茶の若葉と銀河の手紙
- 山崎行政書士事務所
- 5月7日
- 読了時間: 19分

茶の若葉は、手紙に似ている。
そう思ったのは、幹夫が十二歳の五月の終わりだった。
一番茶の忙しさが少し過ぎ、村の大人たちの声にも、ようやく息をつくような間が戻ってきたころである。茶畑は摘まれたあとも、決して寂しくは見えなかった。むしろ、刈りそろえられた緑の畝の奥から、新しい芽がまたそっと顔を出し始めていた。
その小さな若葉は、まだ誰にも読まれていない便箋のようだった。
薄く、柔らかく、光を透かすほど頼りない。けれど、その一枚の中には、春の雨も、霜の朝も、山から吹いた風も、夜ごとの星明かりも、みんな折り畳まれているように見えた。
幹夫は畑の端にしゃがみ込み、指先で若葉に触れた。
触れたというより、尋ねたのに近かった。
君は、何を書いているの。
どこへ届けられたいの。
もちろん若葉は答えなかった。ただ、風が通るとほんのかすかに震えた。その震えが、幹夫には小さな文字のように思えた。
幹夫は感受性の強い少年だった。
人が何気なく言った言葉の端に、針のようなものを感じ取ってしまう。誰かの沈黙が、ただ黙っているだけではなく、寂しさを包んでいるのだと気づいてしまう。雨の日の廊下に落ちている泥の跡を見ると、そこを歩いてきた人の疲れまで想像してしまう。
それは、ときどき幹夫自身を苦しめた。
学校では、みんなが笑っているときに一緒に笑えないことがあった。笑い声の中に、誰かを少しだけ傷つける響きが混じっていると、胸がきゅっと縮んだ。反対に、道端の雑草に小さな花が咲いているだけで、涙が出そうになることもあった。
父はそんな幹夫に、よく言った。
「気にしすぎるな」
父の声は乱暴ではなかった。むしろ心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど、その言葉を聞くたび、幹夫は自分の心が人より薄く、頼りないもののように思えた。少しの風でめくれてしまう紙。水が落ちればすぐ滲む紙。そんな紙を胸の中に抱えて生きているような気がした。
だから幹夫は、手紙を書くのが苦手だった。
言葉を紙に置くと、その瞬間に何かが足りなくなるように感じた。ありがとう、と書けば本当のありがとうより軽くなる。さびしい、と書けば、胸の中の暗さがうまく写らない。会いたい、と書けば、たった四文字の中へ閉じ込められた気持ちが、苦しそうに身を縮める。
それでも、その五月、幹夫は手紙を書かなければならなかった。
沙耶から、手紙が届いたからだった。
沙耶は春の終わりに、村を出て町へ引っ越していった。幹夫と同じ学校に通っていた、静かな目をした少女である。よく笑う子ではなかったが、幹夫が空を見上げて立ち止まると、何も言わずに隣で同じ空を見てくれる子だった。
沙耶がいなくなってから、村の道は少し広くなったように感じられた。
広くなったのに、寂しくなった。二人で並んで歩いた畦道も、学校の帰りに影を踏みながら越えた小さな橋も、沙耶の分だけ空いていた。幹夫はその空いた場所を見ないようにしていたが、見ないようにすればするほど、そこに目が吸い寄せられた。
手紙は、そんなころに届いた。
夕方、幹夫が茶畑から戻ると、祖母が縁側で封筒を持っていた。
「幹夫に来ているよ」
祖母はそう言って、少し目を細めた。
封筒は淡い水色で、宛名の字は小さく、少し右へ傾いていた。沙耶の字だった。幹夫はすぐに分かった。分かった瞬間、胸の奥が明るくなり、それと同じくらい痛くなった。
嬉しいという気持ちは、時に寂しさとよく似た顔をしている。
幹夫は封筒を両手で受け取り、自分の部屋へ入った。すぐには開けられなかった。机の上に置き、しばらく眺めていた。遠くからやってきたものは、触れる前から遠さを含んでいる。封筒の青は、町の空の色なのだろうか。それとも、沙耶がこの村を思い出しながら選んだ色なのだろうか。
ようやく封を切ると、中から便箋が二枚出てきた。
かすかに、雨の匂いがした。
幹夫は手紙を読んだ。
町の学校は村の学校より大きいこと。教室の窓からは隣の建物の壁が見えること。昼休みになると、知らない声がたくさん重なって、海でもないのに波のように聞こえること。夕方、駅の近くを歩くと、パン屋の甘い匂いと車のにおいが混じること。
そして、夜のことが書かれていた。
――町の空にも星はあります。 ――でも、村で見た星より少し遠慮して光っています。 ――昨日、窓からずっと見ていたら、うすい白い川みたいなものが見えました。 ――あれが銀河なら、町の銀河は細くて、少し迷子みたいです。 ――幹夫くんの村では、茶の若葉はもう伸びていますか。 ――そちらの星空は、まだ新茶の香りがしますか。
幹夫はそこで読むのをやめた。
胸の奥に、何かが静かに落ちてきた。小石ではなかった。もっと軽いものだった。茶の若葉のように薄く、けれど確かな重みを持ったもの。
沙耶は、覚えていた。
二人で見た五月の星空を。新茶の香りのする夜を。茶畑の端で、言葉少なに並んで座っていた時間を。
幹夫は便箋を胸に当てた。
紙の向こうに、沙耶の息づかいが残っているような気がした。けれど、それは気のせいだった。手紙は紙であり、インクであり、遠い町から運ばれてきたものにすぎない。それでも幹夫には、そこに沙耶が少しだけ折り畳まれているように思えた。
だからこそ、返事が書けなかった。
その晩、幹夫は机に向かった。白い便箋を前に置き、鉛筆を握った。
沙耶ちゃんへ。
そこまでは書けた。
けれど、その先が続かなかった。
元気ですか、と書こうとしてやめた。手紙をくれたばかりの人に、そんな決まり文句を返すのは違う気がした。こちらは元気です、と書こうとして、それもやめた。元気という言葉で済ませられるほど、自分の胸は単純ではなかった。
寂しいです。
そう書きかけて、鉛筆を止めた。
寂しいと書けば、沙耶を困らせるのではないかと思った。町で新しい生活を始めた沙耶の足首に、自分の寂しさを結びつけてしまうような気がした。
それでは、茶畑のことを書けばいい。
幹夫はそう思った。
けれど茶畑の緑は、緑と書くだけでは足りなかった。新茶の香りも、香りと書くだけでは届かない。夜空の星も、星と書くと急に小さく、冷たい点になってしまう。
幹夫は便箋を見つめたまま、時間だけが過ぎていくのを感じた。
窓の外では蛙が鳴いていた。遠くの製茶工場から、まだ機械の低い音がかすかに聞こえていた。家の柱にしみこんだ茶の匂いが、夜になるとゆっくりほどけてくる。
幹夫は鉛筆を置いた。
自分の言葉は、どうしてこんなに小さいのだろう。
胸の中には、たくさんのものがあるのに。沙耶がいなくなってからの道の広さ。夕暮れに見た一番星の冷たさ。茶畑に残る二人分の沈黙。手紙が届いたときの、痛みを伴った喜び。
それらを全部、紙の上へ移そうとすると、何も書けなくなった。
翌日、幹夫は祖母にそのことを話した。
祖母は縁側で茶を選っていた。仕上がった茶の中に混じった茎や細かな欠片を、指先で静かに分けている。幹夫はその横に座り、沙耶から届いた手紙のこと、返事が書けないことを話した。
祖母は急かさずに聞いていた。
幹夫が話し終えると、祖母は茶葉を一つまみ手に取り、掌の上に広げた。
「お茶の葉もね」
祖母は言った。
「畑にいるときは、みんな瑞々しい若葉だろう。でも摘まれて、蒸されて、揉まれて、乾かされるうちに、形は変わる」
幹夫は祖母の掌を見つめた。
茶葉は細く撚られ、深い緑色をしていた。畑にあったときの柔らかな若葉とは、まるで違う姿だった。
「でも、香りは残る」
祖母は続けた。
「形が変わっても、春は消えない。手紙も同じだよ。心そのものを全部入れることはできなくても、香りは移せる」
「香り」
「そう。幹夫の言葉に、幹夫の心の香りが少しでも移れば、それでいいんだよ」
幹夫は黙った。
祖母は、さらに言った。
「それでも言葉だけでは足りないなら、若葉に手伝ってもらえばいい」
「若葉に?」
「畑へ行ってごらん。返事は机の上だけで書くものじゃない」
その言葉は、幹夫の胸の中で小さく光った。
夕方、幹夫は茶畑へ行った。
日が沈む少し前だった。山の端に赤みが残り、茶畑の畝は長い影を抱えていた。一番茶を摘まれたあと、茶の木はところどころに新しい芽を出していた。小さな葉は、まだ人の指を知らないまま、夕風に揺れている。
幹夫は畑の端に立った。
沙耶がいたころ、二人で星を見た場所だった。
あの夜、沙耶は新茶の包みを胸に抱いていた。町へ行く前の最後の夜だった。二人はあまり多く話さなかった。それでも、同じ空を見ているだけで、言葉より確かなものが胸の中に流れていた。
幹夫はしゃがみ、若葉を一枚だけ摘んだ。
乱暴にしないように、指先でそっと。葉は驚くほど軽く、掌の上に置くと、風だけで飛んでしまいそうだった。幹夫はそれを見ているうちに、ふと気づいた。
若葉は、星に似ている。
大きさも形も違う。けれど、どちらも遠くから来た光を含んでいる。茶の若葉は土から空へ伸び、星は空から地上へ光を落とす。遠いものと近いものが、幹夫の掌の上で静かに出会っていた。
幹夫は何枚かの若葉を摘んだ。
摘みすぎないように、畑に謝るような気持ちで。家に戻ると、祖母に教えられて、若葉を紙の間に挟み、古い本で押した。
「押し花ならぬ、押し茶だね」
祖母は笑った。
幹夫も少し笑った。
翌日、若葉は少し薄くなっていた。色もわずかに落ち着き、柔らかかった葉脈が細く浮き出ていた。幹夫はそれを見て、ますます手紙に似ていると思った。葉脈は、まだ読めない文字のようだった。
それから幹夫は、夜になるのを待った。
その日はよく晴れていた。夕方の雲が消えると、空は少しずつ深くなった。家々の灯がともり、蛙の声が田んぼから上がってきた。幹夫は机の引き出しから、紺色の紙を取り出した。図工の時間に残った色紙だった。
その上に、押した若葉を並べてみた。
一枚、また一枚。
若葉は緑の小舟のように、紺色の紙の上へ浮かんだ。幹夫はそれを星座のように置いた。大きな星、小さな星、流れのように連なる星。やがて紙の上に、細い緑の川ができた。
銀河だった。
茶の若葉でできた、銀河。
幹夫は息をのんだ。
それは立派なものではなかった。葉は少し曲がっているし、並べ方も不揃いだった。けれど幹夫には、それが自分の胸の中にあるものに近い気がした。まっすぐではなく、均一でもなく、ところどころ途切れながら、それでも遠くへ続いていこうとする光の川。
幹夫はその下に、ゆっくりと文字を書き始めた。
沙耶ちゃんへ。
今度は、その先が少しずつ出てきた。
――手紙をありがとう。 ――町の銀河が迷子みたいだと書いてあったので、こちらの銀河を送ります。 ――これは本当の星ではありません。茶の若葉です。 ――でも、五月の夜には、茶の若葉も星のように見えます。 ――畑で摘むとき、葉はとても軽くて、まだ誰にも話していない言葉みたいでした。
幹夫は一度鉛筆を止めた。
窓の外を見ると、星が出ていた。天の川はまだ低く、山の方に淡く広がっている。幹夫は深く息を吸った。夜の空気に、新茶の香りが混じっていた。
また書いた。
――茶畑は、沙耶ちゃんがいなくなってから少し広くなりました。 ――本当に広くなったわけではないけれど、帰り道の横にある空気が一人分あいています。 ――その空いているところを見ると、寂しいです。 ――でも、手紙が来た日は、その空いているところに少し光が入りました。
寂しい、と書いてしまった。
幹夫はその文字を見つめた。消そうかと思った。鉛筆の跡はまだ薄い。消しゴムをかければ、なかったことにできる。
けれど、消さなかった。
寂しいという言葉は、沙耶を責めるためのものではない。ただ、幹夫の心に実際にあるものだった。隠せば軽くなるわけではない。むしろ、隠すほど重くなる。
幹夫は続けた。
――でも、寂しいだけではありません。 ――沙耶ちゃんが町で星を見ていると思うと、村の星も少し遠くまで続いている気がします。 ――同じ空という言葉は、前はただの言葉みたいでした。 ――今は、少し分かります。 ――空は広いけれど、手紙はその広さに橋をかけるものなのかもしれません。
そこまで書いて、幹夫は手を止めた。
自分にしては、ずいぶんたくさん書いた気がした。けれど、まだ何か足りなかった。幹夫は紺色の紙の上の若葉を見た。緑の銀河は、静かに光っているようだった。
そのとき、父が部屋の戸を開けた。
「まだ起きていたのか」
幹夫は驚いて、紙を隠そうとした。しかし間に合わなかった。父は机の上を見た。紺色の紙、並べられた若葉、書きかけの手紙。
父はしばらく黙っていた。
幹夫は叱られると思った。茶の若葉を遊びに使ったと思われるかもしれない。父にとって茶は、家を支える仕事だった。生活そのものだった。幹夫が星だの手紙だのと言えば、また「気にしすぎる」と言われるのではないかと思った。
しかし父は、低い声で言った。
「きれいだな」
幹夫は顔を上げた。
「え」
「若葉の銀河か」
父は机の横に立ち、少し身をかがめた。父の大きな手が、若葉に触れないように宙で止まった。その指は太く、爪の間には土の色が残っていた。
「昔、お前の母さんも似たようなことをした」
父はぽつりと言った。
幹夫は息を止めた。
母の話を父がすることは、あまり多くなかった。話すと、家の中の空気が少し変わるからだ。明るくなるのではなく、暗くなるのでもなく、ただ静かに深くなる。
「何をしたの」
「新茶を少し、手紙に入れて送ったんだ。遠くに住んでいた友だちへな。封筒を開けたら五月が出てくるようにって」
父は小さく笑った。
「そういうことを考える人だった」
幹夫は紺色の紙を見つめた。
母も。
その言葉が胸の中で広がった。自分だけがこんなふうに感じるのではない。母も、若葉に何かを託したことがあった。封筒の中へ五月を入れようとした人が、確かにこの家にいた。
「変じゃない?」
幹夫は小さく尋ねた。
「何が」
「若葉を星みたいに並べるの」
父は少し考えた。
「変かもしれないな」
幹夫の胸が一瞬縮んだ。
けれど父は続けた。
「でも、いい変さだ」
「いい変さ?」
「茶を作る人間は、葉っぱを見て天気を読む。風を読む。土を読む。お前は、葉っぱを見て空を読んでいるんだろう。それも同じようなものだ」
父はそう言って、部屋を出ていった。
戸が閉まったあと、幹夫はしばらく動けなかった。
父の言葉は、不器用だった。けれど幹夫には、それが父なりの優しさだと分かった。父は幹夫の心を全部理解したわけではないかもしれない。それでも、理解しようとして、少しだけ隣へ来てくれた。
幹夫はまた鉛筆を持った。
――父が、若葉の銀河を見て、きれいだと言いました。 ――僕は少し驚きました。 ――大人にも、星が見えることがあるのだと思いました。
書きながら、幹夫は微笑んだ。
手紙の最後に、こう書いた。
――この若葉の銀河は、封筒の中で少し崩れるかもしれません。 ――でも、崩れたら、それも本当の銀河みたいだと思ってください。 ――星は、いつもきちんと並んでいるわけではないから。 ――町の空で迷子になった銀河があったら、この若葉が迎えに行けますように。
幹夫はその手紙を、何度も読み返した。
上手かどうかは分からなかった。けれど、書き終えた便箋には、幹夫の胸の中を通った風が少し残っているように思えた。
翌朝、祖母に手伝ってもらいながら、若葉が崩れないように薄い紙を重ね、封筒に入れた。ほんの少しだけ、仕上がった新茶も和紙に包んで同封した。
「入れすぎると、郵便屋さんが驚くからね」
祖母が言った。
幹夫は笑った。
封をするとき、少し迷った。
手紙というものは不思議だ。封をするまでは自分のものなのに、封をした瞬間、もう遠くへ行くものになる。手元にあるのに、すでに旅を始めている。
幹夫は封筒に宛名を書き、郵便ポストまで歩いた。
ポストは村の小さな商店の前にあった。赤い塗装がところどころ剥げていて、口の中は暗かった。幹夫は封筒を入れる前に、もう一度だけ胸に当てた。
茶の若葉と銀河の手紙。
ちゃんと届くだろうか。
沙耶の町まで。
沙耶の手まで。
沙耶の胸の奥にある、村を恋しがっているかもしれない場所まで。
幹夫は封筒をポストに入れた。
手を離すと、封筒は音もなく落ちた。幹夫はその小さな音のなさに、少し寂しくなった。大事なものが旅立つとき、世界は案外何も言わない。
それからしばらく、幹夫は返事を待った。
待つということは、時間に耳を澄ますことなのだと知った。朝、郵便受けを見る。学校から帰って、また見る。夕方、祖母が縁側で茶を淹れていると、郵便屋の自転車の音がしなかったかと耳を立てる。
来ない日は、心の中で小さな影が伸びた。
けれど幹夫は、前ほど不安にはならなかった。自分の手紙は、もう出した。心の香りを少しだけ移して、沙耶の方へ送った。その事実が、胸の中に細い灯のように残っていた。
六月に入ると、茶畑の緑は少し深くなった。
五月の若葉の透き通るような明るさは薄れ、葉はしっかりと厚みを増していった。空気も湿り気を帯び、雨の匂いが近づいてきた。夜の星は見えない日が増えた。雲が空を覆うと、幹夫は銀河のことを思った。
星が見えない夜にも、星はある。
手紙が届かない日にも、手紙はどこかを進んでいる。
そう思うと、少しだけ待てた。
返事が来たのは、七夕の前日だった。
その日は朝から雨だった。細い雨が茶畑に降り続き、畝の緑は濡れて暗くなっていた。学校から帰ると、郵便受けに白い封筒が入っていた。
幹夫はすぐに分かった。
沙耶からだった。
封筒は少し湿っていた。幹夫は濡れた指を拭いてから、そっと開けた。中には便箋と、小さな透明な袋が入っていた。その袋の中には、幹夫が送った茶の若葉の一枚が入っていた。
葉は少し色を変えていた。
けれど、ちゃんと残っていた。
沙耶の手紙には、こう書かれていた。
――幹夫くんの手紙を開けたとき、部屋に五月が来ました。 ――新茶の匂いがして、少し泣きました。 ――泣いたけれど、悲しいだけではありませんでした。 ――茶の若葉でできた銀河は、封筒の中で少しだけ崩れていました。 ――でも、それが本当に夜空みたいでした。 ――星はきれいに並ばないから、きっとあれでよかったのだと思います。
幹夫は息を止めるようにして読んだ。
――若葉を一枚、しおりにしました。 ――町の図書館で借りた星の本にはさんでいます。 ――本を開くと、銀河のページからお茶の匂いがします。 ――だから最近、町の空を見ても、前より寂しくありません。 ――星は少ないけれど、少ない星の間にも、見えない川があると思えるようになりました。
雨の音が、窓の外で静かに続いていた。
幹夫はさらに読んだ。
――幹夫くんの字は、少し震えていました。 ――でも、その震えが好きです。 ――風のある場所で書いた手紙みたいだからです。 ――きれいにまっすぐな字より、幹夫くんが本当にそこにいたことが分かりました。 ――また、村の空を書いてください。 ――わたしも、町の空を書きます。 ――二つの空をつなげたら、銀河より長い手紙になるかもしれません。
幹夫は便箋を持ったまま、しばらく動かなかった。
胸の奥が熱くなっていた。涙が出そうだった。けれど泣く前に、何かがふわりとほどけた。
自分の字の震え。
それは幹夫にとって、ずっと恥ずかしいものだった。気持ちが揺れると、手も揺れる。悲しいときも、嬉しいときも、怖いときも、線がまっすぐ引けない。それは自分の弱さが紙に出てしまうようで、嫌だった。
けれど沙耶は、それを風のある場所だと言った。
幹夫は窓の外を見た。
雨に濡れた茶畑が、深い緑色で沈んでいる。若葉は雨粒を受けて、細かく震えていた。あの震えを、弱いとは誰も言わない。風や雨に触れたものは、震えるのが自然なのだ。
心も、そうなのかもしれない。
触れたから震える。
感じたから揺れる。
大切に思ったから、線が乱れる。
幹夫は沙耶の手紙を胸に当てた。
その夜、雨は上がった。
雲はまだ残っていたが、ところどころに切れ目があり、星がいくつか見えた。七夕の前の夜だった。幹夫は祖母に声をかけ、茶畑へ向かった。
畑は雨上がりの匂いに満ちていた。
土の湿った匂い。茶の葉に残る水の匂い。遠くの山から降りてくる冷たい風の匂い。それらの奥に、まだ新茶の青い香りがかすかにあった。
幹夫は畑の端に立った。
空を見上げると、雲の切れ間から淡い星の群れが見えた。はっきりした銀河ではなかった。けれど、薄い白さが夜の奥に流れているようだった。
幹夫は沙耶の手紙から取り出した透明な袋を、そっと掌に乗せた。中には、戻ってきた茶の若葉が一枚入っている。村から町へ行き、沙耶の本にはさまれ、そしてまた幹夫のもとへ来た葉。
一枚の若葉が、旅をした。
そのことが、幹夫には不思議でならなかった。茶畑に生まれた小さな葉が、手紙になり、銀河になり、しおりになり、また手紙になって戻ってきた。形を変えながら、誰かの心と心の間を渡ってきた。
幹夫は思った。
人の気持ちも、きっとそうなのだ。
言葉になると、少し形が変わる。手紙になると、さらに変わる。相手の胸に届くころには、最初とは違っているかもしれない。それでも、香りが残ればいい。そこに込めた春が、ほんの少しでも伝わればいい。
風が吹いた。
茶の葉に残っていた雨粒が揺れ、星明かりを受けて小さく光った。畑の畝の上に、無数の光が生まれた。それは空の銀河が地上へ降りてきたようだった。
幹夫は息をのんだ。
空には星があり、地には茶の若葉があった。そのあいだに雨上がりの風が流れている。遠いものと近いもの、見えるものと見えないもの、言葉になるものと言葉にならないものが、一瞬だけ同じ場所に集まったようだった。
幹夫には、その光景が手紙に見えた。
誰が書いたのか分からない。宛名もない。けれど確かに、何かが書かれている。夜空から茶畑へ、茶畑から幹夫へ、そして幹夫から遠い町の沙耶へ。
その手紙には、たぶんこう書かれていた。
遠くは、遠さのまま、つながっている。
幹夫は目を閉じた。
胸の中に、沙耶の言葉が浮かんだ。
――二つの空をつなげたら、銀河より長い手紙になるかもしれません。
幹夫は静かに微笑んだ。
自分はこれからも、すぐに傷つくかもしれない。人の声のわずかな影に気づき、言えなかった言葉を何日も抱え、星の少ない夜に寂しくなるかもしれない。手紙を書くたびに迷い、字は震え、言葉は足りないと思うかもしれない。
けれど、その震えの中に風があるなら。
その足りなさの中に香りが残るなら。
それでいいのかもしれない。
幹夫は茶畑の若葉に、そっと指を触れた。
葉は雨を含んで冷たかった。けれどその奥には、昼の光と土の温もりが眠っている。幹夫はそれを傷つけないように、ただ触れた。
「また書くよ」
幹夫は小さく言った。
沙耶に向けてなのか、星に向けてなのか、茶の若葉に向けてなのか、自分でも分からなかった。
けれど、その言葉は夜の中へ静かに広がった。
雲の切れ間から、銀河が少しだけ明るくなった。茶畑の露も、それに応えるように光った。空と地上が、同じ手紙の表と裏になったようだった。
幹夫はいつまでもそこに立っていた。
胸の中には、沙耶からの手紙があった。掌には、旅をして戻ってきた若葉があった。目の前には、雨上がりの茶畑があり、頭上には、淡い銀河が流れていた。
やがて家へ戻るころ、幹夫は思った。
明日、また返事を書こう。
町の空へ。 沙耶の窓辺へ。 銀河の向こうへ。
そして封筒の中に、今夜の露の光を、ほんの少しでも入れられたらいい。
もちろん、露をそのまま入れることはできない。星明かりを畳むこともできない。茶畑を封筒に収めることもできない。
それでも、言葉なら少しだけ運べる。
若葉なら、香りを連れていける。
震える字なら、風のありかを知らせることができる。
幹夫は夜道を歩いた。足元の草が雨に濡れ、靴の先が少し冷たくなった。けれど胸の中は、不思議に温かかった。
茶の若葉は、手紙に似ている。
幹夫はもう一度そう思った。
そして銀河もまた、誰かが遠い誰かへ送り続けている、終わりのない手紙なのかもしれなかった。





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