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第十五章 缶の言葉

缶は、冷たいままがいちばん正直だ。手のひらに乗せた瞬間、金属は体温を奪う。奪うくせに、逃げない。逃げない冷たさは、言葉の代わりになれる顔をしている。

面談の翌朝、幹夫(みきお)は起きてすぐ机の端を見た。面談の控えの紙は二つ折りのまま、鞄の横に置かれている。赤い印が、折り目の内側に隠れているのが分かる。隠れているのに、あると分かる。分かってしまうものは、見なくても重い。

台所では祖母が湯を沸かしていた。やかんの鳴く前の、ほんの小さな気配。湯気が立つ前に、茶の匂いだけが先に来る。茶の匂いは内側へ沈む匂いで、昨日のワックスの匂いとは違う。違うから、息がひとつ深くなる。

祖母が湯飲みを畳に置いた。底が小さく鳴る。

「昨日、先生、なんか言ったかね」

なんか、という言葉が雑で、雑だから助かった。幹夫は湯飲みを両手で包んでから答えた。

「……作文、いいって」

祖母は「ほぉ」とだけ言って、湯を足した。足された湯は、続きを求めない。求めないから、言葉がそこで終われる。

居間のほうで、テレビの音が一段小さくなった。父がリモコンで音量を下げたのだと分かる。父は何も言わないまま、茶を啜る。啜る音が小さい。小さい音は、家の中で長く残る。

幹夫は制服の袖口を引っ張り、指先で確かめた。塩のざらつきはもうない。でも、洗って消えたものの痕だけが、布の中に残っている感じがした。消えた痕は、たいてい消えたことのほうを強く教える。

学校へ行く道で、しずてつの踏切が鳴った。鳴る前の一拍は、いつも通り来た。来たのに、昨日ほどはうるさくなかった。うるさくないのは、慣れたからじゃない。昨日、面談室の椅子に座ってしまったからだ。座ってしまうと、止まる場所が少しだけ増える。増えると、踏切の一拍が全部を引き受けなくてよくなる。

教室は朝から暑かった。窓は開いているのに風はぬるい。ぬるい風は、季節が“本気を出す前”の顔をしている。誰かの制汗剤の匂いと、弁当箱の匂いと、消しゴムのゴムの匂いが混ざる。混ざる匂いは、言葉を薄くする。

二時間目の終わり、休み時間にスマホが震えた。ポケットの中で、短く一回。短い振動は心臓を驚かせる。驚かせるくせに、画面を点ける指は止まらない。

母からだった。

「昨日、ありがとう。 缶のお茶、助かった。 お父さんにも、ありがとうって伝えてくれる?」

“伝えて”という言葉が、画面の上で光った。光る文字は軽い。軽いのに、胸の奥へ落ちると重い。伝える、というのは、ただ言葉を運ぶだけじゃない。運ぶ途中で、言葉に体温がついてしまう。体温がついた言葉は、相手の前で勝手に形を変える。

幹夫は返信欄を開き、短く打った。

「うん」

送信して、スマホを伏せた。暗い画面に映る自分の眉が、少しだけ硬い。硬い眉は、言葉を抱えている眉だ。

“伝える”は、面談の紙より小さい行為のはずなのに、なぜか同じ種類の重さを持っていた。印鑑の赤ほど派手じゃない。でも、声にした瞬間に消えない重さ。

幹夫は授業中、黒板を見ながら、頭の中で言葉を並べた。母さんが、ありがとうって。昨日の缶のお茶、助かったって。それだけでいい。それだけでいいのに、並べた言葉が喉の手前で渋滞する。渋滞は、国一だけじゃなく、喉にも起きる。

放課後、空の色が少しだけ落ち着いて見えた。夕方が近いのに、まだ明るい。午後四時台の明るさは、終わりを言い切らない顔をしている。言い切らない顔のまま、影だけが先に伸びる。

帰り道の土手の上で、幹夫は一度立ち止まった。安倍川の白い河原が遠くに見える。水面は、夏の途中の光を小さく跳ね返す。跳ね返す光は、見ているだけで目の奥が少し痛い。痛いのに、見てしまう。

“伝える”という言葉が、胸の奥でまた動いた。動くたびに、父の横顔が浮かぶ。缶を窓枠に置いたときの、あの静かな置き方。「暑いから」と言った声。言い訳みたいに見えるのに、言い訳じゃないところまで届いてしまう声。

家に着くと、納屋のほうから麻ひもの擦れる音がした。父が茶袋の口を縛っている。土の匂いと機械油の匂いと、茶の青さが混ざった匂い。混ざった匂いは、どこにも属さないのに、ここだけの匂いだった。

幹夫は納屋の入口で、いったん足を止めた。止めると、言葉が少しだけ整う気がする。整ったような気がするだけで、実際は整っていない。けれど、整った“ふり”でも、口は動かしやすくなる。

「……父ちゃん」

呼んだ声が、自分でも少し意外なくらいまっすぐ出た。父は振り向かずに「ん」と返した。返し方が短い。短い返事は、こちらの言葉を待つ返事だ。

幹夫は、喉の手前の渋滞を一度だけ押し分けた。

「……昨日の、缶。母さんが、ありがとうって」

言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。縮むのに、固まらない。固まらない縮み方は、最近よく知っている縮み方だ。

父の手が、茶袋の上で一瞬止まった。止まったのに、落ちない。止まり方が短いほど、その止まり方は目立つ。

父は茶袋の角を押して、中身がずれないか確かめるように指を動かした。確かめる動作が、返事の代わりになっている。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、面談のときの「そうか」と同じじゃなかった。少しだけ、息が混ざっている。息が混ざると、言葉は人になる。

幹夫は続けるべきか迷って、続けなかった。続ける言葉がないのではなく、続ける場所がまだ整っていない。整っていない場所に言葉を置くと、言葉が倒れる。倒れた言葉は、拾うときに余計な形になる。

父はもう一度だけ茶袋を押し、麻ひもを引いて結び目を作った。結び目ができると、段取りが一つ終わる。終わると、次の言葉が入りやすくなることがある。

父は前を見たまま、ぽつりと言った。

「……缶、冷たかっただろ」

誰に、とは言わない。でも幹夫には分かった。母が手にした瞬間の冷たさ。結露が指に付く感じ。幹夫は短く返した。

「……うん。冷たかったと思う」

父は「そうか」とも言わず、代わりに納屋の棚の端を指で拭った。拭った指先に、茶の粉が少し付く。付いた粉は、払えば落ちる。落ちるのに、払う動作には丁寧さがいる。

父はそのまま、言葉を増やさなかった。増やさないことが、今日の父の限界で、今日の父の誠実さにも見えた。

幹夫も、言葉を増やさなかった。増やさないまま、伝えたことだけは確かに残った。残るのは、言葉が短いからだ。

夜、机に向かうと、原稿用紙を入れていたクリアファイルがそこにあった。紙は戻ってきている。戻ってきた紙は、前より少しだけ落ち着いた顔をしている。落ち着いた顔は、家の匂いを吸った顔だ。

幹夫は鉛筆を持ち、升目の端に短い一行を書いた。

「冷たい缶は、言葉の代わりに置かれる」

書いたあと、消しゴムを取らなかった。整っているかどうかは分からない。でも今日は、整っていないままでも置いていい気がした。置いてみないと、分からないことがある。

スマホが震えた。母から。

「伝えてくれた? ありがとう」

幹夫は返信欄を開いて、短く打った。

「伝えた」

それだけ。送信して、画面を伏せる。暗い画面に映る自分の目は、昨日より少しだけ「橋」の目をしていた。橋の目は、両岸を同時に見てしまう目だ。見てしまうから、重い。重いのに、今日はその重さで沈まなかった。

台所から祖母の声が飛んだ。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、さっき納屋で言った「ありがとう」の残り方に少し似ていた。言った瞬間には何も変わらないのに、あとからじわっと効いてくる。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、誰かの「ありがとう」を運ぶとき、言葉は軽いままではいられないこと――そして、その重さは茶畑の土ほど黙っていても、ちゃんと手のひらに残ることを、その夜の湯気の向こうで、指先だけがそっと覚えていた。

 
 
 

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