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緑走る台地~昭和の早春~

第一章 昭和の早春

 昭和二年から三年にかけて、静岡の冬は例年より厳しく感じられた。濃い霧が駿河湾から立ち込め、朝晩の冷え込みは幹夫の指先をかじるようだ。 幹夫は旧制中学校四年に進級し、卒業が少し先に見え始めていた。友人たちは進学や就職の準備で忙しく、学校の廊下では「東京に出る」「家を継ぐ」といった話題が飛び交う。 一方、静岡市内では金融恐慌の余波が完全には収まらず、小さな銀行や商店が相次いで廃業に追い込まれるケースが出ていた。県の産業振興課に勤める父・明義は、毎日のように地元の経営者たちとの打ち合わせに奔走している。

 ある早朝、幹夫は珍しく父と顔を合わせながら朝食をとることができた。いつもは父が出勤で慌ただしく、すれ違いが多いのだ。 「父さん、昨夜も遅かったんだね」 湯呑に注がれた熱い茶から立ちのぼる湯気ごしに、幹夫が声をかける。 「うん。銀行同士の合併話が進んでいて、その調整や保証の問題で朝方まで協議していた。どうにか皆が納得いく形を作りたいが……」 父の表情はやつれ気味だが、どこかに使命感の火が宿っているようでもある。

 隣では、祖母が「戦乱の世ならば刀を抜いて片付くことも、今の世では知恵が要るのだな」と呟く。かつては旧士族としての威厳を重んじてきた彼女も、いまでは明義の地道な努力に敬意を抱き始めている。 「幹夫、もうすぐ卒業だろう。あとはおまえが自分の道を見定めることだね」 祖母は淡々とした口調でそう言い、箸を置いた。

第二章 浜松の再訪

 その月末、明義が「浜松の企業を巡回するから、おまえも一緒に行ってみないか」と幹夫を誘った。中学での授業を休むことになるが、将来を考える上でも得難い機会かもしれない。幹夫は迷わずにうなずいた。

 二人が汽車で浜松へ着くと、まず訪れたのは**日本楽器製造(ヤマハ)**の工場だった。数年前の労働争議や経営上の苦難を乗り越え、最近はさらに事業を広げているという。 工場内は木材の香りと塗料の匂いが混ざり合い、職人たちが真剣なまなざしでピアノやオルガンの部品を調整する。かつて幹夫が初めて目にした“近代工業”の息遣いが、さらに洗練されているように感じられた。 「おかげさまで海外の楽器市場にも食い込んできた。だが、金融不安の影響で国内の購買力が落ちるのが心配だね」 案内をしてくれた技師はそう言いながら、白木の鍵盤部品を丁寧に磨いている。見れば若い職工も多く、皆が新しい時代の技術を吸収しようという熱気に溢れていた。

 続いて視察したのは、同じく浜松の織物工場や新興の小規模メーカーだ。どこも銀行融資の先行きに不安を抱えており、資金繰りと市場開拓が共通の課題となっている。 「父さん、みんな必死なんだな……」 工場を後にする車中で、幹夫は窓の外を流れる景色を見やる。遠州の広い空がやけに白くまぶしい。 「このままでは製品の品質が良くても、資金不足で量産体制が維持できないかもしれない。わたしは県と銀行、そして経営者の橋渡しをして何とか乗り切らせたいと思っているが……」 父の言葉には疲労と同時に強い責任感がにじんでいた。

第三章 遠い世界の出来事

 昭和三年(1928年)に入り、世界的にも不穏な空気が流れ始めていた。欧米の株式市場が乱高下しているという話は新聞を通じて静岡にも届いている。幹夫の学校の先生が、授業中にぽつりと漏らした。 「アメリカの景気が怪しいとなれば、日本の輸出にも影響が出るだろう。静岡の茶や織物も他人事ではないかもしれん」 幹夫は、清水港で見た外人商館の活気を思い出す。このまま世界の経済が冷え込めば、あの港からの茶の輸出にも逆風が吹くだろう。

 さらに政界では、山東出兵や満州利権をめぐる動きなど対外強硬策が取り沙汰され始めていた。学校でも新聞でも「支那事変」や「満蒙問題」など不穏な言葉がちらつく。 「こんな時代に軍を動かすなんて……」 友人の井上が目を伏せるようにつぶやく。「普通選挙」が実現したはずの日本が、果たして本当に民主的な道を歩むのか、疑問が募るばかりだった。

第四章 青年団の変化

 初夏のある日、幹夫は再び父に同行して榛原郡の母方の郷里を訪れた。かつて夜の倉庫で活気に満ちた会合を行っていた青年団も、近頃は少し様子が変わっているという。 団長を務めていた母の従兄は今も健在だが、若者たちの中には「政治運動をもっと積極的にやるべきだ」という者や、逆に「国のやり方に文句を言うな」という者も出始め、意見がまとまらなくなってきているらしい。

 「幹夫くん、久しぶりだなあ」 団長は相変わらずの朗らかな笑顔で迎えてくれたが、その背後に集まる青年たちの間にはどこか張り詰めた空気が漂う。 「この間、新興の農民組合のビラが回ってきたんですよ。地主と小作人の構造自体を変えるべきだ、なんて激しいことが書かれていて……」 若い男の一人が小声で打ち明ける。それに対して別の青年が苦い顔で言う。 「でも、農民組合だの社会主義だのを声高に叫んだら、取り締まりを受けるかもしれないだろう?」

 かつて幹夫が目にした“米騒動”の痛ましさや、浜松工場のストライキ騒ぎがよみがえる。声を上げることの大切さと、時代がそれを容認するかどうかの難しさ。どちらを選んでも一筋縄ではいかない現実がそこにある。 夜の倉庫には、相変わらず提灯の明かりがともるが、あの頃のような純粋な活気よりも、時代の重圧と葛藤がそこかしこに漂っていた。

第五章 進路の行方

 幹夫が旧制中学五年生に進級し、卒業が見えてきた昭和三年の晩夏。進学志望者は受験に向けて猛勉強に励み、早々に就職先を決める者も出てきた。 井上は「東京の高等学校は受かったらしい」「帝大を目指すつもりだ」と自信に満ちた口調で語り、周囲に一目置かれる存在になっていた。 そんな中、幹夫は一層悩んでいた。父のように官吏を目指すなら高等文官試験を視野に大学進学が必要だろうし、地元企業に入り“ものづくり”の道を歩む選択肢もある。

 ある日、放課後の図書室で地図帳をめくりながら、幹夫は幼いころの夢を思い出していた。清水港の大きな船、浜松工場の技術、そして外国へ旅立つ茶箱……。地元と世界とを結びつける何かがしたい。でもそれは、政治家でも技術者でも実現できるはずだ。 その夜、縁側で涼んでいると、父が明かりを頼りに何やら書類を見ていた。 「父さん……もし、俺が大学へ進んだとしたら、やっぱり東京に出て学ぶことになるのかな?」 幹夫が尋ねると、父は書類を置いて微笑む。 「東京には学問や情報が集まるし、刺激になるだろう。しかしここ静岡の中にも人材は必要だ。最終的にはおまえが何をしたいかだよ。どちらにしても、広い世界を見てほしい。そのうえで戻ってくるなら、わたしは大歓迎だ」

 幹夫は父の背中に、これまで以上の温かさを感じた。かつて祖母が父を見限りそうだったころを思えば、随分と家族の風通しは良くなっている。時代が流れていく中で、家にとっても新しい価値観を受け入れる柔軟さが育まれつつあったのかもしれない。

第六章 昭和四年 暗雲の兆し

 昭和四年(1929年)秋、アメリカの株式市場が大暴落したという大ニュースが静岡にも舞い込んだ。世界経済を巻き込む“大恐慌”が起きるのではないかという噂が、県庁や新聞社、町の商店でも囁かれる。 「もし本当に世界が不景気に突入すれば、日本の輸出は大打撃を受ける。茶も織物も楽器も……」 父は顔を青ざめさせていた。銀行や企業と連携して踏みとどまる策を考えなければならない。それでも財政には限界があり、政治も揺れ動いている。 「幹夫、おまえが卒業するまでに、どれだけ世の中が変わっているか分からんぞ。心して生きなさい」 父の口調は真剣そのものだった。

 幹夫は父の言葉を噛みしめる。大正期に芽生えた大衆の声も、昭和の波乱の中でかき消される危うさを感じる。だが同時に、若い力でこの流れを食い止めることができるのではないかという期待も、心のどこかに消えずにあった。

エピローグ

 秋の深まる静岡の空は夕日に染まり、駿河湾が金色の光を反射している。幹夫は校舎の屋上からその風景を見下ろし、胸に去来する思いを整理していた。世界経済の動揺、地方社会の不安、青年団の軋轢――すべてが繋がっているようでもあり、混沌としたままでもある。 それでも、彼は人々の声を結び合わせる“場”を作りたいという気持ちを失わなかった。幼いころから見てきた父の仕事――刀ではなく言葉で人々を助ける姿――を思い出し、「自分にも何かできるはずだ」と奮い立つ。

 昭和の夜風が屋上に吹き抜け、幹夫の詰襟を揺らす。 彼が歩む先には、さらに厳しい時代が待ち受けるかもしれない。 けれど少年から青年へ、もう一歩踏み出そうとする心が、 大正の理想のかけらを携えつつ、今なお力強い鼓動を打っていた。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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