緑走る台地 ~迷い~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月5日
- 読了時間: 5分
第一章 迷いの真夜中
取り調べを受けた翌日から、幹夫は奇妙な緊張を抱えながら日々を過ごすようになった。印刷所の社長や堀内も表向きは普段と変わらぬ様子を装っているが、ふとした瞬間に交わす視線には警戒と不安が滲む。 「いつまた警察に呼び出されるか分からない。いや、今度は突然踏み込まれるかもしれない……」 そんな思いが心を苛むなか、幹夫は夜ごとに下宿で眠りの浅さと戦い続ける。 ある晩、とうとう眠りにつけないまま、夜半すぎに布団を出て風鈴の下へ立った。かすかな風でも鳴るはずの風鈴は、今宵も沈黙を守っている。 「どうすれば……」 ふいに瞼を閉じると、いつか井上が言った「声を上げなければ何も変わらない」という言葉が胸を締めつける。だが今は声を上げれば、周囲に取り返しのつかない被害が及ぶ可能性もある。命を賭す覚悟だけでは乗り越えられない現実が、眼前に突きつけられていた。
第二章 社長の苦悩
翌朝の印刷所。機械の起動音が高まるなか、社長は眉間に皺を寄せて軍の注文分のスケジュール表を睨んでいた。 「厳しい納期をよくこんな短期間で……。戦地向けのパンフレットを追加で刷れって言うんだが、資材も時間も足りん」 堀内がそっと声をかける。 「軍部はいつでも上から物を言いますから。断れば店が潰れる、引き受ければ心が潰れる——どちらにせよ厳しいですね」 社長は苦い顔で小さく頷き、幹夫にも目を向けた。 「おまえらには迷惑かけてばかりだ。だが、どうしようもない……今は国に逆らえばどうなるか。俺には家族もいるし……」
幹夫はその言葉に何度もうなずく。反戦ビラを刷った疑いを晴らすためにも、軍からの大口注文をこなすしか道がないのだ。だが、こなすたびに軍拡の一端を支えてしまっているという葛藤が、まるで喉に刺さった骨のように痛んでいた。
第三章 噂話
昼下がり。作業の合間にトイレへ向かうと、通路の奥で二人の職人が小声で噂話を交わしているのが聞こえた。 「……なんでも、あの取り調べのあとも警官が外をうろついてるとか。怪しい奴がいれば連絡しろって言われたって」 「そりゃあ、反戦ビラの一件に限らないんだろう。最近はどこも統制が厳しくなってるし……」 足音を立てると、二人はぎくりとして振り返る。幹夫と目が合うや否や、気まずそうに押し黙ってしまった。 (やはり印刷所はまだ疑われ続けている……) 感じていた不安が、じわりと現実味を増す。いつ通報されてもおかしくない状況下で、今ここにいる自分の姿に身震いを覚えた。
第四章 知らせ
その夜、下宿へ戻った幹夫は玄関で声をかけられた。下宿の主人が顔を出し、小さな封筒を手渡してくる。 「幹夫さん宛に、さっき男の人が持ってきたよ。知り合いかい?」 封筒には宛名も差出人も書いていない。不穏な気配に胸を高鳴らせながら、部屋へ急いで封を開く。 「幹夫、山岸から井上の消息が届いた。彼は依然として危険な活動を続けており、当局が執拗に捜索している。ビラの印刷拠点も密かに移動しているそうだ。油断するな。——友より」
「山岸……! 井上はまだ……」 幹夫は息をのみ、手紙を握りしめる。ビラ活動を継続する彼らは、かろうじて捕まらずにすんでいるらしい。ならば物資や協力を再び求められる日が来るかもしれない。 (でも、今は……どうすればいい? 俺が援助しても、その瞬間に印刷所が危ない。堀内さんや社長にも迷惑がかかる。父のことだって、まだ……)
第五章 記憶の緑
深夜、枕もとに置いた写真立てを見つめる。そこには今や消えかけた牧之原台地の緑が刻まれ、まだ平穏だった父の姿が映っている。 「もし今の状況を父さんが知ったら、何て言うだろう……」 かつて父は、茶畑を守るために小さな抵抗を続けると誓った。どれほど周囲に批判されようとも、自分の信念を曲げないと。 幹夫はふと思う。今の自分はどうだろう。取り調べで仲間を裏切らずに済んだのは幸いだが、それを誇れるほど行動をしているわけでもない。**「中途半端」**という言葉が胸を刺す。 雲間から差し込む月光が畳を薄白く照らす。その光に混じるように、風鈴が“チリ……ン”と儚げに鳴った。
第六章 動き始める影
翌日、仕事を終えて印刷所を出る頃、堀内が幹夫に近寄ってきた。 「気をつけろ。どうも最近、同じ男が何度も工場の外でウロついている。いかにも尾行してますって雰囲気だ」 堀内は掠れた声で続ける。 「社長も妙に落ち着きがなくなってる。今朝なんか、警官が裏口に回って何か訊いていたらしいし……。もし俺たちがまだ疑われてるんだとしたら、下宿も注意したほうがいい」 幹夫は寒気を覚えながら頷いた。ここで不自然な行動をすれば、たちまち踏み込まれるだろう。物資の持ち出しなどもってのほかだ。 「……ありがとう、堀内さん。気をつけます」
街頭に出れば、春めいた空気に乗って人々のざわめきが広がりつつある。だが、世間の浮ついた空気の裏側で、軍と警察の統制力は次第に狭まっていく気配だ。**“嵐”**が、一歩ずつ近づいてくる。
エピローグ
夜、下宿で幹夫は風鈴の下に座ったまま、静かに呼吸を整えている。胸に去来するのは、仲間を裏切る恐れ、父の嘆き、そして誰よりも自分の未熟さへの苛立ちだ。 「わずかな風でも、この鈴は鳴ってくれるんだよな……。なのに、俺はこんなに身動きが取れなくなって……」 幹夫はそう呟きながら、ほんの少し風鈴を揺らしてみる。すると、頼りなげな音がピンと跳ね、しばしの間、小さな波紋を部屋に描いた。 「こんな音しか出せなくてもいい。今は耐え、そして動くときが来たら……」
遠くから吹いてきた微かな春の風が、春の訪れを告げるかのように——それは士族の誇りと父の精神を宿し続ける幹夫に、もう一度問いかけている。 果たして、牧之原の緑は再び蘇るのか。井上たちの声は、国の重圧に屈せずにいられるのか。答えはまだ、昭和の暗雲の彼方に隠されている。 だが幹夫は、小さな風鈴の響きを聞きながら、いつかこの国が春を迎える日を信じ続けるしかなかった。
——(続くかもしれない)





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