緑走る台地 ~焦燥~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 6分
第一章 夏の焦燥
昭和七年(1932年)の七月も終わりに差しかかり、灼熱の太陽が東京の街をじりじりと焼きつけていた。幹夫は大学の授業が一段落した午後、使い古されたカバンを提げ、汗を拭いながら印刷所へ向かう。 街路を歩けば、町のあちこちに「満洲国祝賀」と銘打ったポスターや旗が掲げられ、人々の間には「これで不況を脱するかもしれない」と期待する声も聞こえる。だが、その期待が軍拡と背中合わせであることは、薄々感じられていた。井上の行方がわからない今、幹夫の心は焦燥感に包まれている。自分だけがここにいて何をしているのか、と。
第二章 同僚からの忠告
印刷所に着くと、社長の指示で急ぎの注文が待っていた。さらに国威発揚を謳う大きな垂れ幕を、数時間で仕上げてほしいという。幹夫は汗まみれになりながら機械を操作する。刷り上がるたびに、「国防」「満洲開拓」「皇軍の栄光」といった言葉が並ぶ。 しばらく作業に追われていると、同僚の年配職人が小声で話しかけてきた。 「幹夫くん、あんまり難しい顔をしてると変に思われるぞ。今はやり過ごすしかないんだ。お前さんが危ない立場になったら、静岡の親御さんが悲しむ」 幹夫は苦い思いで頷くしかない。ここで反発しても、仕事が失われるだけでなく、当局の目を引きかねない。自分には家族や守るべきものがある——それを犠牲にする覚悟がまだ持てない現実が、幹夫の胸を鈍く締めつけた。
第三章 再会の予感
その晩、下宿へ戻る途中の裏通りで、幹夫は突然肩を叩かれた。びくりとして振り向くと、そこに立っていたのは大学の同級生で、以前井上とも親しくしていた男・高木だった。 「こんなところで何してるんだ、幹夫。最近、こっちの集会にも来ないだろ?」 高木は周囲を警戒するように目を配りながら低い声で続ける。 「井上の行方を探してるんだろ? 実は俺も気になってる。ところが、井上と一緒に運動してた連中が次々に姿を消してるんだ……。警察沙汰か、それとも身を隠したのか、いずれにしろただ事じゃない」
幹夫は息を呑む。このままでは井上も、もしかすると……。 高木は続ける。 「まだ確証はないが、井上が潜伏しているという噂も耳にした。ある筋から『彼は安全なところで反軍活動を続けようとしてる』って話を聞いたんだ。もし本当なら、近いうちに井上本人から連絡が来るかもしれない。おまえも注意しておけ」
幹夫の心臓が大きく跳ねる。失踪以降、ただ暗い想像ばかりしていたが、ほんの少しでも再会の可能性があるなら……と、希望が芽生える。しかしその一方で、こんな噂を口にする高木自身もいつ危険に巻き込まれるかわからない。幹夫は思わず「気をつけろよ」と言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
第四章 地方の声
翌日、ポストに一通の手紙が投函されているのを見つけた。差出人は父・明義。内容は依然として厳しい地元の経済状況が綴られていたが、最後にはこう書き加えられていた。 「軍部から“飛行場用地”の打診が県内で進んでいると耳にした。うちの牧之原台地あたりを候補にしているらしい。県としての方針は未定だが、これが実現すれば茶畑が失われる恐れもある。大勢の茶農家が困窮するだろう。 しかし、逆らうことは容易ではない。県の財政を支えてもらえるなら、喜ぶ者も出てくるかもしれない。なんとやるせない状況か……。 幹夫、おまえは東京で今の日本をどう見ている? 願わくば、おまえが将来、戦争の時代が去った後にでも、わたし達が失いかけているものを取り戻す力となってくれることを信じている。」
幹夫はその一文に胸を打たれる。茶畑を生かしてきた歴史が、軍事用地という現実に呑み込まれようとしている。牧之原の開墾は、祖先が苦労して築き上げた静岡の誇りでもあるのに。 自分はこんなとき、東京でただ翻弄されているだけでいいのか。何も成せぬまま、やがて日本全体が戦争に染まっていくのを見過ごすのか——幹夫の胸で焦りが膨れあがっていく。
第五章 思わぬ手紙
それからさらに数日後。深夜、下宿へ戻った幹夫は、自分宛てに奇妙な差出人不明の封書が届いているのを見つけた。中には短い走り書き。 「静岡の大地を忘れるな。おまえが見てきた米騒動や労働争議、あれは無駄ではない。人が声を上げることで社会は変わる—— 今はまだ時ではないが、近いうちに接触する。 ——友より」
幹夫の手が震える。誰が送ってきたのか。文面からして、まるで井上が書いたかのようにも思えるが、筆跡は違う気もする。 それでも、この“友”という言葉に見覚えのある空気を感じた。井上がかつて幹夫に宛てていた手紙でも、しばしば「友」という言葉を使っていたからだ。 「井上……なのか……?」 胸を熱くしながら、幹夫は手紙を何度も読み返す。ここには、まだ“声”を失わずにいる者がいる。自分に何ができるかはわからないが、とにかく歩みを止めてはいけない。父の願いも、井上の言葉も、すべてがその背中を押している気がした。
第六章 決意の種
翌朝、眠りの浅いまま大学へ向かった幹夫は、ふと校門の前で足を止める。正門には大きな国旗が掲げられ、門衛の視線が厳しい。幹夫は背筋を伸ばして構内に入り、経済学の講義に臨んだ。そこでは満洲国に関する新たなデータが提供され、「今後の軍事投資こそが不況脱却の鍵」という意見が堂々と語られる。 幹夫はノートを取るふりをしながら、頭の中で組み立てる。“もしこの先、本当に戦争へと突き進めば、静岡の茶畑も、楽器工場も、すべて軍需に取り込まれる。井上や父が守ろうとした人々の声は、国策によってかき消されてしまう。……だが、まだ完全に声が消えたわけではないはずだ。”
その夜、下宿で一人、幹夫は意を決して紙を広げる。 「親愛なる井上。俺も動く時が来たのかもしれない。たとえ微力でも、何かをやらずに座していては後悔しか残らない。東京で学んだ知識と、静岡の父から受け継いだ誇り、その二つを持って、もしおまえや同士が声を上げるときが来るなら、俺も力を尽くす。それまでは、虎視眈々と自分の足元を固めておく……。」
書き終えた手紙を封筒に入れ、あて先は書かないまま引き出しにしまう。まるで近い将来に井上が帰ってくると信じているように。軍拡の闇が深まる時代に、幹夫は小さな決意を種のように胸に埋めるのだった。
エピローグ
夏の湿った夜気が部屋に入り込み、蚊取り線香の煙がゆらゆらと漂う。ラジオからはどこかで流れる軍歌の一節が聞こえ、外を走るトラックの音が遠ざかっていく。 幹夫は机にうつぶせながら、静岡の茶畑の緑を思い出す。そこには父と祖母がいて、米騒動の夜を恐れながらも新しい時代に憧れた幼い自分がいた。 「もしあの頃のまっすぐな思いが残っているなら、俺はまだ立ち止まらない……」
明日も印刷所で軍のポスターを刷らなければならない。だが、いつかこの手で違う“何か”を刷り上げる日が来るかもしれない。その希望を胸に、幹夫は不安と闘いながら瞼を閉じる。激動の昭和の中、青年の心は密かに燃え上がりつつあった。
——(続くかもしれない)





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