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緑走る台地 ~沈黙~

第一章 沈黙の緑

 昭和八年(1933年)も三月半ばを迎えたある夜、幹夫は風呂から上がると、またしても眠れぬまま薄暗い部屋に身を沈めた。布団に入っても眼を閉じれば、印刷所の機械の轟音や、父の嘆きの声が頭から離れない。 机の上には父からの手紙が積まれているが、最近は読むたびに心がきしむ。静岡では飛行場の造成がさらに進み、合併によって小さな村が併吞されようとしているのだという。その合併案に「賛成」を唱える人が増える一方、父のように“農民の暮らしを守るべきだ”と踏み止まる者は少数派として孤立していた。 「父さん、どうか倒れずにいてくれ……」 そう祈るように呟く幹夫の耳に、風鈴は相変わらず何の音も立てない。まるでその静寂が、今の日本の息苦しさを象徴しているようだった。

第二章 明かりの漏れる扉

 翌朝、印刷所に出勤すると、奥の事務室から社長と堀内が話し込む声が聞こえてきた。聞くつもりはなかったが、かすかな声が風に乗って届く。 「……警官がまた様子を探りに来たんだ。俺らが“おかしな印刷”をしていないかどうか……」 「もし疑いが晴れないままだと、さらなる監視が強化されますね。社長、今は軍の注文を必死でこなして、当局に‘協力姿勢’を見せるしかないでしょう」 堀内の口調には苦渋の響きが混ざっている。社長はため息まじりに頷き、 「そうだな。しばらくはもう少し軍の仕事を引き受けて、印刷所の“白”を証明しよう。そうしないと……幹夫やおまえも、また呼び出されるかもしれないしな」

 耳を澄ましていた幹夫は、わずかに身をこわばらせる。軍の仕事をこなして当局に“安全”だと認めさせる——そのために、またたくさんのパンフレットやポスターが印刷され、戦地や満洲へと送られていくのだろう。いつまでこの輪の中に留まればいいのか……幹夫は頭を垂れ、一瞬吐き気のような感情に襲われた。

第三章 父への手紙

 昼下がり、休憩時間に廃材置き場の裏で幹夫は便箋を取り出した。いつものように、父に宛てて書きたいことは山ほどあるが、今の状況をすべて書けるわけもない。 「父さん。東京でも取り締まりが厳しくなり、身動きが取れない日々です。印刷所も軍の仕事を大量に抱え、疲弊しています。……それでも、あなたのように一線を守るため、僕も少しずつ考えて行動したいと思います。どうか体を壊さぬよう……」 そこまで綴ってペンを止める。どれほど力になれるのか自分にも分からないが、せめて父が孤立無援ではないという思いを伝えたい。この手紙が検閲に引っかからず、無事に父のもとへ届くことを祈るばかりだった。

第四章 不意の来客

 その夜、下宿で夕餉を終えた幹夫が茶をすすっていると、廊下から女将さんの声がした。 「幹夫さん、誰かお客さんが来ているわよ」 部屋を出てみると、そこにいたのは見覚えのある青年——かつて井上と倉庫でビラを刷っていた仲間の一人、山岸だった。痩せた顔には険しい表情が浮かぶ。 「ここに来るの、危ないんじゃ……」 思わず幹夫が声を潜めると、山岸は息を切らせながら彼を裏口へ促す。 「すまない、すぐに話がしたい。井上がどうしても伝えてほしいことがあるらしいんだ。今は場所を移していいか?」

 幹夫の胸が強く高鳴る。警官の巡回がいつ来るか分からない下宿で長話は危険だろう。二人は急ぎ裏口から外へ出て、夜の路地を足早に歩き出した。かすかな月明かりの下、山岸の息遣いが荒く、胸騒ぎを覚える幹夫も無言のままついていく。

第五章 井上の伝言

 やや開けた公園の片隅で、山岸は幹夫と向き合うと、手にした紙切れを差し出した。そこには走り書きで「再び物資が必要、まだ可能か」とだけ書いてある。 「井上は、どうしてもビラ配りや反戦活動を続けるつもりだ。それで、以前のように用紙やインクを回せないかと……無茶な話だが」 「でも、印刷所は厳重に見張られてる。堀内さんも俺も、もう少しでも怪しまれたら終わりだ。わかってるだろ?」 幹夫の声には焦りがにじむ。 「わかってる。井上だってあなたを巻き込みたくないと思ってる。だけど、今も軍部は危険を顧みず戦線拡大を狙ってるし、このままじゃ取り返しがつかないことになる。それを少しでも食い止めたいんだ」

 幹夫は返す言葉を失った。自分の行為で井上や山岸を支えられるかもしれない。しかし同時に印刷所の仲間や家族を危険に巻き込むリスクがある。父は「わずかな抵抗でも未来に繋がる」と語っていたが、果たしてそれはどこまで通用するのだろうか——。

第六章 揺れる想い

 深夜、下宿に戻っても幹夫の心は大きく揺れ続けた。山岸の頼みを受けるか、断るか。父の静岡も、印刷所も、すべてが崩れるかもしれない綱渡りに彼は立たされている。 (父さん、どう思う……? ほんの少しでもビラ活動を助ければ、戦争に飲み込まれる人たちを救う一歩になるのかもしれない。でもその一歩が、ここにある小さな日常を壊すかもしれない……) 布団に潜り込んだ幹夫は、無理に瞼を閉じても眠気は来なかった。風鈴はやはり沈黙したまま、月明かりの下で微動だにしない。

 ふと、廊下のほうから誰かが階段を上る気配がして、幹夫ははっと身を起こす。下宿の主人だろうか。いや、もしかして警官が抜き打ちで来たのか……? 不安に苛まれるなか、足音は幹夫の部屋の前で止まったようにも思えたが、やがて遠のいていった。 (怖い……。どうしたらいい……) 胸にこみあげる恐怖と責任感がせめぎ合い、幹夫はただ布団の中で身を縮めるしかなかった。「風鈴はいつ鳴るのだろう」——そんな無意味な疑問が、宙を舞うように頭を駆け巡る。

エピローグ

 夜明け前、ほとんど眠れないまま幹夫は窓辺へと立った。灰色の空にわずかな明かりが射し込み、路地が白く浮かび上がっていく。遠くに人の話し声が聞こえ、世の中がまた日常を装い始める音がした。 「結局、俺は選ばなくてはならない。井上や山岸を助けるのか、それとも印刷所や堀内さんを守るのか。そんな二択が本当に正しいとは思えないが……」 写真立てに刻まれた牧之原の緑を見つめ、幹夫は胸を締めつけられる。自分が進む道は薄氷の上を歩むような危険ばかりだ。 それでもいつか風鈴がはっきりと鳴り渡るような“春の風”が、この国に吹く日を信じたい。 外の空は変わらず重い雲をたたえ、昭和の暗闇がなお一層深まっていく気配を孕んでいる。——それでも、ちいさな炎を抱き続けるしか、幹夫には道がなかった。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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