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米よりも重いもの

江戸城の廊下は、冬になると音が鋭くなる。畳の上をすべる足袋の擦過が、まるで刃を研ぐ音のように響き、障子の向こうに見える庭の白さが、清らかさではなく、むしろ「見えない血」を連想させる。白は、いつだって何かを隠している。

私はその廊下を、幾度となく歩いてきた。田沼意次——その名は、もはや私自身の体温よりも先に、江戸の空気に染みついていた。人は私を「商いの政」と呼び、ある者は「賄賂の政」と呼ぶ。言葉の違いは、結局は匂いの違いに過ぎない。どちらも、銭の匂いだ。

銭の匂いは甘い。甘い匂いは、よく燃える。

夜更け、屋敷の書院で墨を磨ると、闇がいっそう濃くなる。闇は、目を奪う代わりに嗅覚を鋭くする。墨の匂いが鼻孔に刺さるとき、私はいつも思う。政治とは、刀ではなく墨で人を斬る仕事だと。刀は肉を裂き、墨は未来を裂く。未来が裂ければ、血は遅れて流れる。

硯のそばに、小さな桐箱が置かれていた。箱の中には、金銀の小判ではない。商人が差し出した、ただの「包み」が入っている。包みは重い。だが重いのは中身ではなく、「受け取った」という事実のほうだ。事実は、いつも人間の骨格を変える。

——受け取らねば、動かぬ。——受け取れば、汚れる。

この国は、清潔では動かない。私はそれを、あまりに早く知ってしまった。

障子がわずかに鳴り、息の若い気配が入ってくる。意知——我が子だ。父を父として見ながら、同時に父の影を越えようとする目を持っている。若い目は、勝利を信じる。勝利を信じられる者は、まだ「敗北の匂い」を知らない。

「父上、遅うまで」

意知は、襟元を正しながら言った。その所作が美しかった。美しい所作は、時に不幸の前触れになる。美は、あまりに整いすぎると、破壊を呼び寄せる。

「寝ぬのか」

「城内の件が……。明日、評定が」

私は筆を置き、意知の顔を見た。頬がまだ柔らかい。だがその柔らかさの裏に、野心の骨が透けている。野心は若いうちは骨格を与える。骨格がある男は、立っているだけで人を従わせる。だが骨格だけで立つ者は、折れるときも早い。

「意知」

私は呼んだ。呼ぶとき、なぜか喉が乾いた。父の言葉は、しばしば命令の顔をして、祈りを隠している。

「お前は、銭が嫌いか」

意知は一瞬、目を伏せた。その伏せ方に、城という生き物への警戒が混じった。江戸城は耳がある。耳は、忠義よりも噂を好む。

「嫌いではございませぬ。しかし……」

「しかし、何だ」

「武門の者が、銭で動くと笑われます」

私は思わず笑った。笑いは乾いていた。乾いた笑いは、内側で腐りかけた果実の匂いを立てる。

「笑われるのは昔だ。今は米が余っても腹は満たされぬ。米は蔵に積めても、市は動かぬ。市が動かねば、刀も錆びる」

意知の目が、わずかに熱を帯びた。理解したのではない。納得したのだ。納得は危険だ。納得すると、人は自分の正しさを信じ始める。正しさは、刀よりも人を殺す。

「父上は……」

意知が言いかけて、止めた。止めた言葉は、たぶん「清いのか」という問いだったのだろう。私はその問いを許したくなかった。清さなど、政治に似合わぬ。清い者は、いずれ火に魅せられて燃える。燃える者は、美しい。美しい死は、民を救わない。

「清いかどうかは、死んだあとに人が決める。生きている間は、ただ臭うだけだ」

私はそう言って、桐箱を指先で撫でた。木肌が冷たかった。冷たさは現実だ。現実は、いつも美しくない。

意知は唇を噛み、やがて言った。

「父上、敵が増えております。佐野など……」

その名が出た瞬間、部屋の空気が薄くなった。薄い空気は、危険の匂いを持っている。私は、佐野政言の目を思い出した。あの目には、金も米も映っていない。ただ「屈辱」だけが映っていた。屈辱は、火薬より燃えやすい。

「佐野は、刃だ」

私は言った。

「刃は、研がれすぎると勝手に走る」

意知は何か言い返したかっただろう。だが言い返せば、若さが露わになる。若さを露わにすることは、城内では裸になるのと同じだ。彼は黙った。

私は、最後に一つだけ言った。

「明日、廊下で背を見せるな。背中は、狙われる」

意知は笑った。若い者の笑いは、まだ自分の死を想像できない笑いだ。

「父上、私は武士でございます」

その言葉が、なぜか胸を刺した。武士——その二文字は、この国の呪いであり、同時に美の別名でもある。武士の死は、いつも美しく語られる。語られる美しさが、現実の血を薄めてしまう。

私は何も言えなかった。言えなかったことが、後で私を殺すと、そのときは知らなかった。

翌日、江戸城の廊下は、いつもより明るかった。明るさは、危険の色だ。暗い闇は人を隠すが、明るい闇は人を晒す。城の明るさは、処刑台の明るさに似ている。

私は評定へ向かう途中で、意知の姿を見た。背筋が真っ直ぐで、歩幅が大きい。大きい歩幅は、未来へ踏み出す歩幅だ。未来へ踏み出す者は、足元を見ない。足元を見ない者は、躓く。

一瞬、私は声をかけようとした。やめた。父が子を案じる声は、城内では弱さとして扱われる。弱さを見せた瞬間、噂が生まれる。噂は人を殺す。噂は刀より長い。

そのときだった。

乾いた音がした。畳が鳴る音ではない。衣が裂ける音でもない。肉が現実になる音だ。

人がざわめき、誰かが叫び、白い袖が宙に舞った。意知が、膝をついていた。彼の口から、赤が出ていた。赤は、あまりに鮮やかで、かえって現実味がなかった。赤はいつでも美しい。美しいからこそ、世界は残酷だ。

佐野政言が、刀を握っていた。その刀は、まるで彼の屈辱の延長のように見えた。屈辱が鋼になった姿だ。鋼になった屈辱は、正義の顔をしている。正義は、いつでも人を熱狂させる。

私は足が動かなかった。動かなかったのは、恐怖ではない。驚愕でもない。私はその瞬間、理解したのだ。——この城は、銭の匂いではなく、血の匂いで動く。——血の匂いを消すために、銭の匂いが必要だったのだと。

意知がこちらを見た。目が、まだ澄んでいた。澄んだ目が、父に言いたいことを言えぬまま、濁りかける。濁りかける目は、人間の最期の美だ。

私は、近寄れなかった。近寄れば、父になってしまう。父になれば、私は政治を失う。政治を失えば、意知の死は無駄になる。無駄にしたくない——その冷たい計算が、私の膝を固めた。

私は、心の中で祈った。祈りは言葉ではない。祈りは、自分の卑しさを認めることだ。

「生きろ」とは、言えなかった。彼はもう、そこから先へ生きられないことを、父より先に知っていたからだ。

屋敷へ戻ると、匂いが変わっていた。同じ屋敷なのに、柱の木の匂いが、妙に湿って感じられる。湿りは涙の匂いだ。だが私は泣かなかった。泣けば、父の肉が出る。父の肉が出れば、政治の肉が腐る。

客が来た。「お悔やみ」「残念」「お気の毒」

言葉はどれも薄い。薄い言葉は、安全な距離から投げられる。私は礼を返し、微笑み、酒を注がせた。酒の匂いは、血の匂いを薄める。薄めるために、酒はある。

夜、ひとりになると、私は初めて手を見た。自分の手が、汚れているように見えた。汚れは目に見えないのに、見える。見える汚れほど厄介なものはない。

私は机の引き出しを開け、あの桐箱を取り出した。包みは、まだそこにある。だが包みの重さが変わっていた。軽くなったのではない。重くなったのだ。重くなったのは、私の中に「死体」がひとつ増えたからだ。死体は場所を取る。場所を取る死体は、心臓の部屋を狭くする。

私は包みを取り出し、紙を解いた。中にあったのは、金ではない。江戸の絹、上質の反物だった。美しい布だ。美しい布は、死者の顔を覆うのにちょうどいい。

私はその布を見て、吐き気がした。吐き気は、罪の反射だ。罪が反射すると、身体が正直になる。身体が正直になると、人間は政治の仮面を保てない。

私は布を畳み直し、元に戻した。戻すという行為は、忘れるという行為に似ている。忘れることは救いだ。だが救いは、往々にして次の罪の準備になる。

それから、凶作が来た。天は、政治の理屈に興味がない。田の上に陽が照らなければ、米は実らない。米が実らなければ、どれほど銭が巡っても、人は餓える。餓えは、もっとも正直な批評だ。

人々は言った。田沼が悪い。田沼が銭で国を汚した。田沼が商人を太らせた。田沼が賄賂を受け取った。

私は、その声を聞きながら、ふと笑いそうになった。人は、飢えると道徳を欲しがる。道徳は米ではないのに、米の代わりに噛みしめたがる。噛みしめられた道徳は、固くなり、最後には刃になる。

私は権勢を失い始めた。権勢というものは、実は薄い膜だ。膜は光る。光る膜は美しい。美しい膜は、針一本で破れる。

将軍家治が亡くなったとき、風向きは決定的に変わった。人は主を失うと、すぐに「清さ」を探す。清さは新しい主の顔になる。私は清い主の顔ではない。私は、匂う主の顔だ。

やがて、命が下った。退くように、と。

退く。退くという言葉は、敗北に似ている。だが、敗北は時に救いでもある。勝ち続ければ、私はいずれ自分の中の火に酔って、江戸を焼いていたかもしれない。火に酔う者は、英雄になれる。英雄は美しい。美しい英雄は、いつだって誰かの血を必要とする。

私は英雄になり損ねた。それが今、奇妙にありがたかった。

晩年、屋敷の庭で、私は米粒を掌に載せて眺めた。一粒の米は、軽い。軽いが、命を支える。金は重い。重いが、腹を満たさない。

私はようやく悟った。私がやってきたことは、米を金に換えることではなかった。金で米の価値を測り直し、武士の古い誇りを現実に合わせることだった。しかし現実は、最後には必ず「米」でこちらを叩く。米は、政治より強い。

風が吹き、庭の落葉が擦れた。その擦れ音が、あの廊下の乾いた音に似ていた。私は思わず目を閉じた。閉じた目の奥に、意知の澄んだ目が浮かぶ。

——あの子は、私の改革の犠牲になったのか。——それとも、改革そのものが、最初から死を孕んでいたのか。

答えは出ない。政治とは、答えが出ないまま責任だけが残る仕事だ。

私は掌の米粒を、そっと口に入れた。噛むと、わずかに甘い。甘さは、涙に似ている。私はその甘さで、ようやく一瞬だけ泣けた気がした。泣いたのではない。泣けた気がしただけだ。それでも十分だった。

意次という男は、たしかに汚れていた。だが汚れた者だけが、時代の泥の中を歩ける。泥の中を歩く者の背中は、美しくない。美しくない背中の先にしか、燃え残る町はない。

風がまた吹き、落葉が動いた。私は米の残る味を喉に感じながら、ただその音を聞いていた。音は、批判でも称賛でもない。ただ、私が生き延びてしまったという事実の、薄い証拠だった。

 
 
 

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