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第十八章 消印の青

封筒は、押された赤が二つになっただけで、少しだけ「外へ行く顔」をした。昨日までは、家の匂いを吸った紙だった。朱肉の匂いと茶の匂いが混ざった、どこにも属さない匂い。でも赤が二つ並ぶと、紙はもう家の中に置いておけない。置いておけないものは、鞄の底でじっとしているふりをしながら、こちらの呼吸のほうを変えてくる。

朝、幹夫(みきお)は鞄のファスナーを閉める前に、封筒の角を指の腹で一度だけ確かめた。硬い。硬い角は、逃げ道を減らす。減った逃げ道のぶん、足が前へ出る。

台所では祖母が湯を足していた。やかんが鳴く前の気配が、畳の目を少しだけ動かす。湯気が立つ前に、茶の匂いが先に沈む。沈む匂いは、胸の中の段差をなだらかにする。

「紙、出すだら」

祖母の声は、生活の匂いがする。幹夫は「うん」と返して、湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残るものがあると知っているだけで、今日の封筒もいったん胸の奥へ沈んでくれる。

父は新聞を折って、箸を置いたまま立ち上がった。畑へ出る段取りの背中。背中越しに、短く言う。

「……忘れんなよ」

それだけ。でも「忘れんなよ」は、封筒に対して言っているのに、封筒だけじゃないものにも聞こえた。幹夫は「うん」と返した。返した声は小さいのに、沈まなかった。

学校へ向かう道で、しずてつの踏切が鳴る前の一拍を作った。遮断機が下りる前の、止まれる時間。止まれるから考えてしまう。考えるからうるさくなる。でも今日は、その一拍が少し短く感じた。短いのではなく、こちらが身構えるのが遅れた。遅れたのに、転ばない。

電車が通り過ぎる窓の中に、買い物袋と制服の袖口と、スマホの光。生活はいつも通りに流れていく。いつも通りのものは、こちらに答えを要求しない。要求しないぶん、こちらの中の「答え不足」だけが浮くはずなのに――今日は浮き方が少し違った。鞄の底の封筒が、答えではなく「順番」を持っている気がしたからだ。

教室に着くと、扇風機が首を振っていた。一定の音。一定の音は、余計な言葉を薄くする。薄くなったところへ、先生が出席簿を机に置く音が重なる。紙と紙が触れる音は、軽いのに、集まると重い。

放課後、幹夫は封筒を持って職員室へ向かった。廊下のワックスの匂いがまだ薄く残っている。面談の日の匂い。匂いはもう「終わった」のはずなのに、匂いだけが「覚えてる」を続けてくる。

職員室の扉を開けると、空気が少し冷たかった。冷たさは冷房の冷たさで、冷房の冷たさは、言葉を短くする。短くしないと、息がついていけない。

「先生」

幹夫が言うと、担任は顔を上げて、すぐ分かったように頷いた。

「お、持ってきた? ありがとう」

幹夫は封筒を両手で差し出した。両手で差し出すと、渡すというより「置く」に近くなる。置くと、逃げない。逃げないぶん、現実になる。

先生は封筒を受け取り、その場で中を確かめた。指先が紙をなぞる音。赤い印が二つ並んでいるのを確認して、先生は小さく息を吐いた。

「うん、揃ってる。助かったよ」

“助かった”という言葉が、思ったより胸に落ちた。助かったのは先生の段取りのはずなのに、幹夫の胸の奥の何かも一緒に助かった気がした。段取りが終わると、呼吸が戻る。

先生は封筒の表に、青いインクの受領印を押した。「ぽん」と小さく鳴る。朱肉の「ぽん」と違って、匂いが立たない。匂いが立たないぶん、音だけが裸で残る。

青い印は、赤い印とは違う顔をしていた。赤は家の中の決断の色。青は、外へ渡るときの確認の色。色が変わると、紙の行き先も変わる。行き先が変わると、こちらの役目も一段だけ変わる。

「これで応募も出せる。作文のほうもね」

先生がそう言って、別の紙束を指で揃えた。揃えられる紙の角が、まっすぐ揃っていく。まっすぐにされると、もう戻れない。戻れないのに、そのまっすぐさが頼もしい。

幹夫は「お願いします」と言うべきだったのかもしれない。でも口から出たのは、もう少し短い音だった。

「……はい」

短い「はい」は、丁寧じゃないのに、嘘でもない。嘘じゃない短さは、今の幹夫にはちょうどよかった。

職員室を出ると、廊下の空気が少しぬるかった。ぬるいのは夏が本気を出す前のぬるさで、ぬるい風は、まだ蝉がためらっている匂いがする。窓の向こうに、遠くの山影。そこに富士の気配がある気がして、幹夫は見上げなかった。見上げると、首の痛みが胸の奥まで連れてきそうだったからだ。

校門を出ると、夕方の光が足元から伸び始めていた。午後四時台の影は、終わりを言い切らない顔をしているのに、歩幅だけを早くする。歩幅が早くなると、家に帰ってしまう。帰ってしまうと、また生活が始まる。

その途中、スマホが短く震えた。母からだった。

「同意書、どうだった? ちゃんと出せた?」

“ちゃんと”という言葉は、優しい形をしているのに、少しだけ胸に刺さる。ちゃんと、は失敗の可能性を先に抱えている言葉だからだ。幹夫は画面を見つめて、短く打った。

「出した。青い印、押された」

送信したあと、スマホを伏せる。暗い画面に映る自分の目が、少しだけ落ち着いて見えた。落ち着いて見えるのは、封筒がもう鞄の底にいないからだ。いない場所が、ふと軽い。

すぐに返信が来た。

「よかった。ありがとう。 …青い印って、なんか安心するね」

安心するね、という言い方に、幹夫は少しだけ笑いそうになった。朱肉の赤が怖いわけじゃない。でも赤は、胸の中を動かす色で、青は、外側に置ける色だ。外側に置けると、人は息ができる。

幹夫は「うん」とだけ返した。その「うん」は沈まなかった。

家に着くと、祖母のやかんが鳴った。湯気が立ち、茶の匂いが部屋の天井へ広がる。今日の茶の匂いは、朱肉の匂いに勝つというより、朱肉の匂いが来る前からそこにあって、最初から勝っている匂いだった。

父は居間でテレビをつけたまま、音量を一段下げた。振り向かずに言う。

「……出したか」

幹夫は一拍置いて答えた。

「……出した。青い印、押された」

父のリモコンの手が止まった。止まって、また動く。音量がもう一段だけ下がる。言葉じゃない返事。父の返事。

「……そうか」

それだけ。でもその「そうか」は、今日の青い印みたいに、匂いを立てずに安心だけを残す言い方だった。

台所から祖母の声が飛ぶ。

「茶ぁ飲め。冷めんうちに」

幹夫は湯飲みを両手で包んだ。苦味が先に来て、遅れて甘みが残る。遅れて残る甘みは、今日の「ぽん」という青い音の残り方に少し似ていた。音が鳴った瞬間には何も変わらないのに、あとからじわっと効いてくる。

幹夫少年は、まだ世界の重さを知らなかった。けれど、赤い印が二つ並んだ紙が、青い印をひとつもらって外へ出ていった日――自分の役目が「橋」から「道」へ少しだけ変わる音を、誰にも聞かれない場所で、指先だけが確かに聞いてしまった。

 
 
 

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