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緑走る台地 ~静岡の空気~

第一章 父の快復と静岡の空気

 昭和六年(1931年)末、幹夫は過労で入院した父・明義を見舞うため、一時的に東京から帰郷していた。父の容体は危篤こそ免れたものの、全快にはまだ時間が必要だという。 病室には母と祖母も詰めており、幹夫は夜間に交代で看病しながら、久しぶりに家族との時間を持っていた。昔から頑固に武家の威厳を語っていた祖母も、ベッドのそばで静かに父を見つめている。その背中はどこか小さくなったように見えた。

 「父さん、だいぶ顔色が戻ってきたね」 幹夫が声をかけると、明義は枕元から微笑みを返す。 「まだ少し胸が苦しいが……医者の言う通り、休むしかないらしい。産業振興課も人手が足りんのに、皆には迷惑をかけるなあ」 言葉の端々に、県の経済対策が思うに任せないもどかしさがにじむ。幹夫はそんな父を間近で感じ、東京との落差を痛感する。国では軍拡の風潮が強まる一方、地方では依然として金融不安と不況の波が収まらないままだ。

第二章 茶畑の夕暮れ

 病院での看病の合間に、幹夫は久々に家の周りを歩いた。小高い場所から見下ろす静岡平野には、冬枯れの茶畑が淡く茶色の彩りを帯びている。かつて芽吹く緑を眺めながら抱いた「地元を世界に繋ぎたい」という夢が脳裏をかすめる。 実際、満洲事変を機に軍部が台頭してからは、清水港の輸出関連も軍需物資の扱いが増えるのではないかという噂が広がっている。幹夫の幼いころからの誇りだった“お茶の輸出”が軍備拡張の後ろに追いやられてしまうのではないか……そんな不安が胸をよぎった。

 すっかり夕陽が落ちた頃、遠くから鐘の音が聞こえる。町からの風に乗って、昔ながらの家並みの匂いが漂ってくる。幹夫は息をつき、胸に問いかける。 「東京に戻ったら、何をするべきだろう。軍拡へ突き進む流れを変えられるのか?」

第三章 旧友との邂逅

 帰郷中に、幹夫は旧制中学の同級生たちとも久しぶりに顔を合わせた。町の食堂で開かれた小さな同窓会には、茶問屋を継いだ者、銀行に就職した者、教師を目指す者など多様な顔ぶれが集まる。 談笑が弾むうちに、自然と話題は国の情勢へと移っていった。 「浜松の楽器工場が、軍に納入する製品の試作を始めたって話を聞いたぞ。どうやらプロペラや訓練用の器具なんかを受注しているらしい」 「銀行の上司も、『国に協力する姿勢を示さねばならん』と言い始めた。なんだか不気味だよ」

 茶問屋を継いだ友人は、居心地悪そうに眉をひそめる。 「茶の輸出は欧米の不況で落ち込んでるし、国内需要も伸びない。だけど軍が新しい植民地を開拓すれば需要が生まれるっていう意見も出てるんだ。正直、俺は複雑でね……」

 幹夫は沈黙し、拳を握りしめた。軍拡への期待が高まるほど、民間の経済論理や庶民の暮らしは“戦争ありき”の前提に組み込まれてしまう。かつて静岡の人々が努力を重ねて育てた茶産業や工業が、いずれ軍需の歯車と化すかもしれない――その恐怖が彼の胸を押し潰すようだった。

第四章 父の小言

 父の病状は徐々に快方へ向かい、食事も摂れるようになった。夜の面会時間に合わせ、幹夫は病室で父と語る。あるとき、父がぽつりと漏らした。 「国の上層部から、県にも『軍の方針を支援せよ』という空気が強く漂ってきている。予算や人員を“国益”のために動員せよ、という圧力だ。まるで大正が築いた地方自治や民主政治がなかったかのように……」 父は悔しそうに微笑む。 「しかし、わたしがいくら憤ったところで世間の流れは変わらないかもしれない。だからこそ、おまえの世代が声を上げることに期待しているんだよ。おまえが東京で学んでいること、いずれ静岡を含む日本全体にとって意味があるはずだ」

 幹夫は、その言葉に一瞬言葉を詰まらせる。自分に何ができるのか、いまだに明確な答えはない。しかし、父のまなざしには確かな願いが宿っていた。いずれ戦争が拡大すれば、地方の農村も工場も巻き込まれていく。そのとき、幹夫が何を見て、どう行動するか――それが大きな分岐点になるかもしれない、と。

第五章 祖母との会話

 病室を後にした幹夫は、家の囲炉裏端で祖母と向かい合う。かつては士族のしきたりを重んじて厳しく接していた祖母も、今では幹夫の判断を尊重するようになっていた。 祖母は火箸を弄りながら、ぽつりと漏らす。 「近頃は、昔の刀を手入れすることもなくなった。おまえが小さい頃は、武家としての誇りばかり口にしていたが……まったく、時代というのは勝手なものだね。いまの世の中でこそ、刀を振りかざす人間は増えているが、それが良い方向に向くとは限らん」

 幹夫は静かにうなずく。満洲事変を契機に、まさに「刀(武力)」が讃えられるような風潮が広がっている。それが祖母にとっても喜ばしいことではないのだという事実に、幹夫は複雑な安堵を覚える。 「祖母ちゃん……もう少し父さんを看病したら、東京へ戻ろうと思う。井上も待ってるし、大学にも席がある。それに俺が学ぶことを、父さんも望んでいるから」 それを聞いて祖母は寂しそうに目を伏せるが、すぐに軽く頷いた。 「東京で何をするかはわからぬが、おまえが生きてきた意味を見失わんようにね。士族の血筋だとか、そんな形式だけにとらわれず、困っている人やおまえの大切なものを守れるような道を探しなさい」

第六章 旅立ちの朝

 昭和七年(1932年)の声が聞こえはじめる頃、父は医師の判断で退院できるまでに回復した。無理をしなければ平常の生活に戻れるという。幹夫は胸をなで下ろし、また東京へ向かう決心をする。 帰りの支度を整えた朝、玄関で祖母と母に見送られ、父は杖を突きながら幹夫の肩を軽く叩いた。 「すまないな。おまえが落ち着いて勉強できるようにと願いながら、何かと世話をかけてばかりだ」 「そんなことないよ、父さん。むしろ……俺はまだ何もできていない」 幹夫は首を振る。父のように地方の現場を支えるわけでも、井上のように政治運動を先導するわけでもない自分が、ただ学んでいるだけでいいのかと自問が絶えない。

 しかし、父はやや厳しい眼差しで言葉を継ぐ。 「学ぶだけで十分だ。知識をつけて視野を広げろ。いずれ日本がどう変わろうと、静岡がどう巻き込まれようと、おまえが見つめ続けてきた“人の暮らし”を守る術は必ず必要になるだろうからな」 幹夫はその言葉に胸を打たれ、深く頷いた。

エピローグ

 再び幹夫を乗せた汽車が東海道を走り出す。車窓に流れる富士の裾野はまだ冬枯れの色合いだが、やがて訪れる春には緑を宿すだろう。 幹夫は重い鞄の中に、父から譲り受けたノートと、祖母がこっそりしのばせた懐紙を感じる。古い武家の誇りも、新時代の知恵も、すべて詰め込んだまま東京へ――。 晴れるか嵐かもわからない未来を前に、それでも幹夫の心には確かな意志が生まれ始めていた。井上や東京の仲間たちと共に声を繋ぎ、自分が学んだことをいつか故郷へ返したい。大正デモクラシーの名残と昭和の激動に揺れる日本で、それこそが自分の果たすべき役目かもしれない、と。

 彼の視線の先には、満洲や欧米、そして故郷の牧之原。 すべての場所が混ざり合う時代の只中で、 緑走る台地の少年は再び大都市へと旅立っていく——。

 ——(続くかもしれない)

 
 
 

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