緑走る台地 ~2つの音~
- 山崎行政書士事務所
- 2025年5月6日
- 読了時間: 5分
第一章 急な呼び出し
それから幾日かが過ぎた梅雨のある朝。 幹夫が印刷所の門をくぐり、機械の準備をしようとした瞬間、社長の甥だという若い書生が血相を変えて走ってきた。 「幹夫さん、すぐに社長室へ来てくれとのことです!」 慌ただしい呼び方に胸がざわつく。最近、社長は家族の看病であまり工場に顔を出せていないはずだが、何事だろう。幹夫は書生の後を追い、工場奥の小さな社長室へ足を運んだ。 そこにいたのは顔色の悪い社長だったが、どうやら様子がおかしい。書類を握りしめ、ふるえた声で切り出した。 「幹夫……大変なんだ。今度、軍の上層部から“工場への抜き打ち視察”があるという情報を得た。普通の検査じゃない――もっと厳格な、上官が直接来るらしい」 幹夫は思わず息を呑む。単なる巡回ではなく、軍の幹部が直々にやって来るとなれば、下手な粗相は命取りだ。
第二章 工場の狼狽
社長が幹夫に向けて話す間、工場内は職人たちにも緊張が広がっていく。噂が瞬く間に回り、「そんな大がかりな検査、何を探ろうとしているんだ?」とざわめきが止まらない。 昼の作業を終えかけたころ、堀内が溜め息交じりに幹夫を横へと引き寄せた。 「これは本気でやばいかもしれない。もし過去に“在庫一掃”が行われていた形跡や、紙の持ち出しの痕跡が見つかれば、一気に疑いの目が向けられるだろう。社長だって守りきれないかもしれない……」 幹夫の胸に冷たいものが走る。前に山岸たちが廃材をまとめて持ち出した際、完全に消したはずだが、何か手がかりが残っている可能性は否定できない。 「あの日以来、廃材置き場は管理が厳しくなったけど……一度すべて掃き清めたんだ、痕跡はないと思いたい」 堀内は薄く笑っているが、その瞳はどこか悲壮だ。
第三章 周囲の引き留め
工場の各所で職人たちが「このままじゃ警察に捕まるかもしれない、逃げたほうがいいのでは」と、ひそひそ話す声が漂う。辞める人が今以上に増えるかもしれず、社長も心細げに頭を抱えている。 幹夫も前々から「静岡へ戻るべきかもしれない」という囁きが心をよぎっていた。けれど、いま抜け出せば、自分が隠してきた“紙の声”やビラの記憶がすべて社長や堀内の責任にされるだろう。 昼休みの奥まった倉庫で、幹夫は書類に目を走らせながら眉を寄せる。静岡からの父の手紙には「町の人々が協力しはじめた」と書かれていたのに、東京では逆に追いつめられる一方だ。 (井上たちが活動再開する気配もないまま、今度の抜き打ち視察で工場が詰んでしまうんだろうか……) 気づけば指先が風鈴の錆を探るかのように、無意識に鞄のポケットを弄っていた。
第四章 静岡からの電報
その晩、下宿へ戻った幹夫は、ポストに一通の電報を見つけた。差出人は**「静岡」**。胸が高鳴り、すぐに破って読む。 「町役場賛同者増エ 飛行場拡張反対ノ陳情ノ準備整フ 幹夫再ビ戻リ 助力乞フ」 短い文面だが、父が本当に大きく動き出したと分かる。これは幹夫を強く呼び戻そうとしている兆し。 「ここで帰ったら……印刷所はどうなる……。でも父さんが動くなら、俺が助けるのが一番効果的かもしれない」 幹夫は部屋の椅子に崩れ落ちるように座り、頭を抱え込んだ。すべての問題が一挙に押し寄せている気がして、息が詰まる。二つの風鈴が窓辺で静かにぶらぶら揺れ、黙して語らない。
第五章 堀内との別れ
翌朝、印刷所へ赴く途中、幹夫は堀内に声をかける。「ちょっと話があります」。人気のない工場の裏へと回ると、昨夜届いた電報のことを打ち明けた。 「父が本格的に飛行場反対の陳情を起こそうとしている。俺に戻れと言ってきた。けど、このタイミングで工場を離れたら、堀内さんや社長に迷惑をかけてしまう……」 堀内はしばらく沈黙し、それから目を伏せて言う。 「幹夫、おまえはこれまで十分すぎるほど踏み止まってくれた。正直、ありがたかった。でも、父さんが呼ぶなら、おまえこそ行くべき時なのかもしれない。俺らは俺らで、最後まで踏み止まるよ」 その言葉に胸が熱くなる。決して堀内が「行ってくれ」と言っているわけではない、けれど「おまえが本当に帰りたいなら止めない」という誠実な想いが滲んでいた。
第六章 風鈴の鳴る朝
夜が明け、出勤前に下宿で荷造りのような片付けをしてみた幹夫は、二つの風鈴をそっと触れ合わせてみる。 チリン……チリン…… ちょっとした風の合間に、二つの鈴が絶妙に揺れ合って、いつもよりはっきりとした響きを奏でる。幹夫はその音色に胸を衝かれ、思わず涙が浮かぶ。 「東京の風鈴と、静岡の風鈴が……こんなに綺麗に響くなんて」 自分の葛藤をなぞるように、二つの鈴が重なり合い、やがて音は静かに消えていく。ここを離れるのか、まだ留まるのか――依然として簡単には決められない。 (印刷所が軍の検閲に耐えられず潰れてしまえば、俺の踏み止まりは何だったのか。だけど父が呼んでいるなら……) 迷いと希望が交錯する中、幹夫はゆっくりと息を整え、印刷所へ最後かもしれない一歩を踏み出した。
エピローグ
昭和の苦悶を背負ったまま、朝の光にかすかに映える二つの風鈴は、幹夫の背中を見送るように揺れを止める。 「東京と静岡、二つの音。いまは選ばなければならないかもしれないが、いつか同じ調べを鳴らす日が来るなら……」 幹夫の心に忍び込むのはそんな祈りだった。軍の抜き打ち視察が近づき、父の陳情準備が進み、物語の糸は交錯を深める。 かすかな風が通り過ぎ、鈴は再び黙して語らない。けれどその静かな存在が、幹夫の歩みを見守っているのは確かだ。何もかもが絡まりあったこの昭和の時代に、小さな音を抱きしめながら、彼はどの道を選ぶのだろうか。
——(続くかもしれない)




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