緑走る台地 ~紙が繋ぐ~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月6日
- 読了時間: 15分
第一章 新しい空気
昭和八年(1933年)八月初め。梅雨が明けたのか、東京にはじりじりとした日差しが顔を出しはじめ、湿気の残る風が街を包んでいた。 幹夫は印刷所へ向かう道すがら、ふと空を仰いで目を細める。ほんのわずかだが、曇りがちだった空が明るく感じられ、心なしか自分の胸にも新しい空気が流れ込むような気がするのだ。 (静岡と東京、二つの土地の間を行き来しながら、ここまで走り抜いてきた。父の陳情、戸田の再生計画、小冊子の出版……すべてが小さな変化を生んでいる。いつか、この空が大きく晴れる日が来るだろうか) そんな思考に耽りながら、幹夫は顔を上げ、いつもの印刷所の門をくぐる――そこから、また新たなドラマが始まりそうな予感に胸を高まらせて。
第二章 社長の決意
門を入ってすぐ、いつもは倉庫奥にいる職人たちが入り口近くでひそひそ話している気配がする。幹夫が訝しんでいると、彼らが「幹夫、社長が来てるぞ。朝から珍しい面持ちだ」と声をかける。 工場の奥へ足を運ぶと、社長は机に向かい、険しい表情で書類を見ていた。部屋の隅には戸田と堀内が控えている。 「幹夫君、よく来た。ちょっと大事な話がある――いや、上手くいけば嬉しい話だが」 社長の声はやや落ち着かない調子だが、目には熱が宿っている。どうやら、印刷所が正式に“民間案件”を受注できそうだという話らしい。
「以前の小冊子が評判になり、ある学校の教科書や、地域史のパンフレットを作りたいという依頼が来たんだ。軍の仕事だけじゃなく、こういう分野を広げられれば、我々の職人たちにも生き甲斐が戻るだろう」
幹夫は思わず頬をほころばせる。「社長、それは本当ですか? 戸田さんの策が実を結んできたってことでしょうか」 戸田が微笑しながら、「私も裏で少し動きましたが、やはり『牧之原開墾史』の小冊子が決定打になったようです。あれで印刷所の名が知られ、学校や地域団体が興味を持ってくれたのだと思います」と言う。
第三章 職人たちの安堵
昼休み、職人たちの前で社長が「我が社は今度、学校教科書や地域パンフの仕事を新たに受注することになった。軍だけじゃなく、こうした仕事にも力を入れたい」と発表すると、皆の顔から安堵の表情が見えた。 「軍の仕事に追われるばかりじゃなくなるなんて、ほんとに嬉しいぜ」「少しは腕の振るいどころが広がるな」といった声も上がる。これまでの重苦しい空気が、一瞬だけ柔らかくほぐれるようだ。 堀内が幹夫の肩を叩き、「おまえが父さんとやり取りして見つけた道だよな。あの小冊子がなきゃこうはなってない。改めて、ありがとう」と笑う。 幹夫は照れながら、「俺は父の力を借りただけです。現場で頑張ったのは堀内さんや社長、戸田さんたちだから」と応じる。
第四章 軍の不穏な動き
ところが、その穏やかな空気は長くは続かなかった。夕刻近く、戸田が青ざめた顔で工場へ戻ってくる。「軍の動きが怪しい。先ほど街で見かけた警官が“またビラがまかれている”と話していた。軍部はその出どころを本気で探しているらしい……」 幹夫はハッとする。先日、わずかに用紙を外へ回した影がいよいよ大掛かりに再起したのかもしれない。もしその捜査の網が印刷所に及べば――考えたくもないが、厄介だ。 堀内は苦い顔で腕を組み、「軍の依頼を減らそうとしている我々が下手に疑われたら、すべてが水の泡になる……どうして今ビラなんか配るんだ」と苛立ちを露わにする。 戸田は小さく首を振る。「わたしもどこまで知る由もないが、山岸たちのような反戦グループが、内憂外患の時勢を狙って再び声を上げているのかもしれない。いつでも危うい橋だが……」
第五章 堀内の葛藤
夜、幹夫が機械のメンテナンスを終えて帰り支度をしていると、堀内が寂しげな面持ちで話しかけてきた。「最近、戸田の案や民間印刷の仕事が動き出して、いい雰囲気になりかけてたのにな……。またビラの話が出るたびに、皆が萎縮するんじゃないか」 幹夫も切ない気持ちを抱く。「でもビラが絶えれば、軍はどんどん勢いづくだけ。あの少しの紙を渡したのは、俺たち自身なんですよ……」 堀内は目を伏せて大きく息を吐く。「ああ……。分かってる。おまえと一緒に決めたことでもある。軍を完全に助長させないためにも、ビラを必要とする声があることを……理解してはいるんだ。だけど、職人たちの一部はそれを知らないし、もしバレたらと思うと……」 幹夫は黙って堀内の言葉を受け止め、静かにうなずく。「俺も怖い。でも、父さんが静岡で戦ってる。俺たちはここでできる踏み止まりをしなければ……。一番いいのは、ビラ活動と印刷所の再生の両方が壊れずに済む道を探すことですね」
第六章 父の電報と市販開始
翌朝、幹夫が下宿で目を覚ますと、また速達が届いていた。今度も静岡の父から。 「陳情一部成功 県ガ飛行場拡張ノ凍結案ヲ検討スル 幹夫ノ小冊子評判 引キ続キ用意アレ」 幹夫は思わずガッツポーズをしそうになる。陳情が部分的に成果を上げ、県が軍の拡張を一時停止するかどうか審議しているのだ。さらに、あの小冊子が静岡でも受け入れられているらしい。 印刷所に着くと、社長が「我々の小冊子『牧之原開墾史』をいよいよ市販ルートへ乗せる。地域の書店でも取り扱いが始まるぞ!」と嬉しそうに宣言した。 戸田が誇らしげに「これで更に宣伝すれば、軍にも少しは睨まれにくくなる。『国土の開墾と農民の美徳を称える書』――そう名分を立てられるからね」と笑う。 幹夫は心からの安堵を抱き、「父さんが喜ぶ顔が浮かぶな……」と呟いた。
第七章 思わぬ来客
ところがその日の夕方、印刷所の門をくぐった来客を見て、職人たちは一瞬ざわめいた。警官の制服を着た男が一人、書類を手にしている。 男は幹夫たちを見ると、軽い会釈だけして言葉を発する。「すまないが、わたしは警視庁の○○分署所属の警部補だ。最近ビラの件で捜査をしていて、ここの印刷所にも話を聞かねばならないと上から指示があってね……」 幹夫と堀内の胸がぎくりと鳴る。戸田はすかさず表情を崩さずに近寄り、「ようこそ、お越しですね。わたしが少し対応いたしましょう」とにこやかに応対を始める。 男は険のある目つきで工場内を見回し、「妙に民間印刷へ乗り換え始めたとか、小冊子を出したとか……色々噂を聞いているが、本当に“国策”に従っているか確かめたい」と言い放つ。 (まずい……)と幹夫は青ざめるが、戸田は堂々と微笑み、「もちろん国策に従いつつ、地域文化をも盛り上げようとしているだけです。よろしければ、最近出版した小冊子もご覧ください」と手渡す。
第八章 警部補の審問
工場の一角に古い椅子を用意し、警部補が戸田と堀内、そして幹夫に順番に質問を投げかける形となった。 「ビラの件は知らないか? 軍に背くような内容が都内で出回っている。ここで紙を不正に持ち出していないか……」 戸田は落ち着いた口調で応じる。「この印刷所は軍のお仕事も引き受けていますし、監視も十分。職人たちを残業までさせて頑張っていますが、ビラなど刷る余裕はありませんよ」 堀内や幹夫も「在庫管理は厳重にやっている。むしろ最近は民間向けの小冊子が好評で忙しい」と言い、例の“牧之原開墾史”を警部補へ示す。 警部補は冊子をぱらぱらめくり、「なるほど、農業の歴史か……。だが軍にとって有益かどうかは判断が難しいな」と呟きながら苦笑する。
第九章 思わぬ効果
警部補は冊子を数分眺めたあと、「たしかに“国土の開拓史”としては悪くない。だが裏があるかもしれない。軍の意向をないがしろにしていないか、今後も注視するぞ」と警告めいて言い残して去っていった。 ほっと息をつく戸田と幹夫に、堀内は「やばいな……でも案外何も見つけられないまま帰った」と胸をなで下ろす。 戸田は汗を拭きながら、「この小冊子が逆に『国威発揚につながる文書』だと誤解――いや、信じさせることに成功したのかもしれない。まあどこまで続くかは分からないけれどね……」 幹夫も安堵しながら、「やはり紙一枚で人を騙したり救ったりできるんですね。静岡でも、父さんが古文書を武器に軍拡と戦っているけれど……ここでも同じように紙が守ってくれてる」と強く感じる。
第十章 父のもとへ少し戻る決意
その晩、堀内と戸田は社長を交えて「今後の印刷所運営の方向性」を話し合い、幹夫も立ち会う。軍向けの大規模依頼は今後も受けないわけにいかないが、新たな民間仕事や冊子出版を増やし、一方で細かいビラの需要は裏で隠し支援していく――極めて危ういバランスだ。 ところが議論がひと段落したとき、幹夫が言い出す。「……俺、明日、ちょっと静岡へ戻っていいですか。父が新たに役場で集会を開くらしく、そこへ小冊子を使いたいとも言ってるようなんです」 堀内は驚くが、戸田や社長は意外とすんなり「行ってこい」と送り出してくれる。「おまえがここにいても、いま大きな動きはない。戻ってまた新しい情報を仕入れてきてくれ」と戸田が言えば、社長も「それが印刷所を救う力になるのなら」と賛同する。 幹夫は深く頭を下げ、「必ず戻ります。二つの風鈴を鳴らすために……」と口にする。
第十一章 再び静岡へ
翌朝、幹夫は小冊子を数十部まとめて鞄に詰め、東京駅から汽車へ乗り込む。車窓を流れる景色を眺めながら、「今度は前回よりもう少し長めに滞在して、父の陳情の成果をこの目で見よう」と胸を弾ませる。 列車内には、また軍服を着た兵士や、荷物を抱える商人が行き交っている。混沌とした昭和の空気を肌で感じながら、幹夫は風鈴の触感を鞄越しに感じる。「おれがこれを静岡で、父と一緒に鳴らすのかな……」と微笑む。
第十二章 茶畑の会合
静岡へ到着し実家へ戻ると、母が「お父さん、町役場の有志と集まっておるよ」と教えてくれた。幹夫が荷物を置いて急ぎ向かうと、前回訪れた役場の一室で、父や町の人々が地図や資料を広げて話し込んでいる。 「ああ、幹夫が来た!」 父は顔を上げて笑い、町の役人や地主らが幹夫に拍手を送る。「あの小冊子、実はもう拝見させてもらったよ。おまえが作ったんだって? 素晴らしい出来だな。軍の人間にも“牧之原は大事な農地”と認識させる効果が期待できる」と口々に絶賛される。 幹夫は照れつつ、「東京の職人みんなで作りました。父の古文書があったからこそです」と言い、さらに持参した数十部を皆に配った。
第十三章 見えない軍の圧力
だが会合が進むにつれ、町役人の一人が深刻そうに言う。「いくら陳情や古文書が効果を生んでも、軍は一筋縄で引き下がらない。今は拡張を一時凍結したように見えても、状況次第でいつでも再開するだろう……」 父も目を曇らせ、「県も表立って軍には逆らえない。どうしても時間がかかるし、権力者たちの都合で決定が覆るかもしれない」と述べる。 幹夫は唇を噛む。東京でのビラや印刷所の綱渡りもまさに同じだ。どこまで小さな声が巨大な軍を押し返せるのか――それは誰にも分からない。 「でも、一度凍結したところに再拡張の計画が出ても、われわれが再度抵抗すればいいじゃないですか。『護るべき場所がある』と示し続けていけば、軍だって簡単には進められないはずです」 そう熱く語る幹夫に、父は嬉しそうに笑みを浮かべ、「よし、今度はおまえが中心になって“茶畑守護の集会”を開こう。小冊子を配り、皆で声を上げるんだ」と提案する。
第十四章 風鈴が鳴る集会
数日後、幹夫らは牧之原近くの小学校の講堂を借りて「茶畑守護の集会」を開く。町民や農民、地主層など数十名が集まり、そこで幹夫は東京の印刷所で作った**「牧之原開墾史」**をテーマに話をする。 緊張しながらも、この冊子に書かれた先人の歴史や、東京での取り組みを語るうちに、会場からは拍手が湧き起こる。 「こんな素晴らしい印刷物を作ってくれたなんて」「軍に屈せず茶畑を守りたいと思っていたが、ここまで具体的に行動している人がいたとは……」 反対運動に参加する意志を示す者も増え、父の目には涙が滲む。「ありがたい……これでさらに陳情に力が入る」と呟く。
集会が終わるころ、夕暮れの風が講堂に吹き込み、幹夫の鞄の奥に仕舞った風鈴がわずかにチリンと鳴った気がした。
第十五章 東京からの手紙
翌朝、幹夫は家で寛いでいると、郵便配達が来て「東京の印刷所から書留です」と封筒を届けた。 急いで開けてみると、そこには堀内や戸田、社長の連名で書かれた手紙があり、印刷所が小冊子をきっかけに「さらに地域史や学校向けの印刷を増やそうとしている」という朗報が綴られていた。 さらに、**「ビラの再燃が怖いが、今のところ職人は動揺せず頑張っている。おまえの作った小冊子を関係者に見せ、『俺たちの工場は国策にも逆らっていない』と説得している」**とあった。 幹夫はうれしさに微笑みつつ、「ああ、同じだ……ここ静岡でも集会が成功し、東京でも印刷所が踏み止まってる。二つの場所が同じように前へ進んでる」と感じる。
第十六章 少しの休息
父も「しばらくは大きな動きはない。軍が拡張を再開するにはまだ県の了承が必要で、そのあいだ役場が対抗策を整える時間ができるだろう。おまえも無理をせず、東京へ戻るなら戻るといい」と言う。 幹夫は内心、「東京の印刷所が心配だから、もうそろそろ帰るべきかな」と思いながらも、「ここで数日だけでも休息させてもらいます」と答える。道中の往復や陳情手伝いで疲れ切っていたからだ。 母は遠慮なく「ゆっくり眠りなさい。このところ痩せた顔をしてる」と勧め、幹夫は素直に甘えることにした。
第十七章 廃農具小屋の再訪
翌日、父が「せっかくだから、もう一度廃農具小屋を見にいくか?」と幹夫を誘う。まだ古文書は残っているし、足元が悪い場所もあり一人では不安だというのだ。 荒れた道を通り、小屋に入ると、まだ埃っぽい空気が漂っている。父は横の古い棚を開け、また何やら紙の束を取り出した。 「これは昔、開墾に参加した人々が書いた“心の記録”のようなものだ。詩や落書きに近いが、中には戦の悲惨さを嘆く一節もある。おまえ、東京でビラをどうにかしてるんだろ? これを翻案したら、意外と力を持つかもな……」 幹夫はギクリとするが、父は意味深に笑うだけ。「わしも全部は知らんけど、おまえが何かやっているって察してる。別に咎めるつもりはない。紙には声が宿る。おまえが東京で紙を動かすなら、これも活かしてくれ」 幹夫の胸が熱くなる。「父さん……わかりました。必要なときが来たら、これも活かしますよ」
第十八章 帰京の朝
最終的に幹夫は数日を家で過ごし、身体を休めた後、再び東京へ戻る覚悟を固める。父たちはもう少し休んでいけと言うが、印刷所の皆と戸田の計画を思うと、あまり長居はできない。 出発の朝、母が弁当と新しい茶葉を幹夫の鞄に詰め、「父さんがまた張り切りすぎて倒れやしないか不安だけど、これからは町の人が支えてくれるから大丈夫よ」と微笑む。 父も肩に手を置き、「今度はもっと長くいられるように準備しておく。軍がどう出るかわからないが、わしも負けない。おまえも東京で頼むぞ」と言う。 幹夫は二つの風鈴を軽く合わせ、チリンという短い音をさせて、「わかりました。東京と静岡、両方の音が重なり合う日を一緒に迎えましょう」と誓う。
第十九章 再び東京駅の雑踏へ
汽車に揺られながら、幹夫は父が小屋から出してくれた“開墾期の詩”を脳裏に浮かべ、紙に宿る声について考える。静岡でも東京でも、紙は人の想いを繋ぎ、軍の手をかわす武器にもなる――まさに風鈴のように、小さな音でも確かに存在する。 東京駅に降り立つと、再びあの雑踏と軍服の人波が押し寄せる。幹夫は軽く深呼吸し、「帰ってきた」と心でつぶやいた。 いつもの下宿へ急ぎ、鍵を開けて部屋へ入ると、そこには変わらぬ二つの風鈴。幹夫はかすかな期待を抱き、窓を開け放って風を通す。 チリン……チリン……と小さな重なりの音がすぐに聞こえ、幹夫は思わず笑みをこぼす。「ただいま、東京――また君たちと一緒に踏み止まろう」
第二十章 印刷所の今後
翌日、印刷所へ出勤すると、堀内や戸田が真剣な顔つきで打ち合わせをしている。「あ、幹夫が戻ったか」とすぐに近寄ってきた。 「こっちは順調だ。学校との契約も進みそうで、社長が大喜びだ。ただ、軍の偵察みたいな動きはまだ消えてないらしく、念には念を入れないとな」と堀内が伝える。 戸田も紙の束を見せながら、「幹夫君が戻ったなら、これから教科書の試作印刷を手伝ってほしい。民間印刷を無事に定着させれば、軍からの依存度をさらに減らせるはず。君が静岡から持ち帰った茶畑の話も載せたいな」と笑う。 幹夫は「父がさらに古文書をくれたので、それを題材にしてもいいかもしれません」と提案する。こうして印刷所の新たな仕事へ、また一歩踏み出せそうだ。
第二十一章 ビラの余韻
夜、幹夫は作業を終えて工場裏を歩いた。すると先日同様、地面に小さな紙切れが落ちているのが目に留まり、思わず拾い上げる。 「まだ紙ヲ貰エル余地アルカ 次回モ同ジ場所」 短い文面に血の気が引く。やはりビラの勢力が継続して動いているのだ。幹夫は迷うが、このまま誰にも相談せずに紙を渡すのは危険すぎる。堀内や戸田、そして社長を裏切る行為かもしれない。 しかし、ビラが完全になくなれば軍がいよいよ大手を振って進撃するかもしれない――そんな恐れも捨てきれない。 幹夫は苦悩の表情を浮かべながら、紙をポケットにしまい、「父さんならどう答えるだろうか」と自問しながら下宿へ戻った。
第二十二章 二つの風鈴、再び
部屋の扉を開け、二つの風鈴に目をやると、窓から湿った夜風が吹き込んだ。幹夫は黙って荷物を置き、風鈴を手のひらで軽く揺らす。 チリン……チリン…… 静かに重なり合う音が、すぐに闇へと溶けていく。幹夫は目を閉じ、短い余韻に集中する。静岡の父が戦う姿と、東京で踏み止まる仲間の顔が浮かぶ。どちらも軍と真っ向勝負できるほどの力はないが、紙を介して時間を稼ぎ、人々の意志をつなぎ止めている――そう信じているのだ。 「俺はもう少しここで協力して、小さな声を失わないようにしよう。父さん……、いつか本当に二つの鈴が同時に大きく響く日は来るよね」 自問の言葉に答えはない。しかし、幹夫には確信があった。たとえこの昭和の夜がどんなに深くても、茶畑の緑やビラの声、そして二つの風鈴を続ければ、必ず道は開ける。
エピローグ
こうして幹夫は再び東京の印刷所で日々を送り、父が守る静岡の茶畑には小冊子が届き、陳情が続き、軍の魔手はまだ途切れずに伸びている。戸田は印刷所の経営を軍一辺倒から転換しながら、裏ではビラの火種を絶やさぬように細心の注意で立ちまわる。堀内や社長も命懸けで工場を支え、職人らを守る――いずれも、いつ破綻してもおかしくない綱渡りだ。 だが、小さな風鈴が鳴れば、東京と静岡が音を重ね合うように響き合う。紙がつなぐ歴史と声は、一夜にして消え去るものではない。 幹夫はいつか静岡の町が飛行場拡張を食い止め、東京の印刷所が軍の束縛を逃れて自由な紙を刷れる時代を夢見ている。そこには二つの風鈴が高らかに鳴り響くかもしれない――そんな願いを抱きしめ、今日もまた短い音を聴きながら踏み止まるのだ。 昭和の深い夜はまだ続くが、かすかな鈴の調べは確かに彼らを導き、混沌の中で小さな光を宿していた。





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