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緑走る台地 ~帰郷~

第一章 沈黙する離れ

 翌朝の灰色の空。 幹夫は父の病室を出て、離れの縁側でひとり考え込んでいた。薄日が差し込む庭には、かつて遠くに見えた茶畑の鮮やかな緑はもうない。どこか淀んだ風だけが通りすぎてゆく。 (父さんの容態は、すぐにどうこうではない……少しずつ衰えている。でも東京に戻るには、ここに残していく不安が大きすぎる。どうしたら……) じりじりと思考が空回りする中、ふと視界に入ったのは離れの梁に打ちつけられた古い釘。かつて風鈴を吊るすための名残だろうか。一瞬、東京の下宿で過ごした夜々が脳裏をかすめ、幹夫の胸がかき乱される。 「風鈴がここにもあったら、少しは気が晴れるだろうか……」 そんな考えが頭をよぎるが、すぐにかぶりを振る。いま、自分にできるのは父の力になることと、東京の仲間を裏切らずに済む道を模索すること。風鈴を想うのはむしろ甘えかもしれない。

第二章 父の決断

 午前、幹夫が父の容態を確認しようと病室に入ると、そこには床に起き上がった父・明義の姿があった。まだ顔色は優れないが、なんとか動けるようだ。 「父さん、横になってなくていいの? 無理は禁物だって医者が……」 幹夫が駆け寄ると、父は微かに笑みを浮かべ、 「大丈夫だ。おまえが来てくれたおかげで、気力が戻りつつある。……それより、実は俺も黙ってはいられないことがある」 父がか細い声で語ったのは、茶畑を手放した農民が新町役場や軍部に取り込まれているという事実だった。補償金を得て一時的に潤う者もいるが、何の見通しもなく金を散在してしまい、再び困窮するケースが多いらしい。 「このままでは町は衰退の一途だ。……どうにか立ち直る道を探さねば。おまえにも、東京で得た知識を役立ててもらいたいが……」 幹夫はぎゅっと拳を握る。東京では堀内や山岸のように、危うい綱渡りの中でビラ活動を支えてきたが、ここ静岡でも同じように何かの踏み止まりが必要なのかもしれない。

第三章 母の気遣い

 父の病室を出ると、廊下ですれ違った母が手招きして奥の台所へ幹夫を連れて行く。 「幹夫、あんたに頼みがあるの。お父さんの容態が落ち着いたら、いったん東京へ戻ってほしいと思ってるんだよ……」 幹夫は目を丸くする。父を看病するために呼んだのではないのか。 「父さんの容態を見極めるのが先決じゃ……」 母は溜め息まじりに首を横に振る。 「もちろん看病はしてほしい。でもね、お父さんはあんたが無理にここに留まることをきっとよしとしない。東京での仕事や仲間が大事だって、知ってるんだよ」 その言葉に、幹夫はこらえきれず視線を伏せる。自分が何も言わなくても、母は東京に残した課題を察しているのだ。

第四章 古い風鈴

 夜になると、母が「少し整理したら出てきたのよ」と幹夫にあるものを手渡した。それは錆びついた風鈴の房。音を立てる金属部分が欠けているが、昔ここで使われていた品らしい。 「お父さんがまだ若かった頃、夏の夕暮れに風鈴の音を聞くのを楽しみにしていたのよ。あんたが生まれる前だけどね」 母は微笑を浮かべる。 「いまはこんな荒んだ状況で鈴を吊るす余裕もないから……もし東京に戻るなら、持って行ってくれたらうれしいけど」 幹夫はそれを受け取り、胸が熱くなる。東京で出会ったあの風鈴の音と、ここ静岡に眠っていた鈴がまさに繋がっているような感覚だ。 (風鈴……あの小さな音は、父さんもかつて大切にしていたんだ……)

第五章 嵐と小さな灯り

 翌朝、父の調子は少しだけ上向いたようで、椅子に腰掛けて食事をとれるまで回復していた。幹夫は胸をなで下ろしつつ、心が揺れる。 (父さんが少し安定した今、俺は東京へ戻るべきか? 山岸や堀内のことを放っておけない。それに井上の行方もわからないままだ。でも、茶畑を喪いかけている町をこのまま放っておくのも……) 病室の隅で幹夫が立ち尽くすと、父がゆっくりと口を開いた。 「幹夫、おまえの顔を見ただけでも俺は安心した。ここから先は、地元に残る者に任せてくれ。俺は動けるようになれば、また町へ働きかけるつもりだ。……おまえはおまえの場所でやるべきことがあるんだろう?」 その言葉に、幹夫の胸が締まる。父が自分を理解してくれているからこそ、ここに縛るつもりはないのだ。まるで大きな嵐を前に小さな灯りを絶やさないという決意を感じて、幹夫は目を潤ませる。

第六章 短い帰郷の終わり

 幾日か父の様子を看病し、安定を確認すると、幹夫は静かに帰京を決める。合併で荒れる町の未来も、父が回復したら働きかけてくれると信じるしかない。自分はやはり東京での仲間を裏切るわけにはいかない。 帰り支度を整えた朝、母が玄関先で見送ってくれる。 「ありがとうね。お父さんのためにいてくれて。でも、あんたにはあんたの場所があるんだろう?」 幹夫は肯き、古びた風鈴の房をそっと鞄に仕舞う。 「これ、いつかまた聞かせてくれよ。お父さんも、それを待ってるかもしれない」 母の言葉に微笑みを返し、幹夫は深く頭を下げる。 (父さん、待っててくれ。いつかまた、この家に戻るときには、きっと……)

エピローグ

 再び幹夫は汽車へ乗り込み、東京へ向かう道を辿る。灰色の車窓の向こうで、田畑や町並みが後方に流れ去っていく。 「風鈴……。俺はあの音を、東京でもここでも守り続けたい。たとえ町が飛行場に侵食されても、父さんが立ち上がるように、俺も東京で踏み止まるんだ。」 窓ガラスに映る自分の顔は疲れているが、その瞳には微かな決意の光が宿っている。 まもなく列車はトンネルに入り、闇のトンネルに包まれる。だが幹夫の耳の奥では、微かな風鈴の音が響き続けるように感じられた。小さな音に背中を押され、再び大都会へ向かう――その道が、昭和の闇を抜ける一歩だと信じながら。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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