花壇の匂いと劇場の影――バーデン=バーデン・ゲーテ広場のやさしい午後
- 山崎行政書士事務所
- 2025年9月16日
- 読了時間: 3分

バスを降りると、空がひとつ大きく開けた。正面に蜂蜜色の劇場がどん、と座っている。切妻のレリーフには古典の登場人物がぎゅっと刻まれ、アーチ窓の白い縁取りが夏の雲をすこし分けてもらって輝いていた。前庭の芝はアイロンをかけたみたいに平らで、花壇のピンクが広場をゆっくり温める。ここがゲーテプラッツ、温泉の町の中心でいちばん背筋の伸びる場所だ。
最初の“やらかし”は、ベンチに腰を下ろしてすぐ。ポケットから出した小銭が指をすり抜け、石畳の上をコロコロ。追いかける私より早く、キックボードの少年がつま先でそっとストップしてくれた。「Danke!」と頭を下げると、お母さんがバッグから小さなグミを出し、「halb-halb?(半分こ?)」。私も持っていたのど飴を半分に割って返す。砂糖の交換だけで、知らない町の午後がすこし身近になる。
劇場の柱の影に移動して、絵はがきを書こうとしたら二度目の“やらかし”。風がぱらりとページをめくって、書きかけの「Liebe…」が行方不明。通りがかった地元の紳士が胸ポケットからクリップをひとつ差し出し、はがきの角を留めてくれた。「Lichtentaler Alleeを歩くといいよ」と地図にやわらかい×印まで描いてくれる。旅先の知恵は、だいたい文房具の顔をして現れる。
劇場わきの売店で買ったミネラルウォーターを開けたとたん、三度目の“やらかし”。炭酸の勢いでシャツに一滴。あっ、と固まる私に、店員の女性が炭酸水で湿らせた紙ナプキンを渡し、「トントン、こすらない」。指のリズムに合わせると、しみも気持ちもすぐに薄くなった。お礼にプレッツェルを買うと、端っこを半分にして彼女が笑って差し出す。「Für Glück」。塩の粒が歯に当たる音が、広場の明るさとよく合う。
しばらく芝生の縁を散歩していると、劇場の正面で結婚写真を撮っているカップルに遭遇。風でベールがふわりと舞い、カメラマンが困った顔。私は帽子のゴムを外して、端を八の字にひと留めする手つきを見せると、付き添いのおばさまが手早くヘアピンで代用して留めてしまった。「Basta poco…じゃなくて、Es braucht nicht viel」。世界中どこでも、風と仲直りする方法はだいたい同じらしい。
夕方が近づき、正面の扉に当日券の紙が貼られた。せっかくなので、いちばん端の席を一枚。入口でQRをかざすと、また小さな“やらかし”。画面が暗い。係のマダムが無言で私のスマホを最大輝度にして、「Bitte」と微笑む。中に入ると、ロビーには温泉帰りらしい人たちのタオルの石鹸の匂いがほのかに混じっていた。
幕が上がると、音が天井のレリーフをなぞってから客席に降りてくる。隣の席の老紳士がオペラグラスを半分の時間貸してくれた。私は代わりにプレッツェルの残りをちぎって半分。分け合った視界と塩気で、音楽が少しやさしい。休憩時間、グラスを返しに行く途中、子どもが靴ひもを踏んで困っていた。私はしゃがみこんで八の字の結びを作ってみせる。彼はまじめな顔で頷き、立ち上がって一歩――ほどけない。小さな拍手が一つ、母親の手から落ちた。
夜風が出てきた。外へ出ると、劇場の明かりが花壇の花を蜂蜜色に染めている。今日のポケットメモを書き足す。・転がる小銭はつま先でストップ。・風にはクリップと八の字。・しみは炭酸水でトントン。・いいものは半分こにすると、町が近づく。・画面は最大輝度、挨拶はDanke。
バーデン=バーデンは、豪華な劇場と温泉の町だけれど、いちばんよく効くのはやっぱり小さな直し方だ。結び目を作り、指先でトントンと叩き、塩気を分け合う。次にまたこの広場を訪れたら、私はきっと同じ準備をする。そうすれば劇場はまた、芝生の匂いと拍手のあいだで、今日みたいにやさしく鳴るはずだ。





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