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若き茶の香(か)に息づく




第一章 士族の家

 陽の光が障子をやわらかく透かしている。畳に正座する少年の姿があった。名を伊藤幹夫という。13歳。 幹夫の父・伊藤親房は元幕臣の家柄を誇り、今は静岡県庁に勤める官吏である。朝の居間に差し込む光の中で、親房が新聞を読みながら眉をひそめた。「桂内閣が倒れたか……。まったく、東京は騒がしいな」 幹夫は机の端で背筋を伸ばしたまま、父の言葉に耳を澄ます。家臣を抱える旧藩のような厳粛さが今もなお漂うこの家では、13歳の少年とはいえ、家長が口を開けば雑談でも耳をそば立てねばならない。 ふと目線を動かすと、母・雪江が茶碗を運んでいるのが見えた。母は一礼すると、父に静かに言う。「お暑うございますが、今朝も馬場へいらっしゃいますか?」 静岡城址近くにあった馬場(馬術場)へ出かけるのが父の習わしだった。武芸を絶やさぬためだという。「うむ。士族たる者、身体を鍛えねばならん。幹夫、お前も来い」 父の言葉に幹夫はどきりとした。乗馬の鍛錬は苦手ではないが、それ以上に父の無口で厳格な雰囲気に、未だ圧倒される。それでも幼い頃から叩き込まれた作法ゆえ、幹夫は畳に手をついて頭を下げる。「はい、お供いたします」 こうして、士族の家に育った幹夫の一日は、古風な武家の名残とともに始まる。

 幹夫の家には兄姉が七人いる。末っ子である幹夫は、誰に対しても礼儀を忘れてはならない。朝稽古を終え、縁側に腰を下ろすと、女学校を出たばかりの三姉・文江がすれ違いざま声を掛けた。「幹夫、また『少年倶楽部』読んでるの? そんなハイカラな雑誌ばかりにうつつを抜かすと、お父様に叱られるわよ」 幹夫は胸の中で舌を出す。『少年倶楽部』には壮大な冒険物語が載っている。父や兄たちは漢籍や軍事学の書ばかりだが、幹夫はこの新しい雑誌の紙面をめくるたび、外の世界に想像が広がるのを感じた。 表紙を隠すようにして幹夫は笑う。「大丈夫だよ、姉さん。隠してるからばれないさ」「まったくもう。姉さんに見つかったら同じことだけどね」 文江はくすっと笑うと、畳を足早に進んでいった。閉鎖的な士族の家とはいえ、わずかな隙間から外の風が吹き込む気配がする。そんな感触を、幹夫は心のどこかで好ましく思っていた。

第二章 新しい学び舎

 大正三年の春、幹夫は旧制静岡中学へ進むことになった。幹夫は若干緊張しながらも、期待に胸を弾ませていた。 入学式の日、玄関を抜けるとすでに生徒らの活気ある声が聞こえる。袴姿の者、洋服を着た者、寄せ集まった少年たちは皆、これから始まる学生生活に胸を膨らませている。 校門をくぐってすぐ、見覚えのある人影に気づいた。「伊藤くん、久しぶりじゃな!」 声を掛けてきたのは、以前幹夫が尋常小学校で世話になった教師・浅井卓磨である。浅井は大正デモクラシーに強く共鳴し、子どもの自主性を重んじる教育を説いていた。今回、中学の社会科教師として赴任したらしい。「浅井先生! また先生に習えるなんて嬉しいです」 幹夫は心からそう思っていた。浅井には木石のような父親にはない柔らかさがある。だが浅井は笑みを浮かべながらも小声で言う。「中学は小学校よりも規律が厳しい。君たちの自由な議論を大人が警戒するかもしれない。けれど、恐れずに自分の考えを持つことが大事だよ」 幹夫はまだ完全には意味を理解できずにいたが、浅井の言葉の調子だけは胸を打った。校内に響く開式の鐘の音が、新しい人生の序曲を告げていた。

 幹夫が中学校に入り、最初に目を留めたのは新聞部の掲示だ。生徒が発行する「壁新聞」が廊下の一角に貼り出され、政治や社会問題を論じた記事も載っている。(こんな場所で政治のことを語っていいのだろうか……) 幹夫は士族の家で育った身ゆえ、政治は偉い人が行うもので、口にするのははばかられるものと思っていた。だが思わず足を止めて読むうちに、「普通選挙」「護憲運動」など見慣れない言葉が並び、世界が広がるような気がする。 そこへ、声を掛けてきた少年がいた。「興味あるのかい? これ、面白いよな。俺は河合千之助。浜松の出身だ」 河合千之助は、丸刈り頭の朗らかな少年で、聞けば父親が浜松の楽器工場で職工長をしているという。「うちの親父はオルガン作りが天職だって言ってるよ。俺も機械いじりが好きでさ」 幹夫は驚きの目を向ける。オルガンやピアノを作るなんて遠い世界の話だと思っていた。「すごいね、そんな仕事があるんだ。わたしはただ、家で漢詩やって馬術をやって……」 自分の生活が古い殻に閉じこもっているようで、千之助が新鮮に映った。二人は意気投合し、すぐに仲良くなる。古風な士族の家と、ものづくりの職人の家――まったく違う環境に育った少年たちの出会いは、幹夫にとって刺激に満ちていた。

第三章 激動のとき

一 米騒動の衝撃

 大正七年(1918年)夏、静岡市内を大きなうねりが襲った。米価の高騰に憤った民衆が次々と集まり、市街地で騒動を起こしたのだ。 夜更け、家に戻ってきた父・親房は険しい表情のまま着物を脱ぐと、幹夫に言った。「今夜は外出禁止だ。市内の米屋が襲撃されている。警官隊も出ているが、まだ火の手は収まらん。戸締まりをしっかりな」 母や姉たちも、不安に包まれた様子で窓を閉めて回っている。 幹夫は胸がざわついた。この街がそんな騒ぎになるとは思わなかった。士族の旧家である自分の家も、「富裕層の味方」などと見なされれば、襲われるかもしれない。 窓の隙間から外を覗くと、路地の奥にたいまつのような灯りが見える。ごうごうと男たちの怒声と人の往来が遠くから聞こえ、胸の奥が締めつけられるようだった。(民衆が声を上げる時代……。浅井先生が言っていたのは、こういうことなのか?) 翌日、中学に行くと友人たちの口からも衝撃の言葉が飛び交っていた。「昨日、実際に米屋が破られた」「警官が負傷したらしい」。幹夫はただ黙って聞いていたが、その実態を目の当たりにできなかった悔しさと恐怖が入り混じり、自分がまだ何も知らない子どもだということを思い知る。

二 静岡中学での演説会

 米騒動から少し経ったころ、静岡中学ではある特別講演会が催されることになった。登壇者は地元選出の若き代議士・松本公平。大正デモクラシーの立役者の一人として名をはせ、普通選挙や婦人参政権を掲げる人物だ。 講堂の壇上に立った松本は、柔和な笑みを浮かべながらも、はきはきと響く声で言った。「政治というのは高いところにいるお偉方だけのものではありません。これからは全国民、みなが声を上げ、意思表示していく時代です。米騒動が起きた背景にも、民衆の中にくすぶる思いがありました。何も暴れるだけが手段ではありません。立憲政治の下、我々には意見を通じる方法がある。それが普通選挙なのです」 中学生たちは初めて見る“演説”に目を丸くしていた。一方、幹夫は熱に浮かされたように聞き入る。 (政治は一部の人だけが担うもので、自分のような少年には関係ないと思っていた。でも、この人の言葉を聞くと……いや、そんなことはないのかもしれない) 彼の胸の奥で何かが弾けた。浅井先生が密かに目を潤ませながら頷いているのも見えた。幹夫はこの日以来、新聞の政治面を読むようになる。家では父に悟られないようにこっそりと。

第四章 浜松への旅

 大正九年の夏休み、幹夫は親戚を訪ねる目的で浜松へ向かった。そこには、同級生・河合千之助の父が職工長を務める楽器工場がある。千之助の誘いもあり、ぜひ一度見学してみたいと思ったのだ。 浜松の町は静岡よりも工場が多く、機械の音がざわざわとあちこちから響いてくる。千之助に連れられて工場の門をくぐると、木の香りと金属の油の匂いが混じり合った独特の空気に包まれた。「こっちが調律室、ここではピアノの音色を整えているんだ」 千之助の説明を聞きながら奥へ進むと、並べられたピアノがまるで黒い馬車のように神秘的に光っている。 ひとりの職人がふとこちらに気づいて笑った。「千之助の友だちか。見学に来たなら遠慮なく見ていけ。これが日本のオルガン、ピアノだぞ。世界にも負けないようなものを作らなきゃならん」 幹夫はいつしか息を詰めていた。未知の世界だった機械と洋楽器の製造現場。士族の屋敷町とはまるで空気が違う。「すごいなあ……。こんな大きな楽器を、一つひとつ手作業で作ってるのか」 千之助は得意そうに笑う。「俺は将来ここに入って、親父の技術を継ぎたいんだ。幹夫はどうするんだ? お前は何になりたい?」 問いに答えられない自分がいた。幹夫はただ、機械のリズムに合わせるように脈を打つ心臓を感じるばかりだ。(自分もいつか、こんなふうに誇れる仕事を持ちたい……)

第五章 農村の夏

 大正十一年の夏、幹夫はさらに奥の農村部にいる親類を訪ねることとなった。母方の叔父が小さな村で教員をしているのだ。 ここで幹夫は、農村青年団を率いる北村元春という人物と出会う。北村は差別に苦しむ被差別部落の集落にも出向き、生活支援や子どもたちの勉強会を行っていた。 ある夕暮れ時、幹夫は北村に誘われ、農道を歩いた。足元の田んぼには水が張られ、夏の陽がまだ赤く残っている。「幹夫くん、農村の子はあまり学校へ行けないことも多い。けれど、みんな学びたいと思っている。それを支援するのが俺たち青年団さ。政治がどうとか、新聞がどうとか、まだ現実は遠い。けれど声を上げれば、少しずつ変わると思うんだ」 北村の顔は汗にまみれながらもどこか誇りに満ちていた。幹夫は米騒動を思い出す。あのとき感じた恐怖と同時に、人々の叫びの大切さを思った。「……父は県庁の役人です。けれど、僕はただ一度も、こういう現場を見たことがありませんでした。士族の家の末っ子として甘えてばかりで……」 北村は笑った。「士族だろうが農民だろうが人間はみな同じ。志さえあれば、自分の置かれた場所からでも動き出せる。幹夫くん、君ならできるよ」 幹夫の瞳に、真っ直ぐな夕陽が差し込む。何か揺るぎないものが胸に芽生えるのを感じた。

第六章 家族の岐路

 大正十二年が終わろうという頃、幹夫の家では大きな出来事が相次いでいた。 長兄は陸軍士官学校へ進み、父は「伊藤家の名誉だ」と喜ぶ。姉の文江は女学校を卒業後、さらに上の学校へ行きたいと訴え、母と衝突している。「女が余計な学問などしてどうするの。早く良い縁談を探しなさい」 母が言い放つと、文江は泣きながら叫ぶ。「そんな考えはもう古いのよ。長谷川鏡子先生だって、女性が社会で活躍する時代だと言っているのに……」 家の中がぎすぎすしている。父は黙って聞き流すが、内心では戸惑っているだろう。幹夫は何とか姉を励ましつつ、自らの将来を考えていた。 ある夜、父の書斎へ呼ばれた幹夫は静かに襖を開けた。「父上、今夜は何でしょう……」 父は机に向かい、難しい顔をして書類を整理している。しばらくして顔を上げると、幹夫をまっすぐ見据えた。「幹夫。お前、最近はやたら政治や社会問題に関心を持っているようだな。県庁の仕事につきたいと言ったそうじゃないか」「はい。僕は……」 幹夫は心臓が高鳴るのを感じながらも、覚悟を持って答える。「士族の家に生まれた以上、立派に国に仕えたい。けれどそれはただ軍人や華族に仕える道だけじゃないと思います。社会を変えたいのです」 父はわずかに目を見開いた。その奥には不安と誇りが同居しているように見える。「変える……か」「はい。米騒動も農村の現実も知らずにいるのは、士族の本望ではないと感じました。古い誇りだけを掲げるのではなく、人々のためになる道を探したいんです」 静かな居間に蛍雪灯の明かりが揺れ、父と子は向き合う。重い沈黙が続き、やがて父は短くため息をついた。「……わかった。お前がそこまで言うのなら、好きにするがいい。だが忘れるな。我が家の名を汚すような真似だけはするな」 幹夫は思わず顔を上げ、父の厳しい眼差しの奥にある温かなものを感じ取った。「はい、ありがとうございます……!」

第七章 新時代への旅立ち

 大正十四年の春。幹夫は静岡駅のホームに立っていた。東京の大学に進学するため、家族の見送りを受けて列車に乗る日だ。 父は一言も多くは語らないが、幹夫にはその無言のエールが痛いほど伝わる。母はただ涙をこらえ、姉たちは「身体に気をつけてね」と口々に言う。 幹夫はしっかりと鞄を握りしめる。車窓に目をやると、町の遠くに安倍川の流れや茶畑が見える。大正の風が通り過ぎた静岡――いま、幹夫にとっての故郷が大きく揺れながら背後に遠ざかっていくようだった。 その途中、河合千之助の姿が見えた。慌てたように走り寄り、息を切らしながら手を振っている。「幹夫……! お前、東京に行ってもたまには浜松に来いよ。ピアノだって、もっとすごいのを作るからさ!」「もちろんさ。お前の作ったピアノが東京で有名になったら、すぐに知らせてくれ!」 二人は力強く握手を交わすと、幹夫は列車に乗り込む。車掌の合図が響き、ゆっくりと汽笛が鳴る。 窓の外、父が頷く。幹夫はその姿をじっと見つめる。家を出る実感はあるが、不安よりも期待が胸を占めていた。士族の誇りを抱えながら、自分の信じる時代に向かって進んでいこう。心に固い決意が灯っている。 列車が動き出す。しだいに景色が流れ始め、静岡の町並みが遠ざかる。幹夫は最後まで背筋を伸ばしたまま、窓に張り付き、家族の姿を追い続けた。(さようなら、父上、母上、兄さん、姉さん……。僕はこの国を変えたいんだ。そして、変わっていく日本の中で、もっと大きく自分自身を試してみたい……!) そう胸に誓うと、幹夫はまっすぐ正面を向いて、次の景色を見つめ始める。やがて今まで知らなかった大きな世界――東京、そしてさらにその先で繰り広げられる新時代への幕開けを感じながら。

終章

 轟々という車輪の音とともに、列車は東へ走る。幹夫の耳にはまだ、松本公平の演説会での声や、浅井先生の優しい励まし、北村元春の力強い言葉が響いていた。河合千之助の誇りある笑顔も浮かぶ。 大正という時代は激動を迎え、やがて昭和へと向かっていく。その波のなかで、多くの人々が声を上げ、行動し、あるいは古いものとの折り合いをつけながら未来へ向かった。 幹夫が静岡で吸い込んだ茶の香は、士族の伝統と新しいモダンの息吹が混じり合った象徴だった。古い武士の誇りは、民衆を見下すものではなく、正しく力を尽くす在り方へと変わり始めている――幹夫はそう確信していた。 そして自分はその変化のただ中に飛び込み、微力でも関わっていきたい。幹夫は窓外を睨みながら、心の奥底で炎のように意欲を燃やしている。 汽笛が遠くに響き、車窓の風景が小刻みに揺れる。新しい日本の夜明けへ、列車は止まることなく走り続けた。

 
 
 

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