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第十九章 掲示板の白

掲示板の紙は、いつも少しだけ反っている。四隅が画鋲で押さえつけられているのに、真ん中だけがわずかに浮く。浮いている部分には、廊下の湿度が溜まる。湿度が溜まると、紙は「ここにいる」を強める。誰も読まなくても、紙はそこに居座る。

その日、幹夫(みきお)は下駄箱の前で靴紐を結び直した。紐の端が指先で滑って、何度も同じ場所を擦る。擦ると、指の腹が熱くなる。熱くなると、今朝の自分がちゃんとここに来たことだけは確かになる。

廊下のワックスの匂いが薄く残っていた。面談の日の匂い。匂いはもう終わったはずなのに、終わったものほど、遅れて戻ってくる。

教室へ向かう途中、掲示板の前に人だかりができていた。それは大きな群れではなく、肩がぶつからない程度の距離を保った小さな固まりで、固まり方が妙に真剣だった。真剣な固まりは、誰かの名前を待っている固まりに見えた。

幹夫は、すぐ近づけなかった。近づけば読める。読めば確定する。確定すると、戻れない。戻れないことが怖いというより、戻れないことが「当たり前」になってしまうのが怖かった。

人の間から、俊が振り向いた。

「幹夫、これ」

俊は指で紙の一箇所を叩く。叩く音は小さいのに、幹夫の胸の奥では大きかった。紙の上には、太字で書かれていた。

「校内文章コンクール 入選者」

その下に、学年ごとの名前が並んでいる。並んでいる名前は、どれも同じ大きさの文字で、同じ黒で、同じ行間で――なのに、見え方だけが違う。自分に関係のない名前は文字でしかない。関係のある名前は、紙から立ち上がってくる。

幹夫の名前があった。「幹夫」苗字も、クラスも、全部書いてある。紙の上にある自分の名前は、いつもの自分よりずっと薄いのに、薄いまま勝手に前へ出る。前へ出る名前は、ひとりで歩けてしまう。歩けてしまうから、置いていかれる感じがした。

「お前じゃん」

俊が笑った。笑い声は軽い。軽いから、教室の匂いにすぐ溶ける。でも「お前じゃん」という言葉だけは、幹夫の胸に残った。お前、という呼び方が、急に現実になる呼び方だった。

幹夫は返事をしなかった。しなかったのではなく、返事の形を探しているうちに、廊下のざわめきが間に入ってしまった。代わりに、紙の端を見た。反っている。湿度を吸っている。画鋲の赤い頭が四つ、紙を止めている。赤は小さいのに、目に刺さる。刺さると、「止められている」感じがした。自分の名前も、ここに止められている。

俊が言った。

「先生、呼んでたぞ。朝」

幹夫は頷いた。頷いたことが自分でも分かる程度の小さな動き。小さい動きでも、今日は「受け取った」の形になった。

担任は職員室の前で幹夫を待っていた。廊下の光が、先生の肩に薄く当たっている。午後の光は、人の輪郭をはっきりさせる。はっきりする輪郭は、逃げ道を減らす。

「おめでとう」

先生は声を大きくしなかった。大きくしない褒め言葉は、逃げ場を残してくれる。幹夫は「ありがとうございます」と言えなくて、口の中で一度だけ舌を噛みそうになった。

先生は続けた。

「来週、朝礼で表彰がある。名前、呼ぶけど……大丈夫?」

“名前、呼ぶ”という言い方が、幹夫の胸の奥をきゅっと縮めた。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方は、最近よく知っている縮み方だ。怖いのに、倒れない縮み方。

「……はい」

出た声は短かった。短いのに、嘘じゃない短さだった。

先生は書類の束から一枚抜いて、幹夫に見せた。賞状の下書き。紙の上に、自分の名前がもう一度ある。今度は、活字じゃなくて手書きで書かれている。手書きの名前は、誰かの手の温度を含んでいる。温度を含んだ文字は、見られると痛い。痛いのに、少しだけ嬉しい。

「文章、また書けたら持ってきて」

先生はそう言った。命令じゃない。期待でもないふりをしている。でも“次がある”前提の言葉だった。次がある前提の言葉は、世界を少しだけ前へ押す。

幹夫は頷いて、職員室を出た。廊下のワックスの匂いが、今日は少しだけ薄い。薄いのに、消えない。

放課後、帰り道の空はまだ明るかった。終わりを言い切らない明るさ。それでも影だけが先に伸びる。午後四時台の影は、足だけを早くする。

しずてつの踏切が鳴る前の一拍が来た。止まれる時間。止まれるから考えてしまう時間。でも今日は、その一拍が短く感じた。短いのではなく、こちらが身構えるのが遅れた。遅れたのに、転ばない。転ばないことが、少し不思議だった。

踏切を渡り終えるとき、幹夫は自分の名前の黒を思い出した。掲示板に並んだ黒。均一な黒。均一な黒なのに、ひとつだけ、胸の奥を動かす黒。

“名前が外に出る”というのは、紙が外に出るのと似ている。出したら戻らない。戻らないのに、戻らないからこそ、呼吸が落ち着く場所もある。それがどこなのかは、まだ分からない。

家に着くと、祖母のやかんが鳴く直前の気配がした。湯気が立つ前の揺れ。踏切の一拍と似ているのに、ここでは怖くない。続きが分かるからだ。湯が沸き、茶が淹れられ、苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがある、という順番は、今日も助けだった。

「おかえり」

祖母の声。幹夫は「ただいま」と返して、鞄を置いた。置いた鞄の底が畳に触れて、小さく鳴る。その音が、職員室で先生が紙を揃えた音と同じ種類に聞こえて、幹夫は一瞬だけ肩をすくめた。

納屋のほうから麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている。土と機械油と茶の青さが混ざった匂い。混ざった匂いは、どこにも属さないのに、ここだけの匂いだった。

幹夫は納屋の入口で一度止まり、息を整えるふりをした。ふりでもいい。ふりをすると、口が動きやすくなる。

「……父ちゃん」

父は振り向かずに「ん」と返した。短い返事。短い返事は、続きを待つ返事だ。

幹夫は言った。

「……掲示板。名前、出た」

言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方は、「言ってしまった」の形だった。

父の手が、茶袋の上で一瞬止まった。止まった時間は短い。短いのに、わざと作った間に見える。父は茶袋の角を押し、ずれないか確かめるように指を動かした。確かめる動作が、返事の代わりになる。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、いつもの段取りの「そうか」ではなく、少しだけ息が混ざっていた。息が混ざると、言葉は人になる。

幹夫は続けて言った。

「……来週、朝礼で呼ばれるって」

父は頷かなかった。けれど否定もしなかった。麻ひもを引いて結び目を作る。結び目ができると、段取りが一つ終わる。終わると、次の言葉が入りやすくなることがある。

父は前を見たまま、ぽつりと言った。

「……暑いぞ。水、飲め」

水。褒め言葉でも励ましでもない。でもそれは、父が“その日”の前に置ける、いちばん壊れにくい言葉だった。壊れにくい言葉は、受け取れる。

「……うん」

幹夫は短く返した。返した声は小さいのに、沈まなかった。

夜、スマホが震えた。母からだった。

「先生から連絡きた。入選、おめでとう。 掲示板に名前、出たんだってね」

“連絡きた”という言い方が、少しだけくすぐったい。世界が勝手に繋がっている感じがする。繋がると、安心と怖さが同時に来る。

幹夫は返信欄を開き、短く打った。

「うん。来週、呼ばれる」

送信して、画面を伏せる。暗い画面に映る自分の目は、朝より少しだけ「呼ばれる準備」をしている目をしていた。準備というのは、答えを持つことではなく、呼ばれたときに倒れない足場を作ることなのかもしれない。

台所から祖母の声が飛ぶ。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、掲示板の黒い文字の残り方に少し似ていた。見た瞬間には何も変わらないのに、帰り道になって、湯気の中で、ようやく胸の奥に効いてくる。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、名前が紙の上でひとり歩きしてしまう日――その歩幅に合わせて自分の足も少しだけ前へ出てしまうことがあるのだと、茶の香る夜の静けさの中で、指先だけが確かに覚えていた。

 
 
 

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