつけたまま、音量を小さくしていた。幹夫が玄関で靴を脱ぐ音を聞いて、振り向かずに言った。

「……見せたか」

幹夫は一拍置いて答えた。

「……見せた。裏も」

父のリモコンの手が止まった。止まって、音量をもう一段下げた。言葉じゃない返事。父の返事。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、写真の角を机に置くみたいに静かだった。静かだから、壊れない。

祖母が台所から言った。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、堀の水面の揺れみたいに、静かに広がっていった。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど“渡す”よりも少し柔らかい“見せる”という動作が、写真の裏側に閉じ込められていた時間を、ほんの少しだけ現在へ連れてくることを、その夜の湯気の中で、指先がはっきり覚えていた。

 
 
 

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