緑走る台地 ~東京へ~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月6日
- 読了時間: 5分
第一章 再びトンネルを抜けて
五月半ばの曇空の下、再び汽車がトンネルを越えて東京駅へと滑り込む。 幹夫は車窓から見えるビル群に、わずかな息苦しさを覚えつつ、懐にしまった古い風鈴をそっと撫でた。静岡で母から手渡されたそれが、彼の胸の奥深くを結びつけているようだった。 (父さんは大丈夫だ……いずれ体調を戻して、町をもう一度元気にしてくれる。あの茶畑を取り戻す戦いは、まだ続いている――) ホームに降り立つと、ここしばらく離れていた東京の空気が思った以上に冷たく感じられ、まるでこの街が「戻ったか」とでも囁くように、ガヤガヤとした雑踏が幹夫を包んだ。
第二章 再会の印刷所
印刷所へ向かう道すがら、幹夫は心臓が大きく鼓動するのを感じる。「最後の廃材」を経て、山岸や堀内は今どうしているのか、無事なのか。もし何かが露見していれば……。 門をくぐり、工場の奥へ足を踏み入れると、社長がちらりとこっちを見て眉を上げ、 「幹夫……戻ったのか。父上は……大丈夫なのか?」 幹夫はすぐに会釈して答えた。「ありがとうございます。なんとか落ち着きましたので、こちらへ戻ってきました」 社長は面倒ごとを抱えているらしい暗い顔で頷きつつも、「戻ってきてくれて助かるよ。いま軍からまた厄介な注文が来ていてね……」と低く溜め息をつく。 (どうやら印刷所は、まだ平穏を保っているようだ。山岸たちはバレずに済んだのか……) 幹夫は心中で安堵し、廃材置き場のほうへ自然と目をやる。
第三章 堀内の視線
作業場へ入ると、金属の油の匂いと紙のインクの匂いが混じった懐かしい空気が幹夫を出迎えた。少し奥を覗けば、堀内が黙々と機械を手入れしているのが見える。 (堀内さん……) 幹夫が近づこうとすると、堀内も気配に気づき、軽く顎をしゃくって合図を送る。彼の視線には「後で話そう」という意図がはっきりと込められていた。 幹夫は一瞬微笑みを返すと、まわりの職人たちがいる手前、そのまま作業台へ向かい始業の準備をする。 (また綱渡りの日々か……でもこの街にまだ、あの“風鈴の音”の余韻があるはずだ)
第四章 小さな報告
昼休み。廃材置き場へ向かうふりをして幹夫が工場の裏口に出ると、堀内がすでに待っていた。 「帰ってきたんだな。父さんは大丈夫だったのか?」 幹夫は頷き、「命に別状はなかった。でも町の様子は……茶畑も……大変になってる」と唇を噛む。 堀内も苦い顔で相槌を打つ。 「こちらも同じだ。軍の管理強化で、いよいよ廃材をそうそう自由に扱えなくなった。俺もすでに在庫一掃をしたあの日以来、一切“余分な紙”には触れられない」 「山岸や井上のことは……」 幹夫の問いに、堀内は視線を伏せつつ小さく笑った。 「検挙されたという話は聞かない。どうやらまだビラを続けているらしい、という噂は職人仲間から漏れ聞こえるが……もはや俺たちができるのは、自分を守りつつ、この街を支えるだけだ」
第五章 かすかな伝言
午後の作業が一段落し、幹夫は休憩に入ろうとしたところ、見覚えのある紙切れが機械の端に挟まっているのを見つけた。「また山岸たちの仕業か?」と胸が高鳴る。 開いてみると、そこには簡潔な言葉が並んでいた。 「東京は見張りが厳しい。けれどビラはまだ止まらない。静岡で踏みとどまるように。井上を知る者より」 (井上を知る者、って……) 紙を握りしめ、幹夫は驚く。井上の所在は不明だったが、まだ仲間が動いていることは確かなのだ。しかも“静岡で踏みとどまるように”との言葉――彼らは幹夫の帰京を知らなかったのか。 「……しまった。俺は父を優先してしまったけれど……」 心にざわつきが広がる。井上やその周囲の人々は、静岡の闘いにも関心を寄せてくれていたのだろうか。
第六章 風鈴の予感
夜、下宿へ戻り、部屋の鍵を開けると、薄暗い窓辺に吊るされたあの風鈴が幹夫を出迎える。 「ただいま……」 無論、返事はない。だが、幹夫には東京で過ごした日々と、静岡で見てきた荒れ果てた茶畑、弱りゆく父の姿が重なって胸にこみ上げてくる。 鞄から母が渡してくれた古い錆びついた風鈴をそっと取り出し、並べるように置いてみる。東京の鈴と、静岡の鈴――両方が一緒にある光景に、幹夫は何とも言えない安堵と切なさを感じた。 (井上や山岸はこの街で、父さんや静岡の人々はあちらで……。俺はこの二つの鈴をどうにか鳴らし続けたい。どうすればいいんだろう……) ふと、静寂のなかで窓がわずかに揺れる。かすかな風が、二つの鈴を同時に触れた。――かと思えば、すぐに止んでしまう。 「まだ続いている。どこかでこの音は繋がるはず……」
エピローグ
夜更け。布団に入り、幹夫は天井を見上げて静かに息をつく。東京と静岡の間を行き来し、さまざまな“声”に関わったものの、今はまたこの狭い下宿で自分の役割を模索する日々が始まる。 遠い空の下、父はきっと苦境を踏みしめながらも茶畑を見つめているだろう。井上や山岸の仲間は軍拡に抗いながら、ビラを撒き続けているのだろう。 その一方で、幹夫はこの街で、印刷所を通じて軍や世間の波をやり過ごしつつ、誰かの“最後の綱”になるべく日々を送らなければならない。――そんな決意と責任をかみしめる。 部屋の窓辺には、二つの風鈴が静かに鎮座したまま。どちらも鳴る気配はないが、まるで幹夫を見守っているように佇んでいる。 「いつかこの鈴たちが同時に高らかに響く日が来るのだろうか。昭和の暗雲を突き抜けるように――」 そう願わずにはいられない夜。かすかな月光が風鈴の金具に反射し、ほんの一瞬きらりと光を放った。幹夫はそれを合図のように、明日へと向けて目を閉じるのだった。
——(続くかもしれない)





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