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緑走る台地 ~揺れる旗~

第一章 秋風に揺れる旗

 昭和七年(1932年)も晩夏を過ぎ、都心には早くも秋の風が吹き始めた。幹夫は大学の帰り道、背に重たい鞄をかけながら、ふと見上げた空の高さに季節の移ろいを感じる。しかし、その爽やかさとは裏腹に、街角にはますます大きく掲げられた国旗と、「満洲国承認」の横断幕がはためいていた。 ラジオや新聞は連日、「満洲国こそ日本の未来の突破口」と報じ、軍部を称賛する記事で溢れている。幹夫は、この高揚感が戦争への道をひた走らせる恐れを抱きながらも、下宿へと足を急がせた。

第二章 印刷所の新顔

 翌日、幹夫がアルバイト先の印刷所へ行くと、見慣れない青年が社長と話しているのが目に入る。年の頃は幹夫より少し上か、刈り上げた髪に鋭い眼光が印象的だ。 「新しく雇うことにしたんだ。国の仕事に関わる大きな印刷を増やすかもしれんしな……ほら、自己紹介しろ」 社長の声に促され、青年は短く頭を下げる。 「堀内と申します。よろしくお願いします」 どこか軍人のような凛とした佇まいに、幹夫は息を呑む。もしかすると、軍部や警察の意向を探る“見張り役”なのではないか。そんな疑念が湧き、不安が胸をかすめた。 堀内は無表情なまま素早く仕事を覚え、幹夫の横で淡々と機械を操作する。その仕草にミスはなく、無駄な会話もほとんどない。この無機質さが、幹夫にはなんとも落ち着かない空気を運んでくる。

第三章 不意の通報

 ある日の夕方。印刷を終え、後片付けをしている幹夫に、社長が声をかけた。 「おい、幹夫。最近、お前がどこぞの反戦運動に絡んでるって噂があるみたいだ。警察から“気をつけろ”と釘を刺されたんだが……身に覚えはないか?」 幹夫はドキリとする。確かに井上の動向を探ったり、デモに顔を出したことが全くないわけではない。しかし、積極的に活動しているわけでもなく、ただ静観しているにすぎないはずなのだ。 「いえ……僕はそんな大それたことは……」 曖昧に答えるしかない。社長はため息をつき、 「そうだろうよ。だが、この時代、ちょっとした噂が命取りになりかねん。井上とかいう友人が行方不明って話も聞いた。お前を巻き込む気かもしれんぞ?」 幹夫は言葉を失う。誰が通報したのか分からないが、これまで以上に警戒が必要なのだと痛感する。

第四章 堀内の眼差し

 その夜、印刷所からの帰り際、先に上がったはずの堀内が路地の暗がりに立っているのを見つけた。何やら硬い視線で幹夫を見つめている。 「……何か用かい?」 幹夫が声をかけると、堀内は一瞬戸惑ったように口を開きかけ、それから視線をそらす。 「別に。通りがかっただけだ」 そう言い残し、足早に去っていく。その背中には、まるで何か言いたそうな空気が漂っていた。幹夫は足を止め、闇に溶け込む彼の姿を見送る。堀内は単なる仕事仲間なのか、それとも誰かに指示されて幹夫を監視しているのか。混乱する思考を抱えながら、幹夫は下宿へと戻っていく。

第五章 静岡からの嘆き

 数日後、いつものようにポストを開けると、やはり父・明義からの手紙が届いていた。茶封筒の中には、県内の最新事情が書き込まれている。 「飛行場用地の噂は現実味を増している。地元の有力者の中にも“軍との繋がりで利益が出るなら”と容認する者が出始め、反対の声は小さい。茶畑を守るという理念より、時代の流れに乗ろうとする考えが広がっているのが悲しい。 それでも、わたしはこの地の人々の暮らしを守るために、ぎりぎりまで行政として調整するつもりだ。もしこの先、本当に土地収用が始まるなら、多くの農家が行き場を失ってしまう。幹夫、お前は東京で学びながら、どう思う? 地方に生まれた人間として、これは避けられない道なのだろうか。」

 幹夫は手紙を握りしめ、歯噛みする。軍部への協力が“国に尽くす美徳”とされる風潮の中で、父がどれだけ孤軍奮闘しているか痛いほど伝わってくる。しかし、当の幹夫自身は東京で動きも取れず、気持ちばかりが空回りしていた。

第六章 仄かな光

 幹夫は父への返信を何度も書き直し、ようやく一通の手紙を仕上げる。 「父さん。東京は満洲国誕生に浮かれる空気がますます濃く、反対意見を言えばすぐに非国民扱いされかねません。正直、井上の行方もわからず、僕自身も疑われはじめているようです。 でも、今はただ踏みとどまるしかないと思っています。学びと仕事を続けながら、時代をよく見極めることを。静岡がもし軍に飲み込まれそうになっても、父さんのように最後まで“人の暮らし”を忘れないで戦ってください。 茶畑が軍の飛行場に変わったとしても、きっと“守るべきもの”の記憶は消えない。僕は必ず、静岡の人々の声を取り戻せる日が来ると信じています。」

 封を閉じると、少しだけ胸が軽くなる気がした。父は苦しい立場にありながらも希望を捨てていない。だったら自分も、どんな逆風でも意志を曲げずに歩み続けるしかない。井上がどこかで同じ気持ちを抱いているのだと信じて……。

エピローグ

 晩秋へと移り変わり、東京の夜風はひんやりと肌を刺すようになった。街角には「国防」「挙国一致」を掲げる看板が増え、印刷所の機械も連日大量の軍需ポスターを刷り続けている。 幹夫は下宿の窓から遠くの空を見つめ、家族の住む静岡平野を思い浮かべる。茶の香りに包まれていたあの台地が、軍用地に変わるかもしれないという現実に胸が痛む。それでも、いつか故郷を救う力になりたいと願う自分がいる。 国中が戦争へと傾く時代のうねりの中で、彼の心に宿るささやかな決意の炎はまだ消えていない。そこには、父や祖母から受け継いだ士族の血と、井上との友情が育んだ“声を上げる精神”が脈々と息づいていた。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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