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茶摘み唄と銀河のあいだ

茶摘み唄は、朝の茶畑から生まれるのだと、幹夫は思っていた。

 それは、誰かが急に歌い出すものではない。夜露を抱いた若葉が朝日に触れ、畝の間に白い手ぬぐいが並び、指先が芽を摘む音を立てはじめる。ぷちり、ぷちり、と小さな音が重なっていく。その音の間から、ふいに一人の声がほどける。

 初めは細く、遠慮がちに。

 けれど、別の声がそれに寄り添い、また別の声が風の向こうから応えると、茶畑全体がゆるやかに歌いはじめるのだった。

 五月の茶畑に流れる茶摘み唄は、空へ昇っていく湯気のようだった。

 幹夫は十二歳だった。

 人より少しだけ、いろいろなものを感じすぎる少年だった。雨が降る前の草の沈黙、父が疲れているときの湯呑みの置き方、祖母が仏壇の前で息をつくわずかな間。そうしたものが、幹夫の胸にはすぐに届いた。

 届きすぎて、苦しくなることもあった。

 学校では、友だちの何気ない笑い声に傷つくことがあった。誰かが「そんなの変だ」と軽く言っただけで、その言葉は幹夫の胸の中で何度も響いた。言った本人はもう忘れているのに、幹夫の中では、薄い茶の若葉に残った爪痕のように、いつまでも消えなかった。

 父はそんな幹夫に、よく言った。

「もう少し、強くならんとな」

 父の声は責めているわけではなかった。むしろ心配しているのだと、幹夫にも分かっていた。けれど、強くなるということが、幹夫にはよく分からなかった。

 感じないことなのか。 泣かないことなのか。 胸の奥で震えているものを、人に見せないことなのか。

 幹夫の心は、茶の若葉に似ていた。

 薄く、柔らかく、少しの風にも揺れる。けれど祖母は、そのことを悪く言わなかった。

「若葉は薄いから、光を通すんだよ」

 祖母はよくそう言った。

「厚い葉には見えない光も、薄い葉には見える」

 その言葉を聞くと、幹夫は少しだけ息がしやすくなった。

 五月のある朝、村の茶摘みが始まった。

 山裾の茶畑には、夜明け前から人々が集まっていた。白い手ぬぐい、竹の籠、湿った土の匂い。東の空が薄く明るみ、茶の畝が緑の波として浮かび上がるころ、祖母が静かに歌い出した。

 古い茶摘み唄だった。

 誰もが知っているようで、誰も正確には覚えていない唄。祖母の母も歌い、そのまた母も歌ったという。歌詞は年寄りによって少しずつ違い、節も畑ごとに揺れていた。だから、その唄は楽譜に書かれたものというより、村の朝に染みこんだ声のようだった。

 祖母の声は、若いころのようには高くなかった。

 少しかすれ、ところどころ息が混じった。けれどその声には、茶畑の土と、長い年月の風が入っていた。幹夫はその声を聞くと、胸の奥が静かに熱くなった。

 母も、この唄を歌っていた。

 母が生きていたころ、五月の茶畑には必ず母の声があった。白い手ぬぐいを頬の下で結び、籠を背負い、若葉に触れながら歌う母。声は大きくなかったが、明るい水のようによく通った。

「茶摘み唄はね、幹夫」

 母は昔、そう言った。

「手を動かすためだけの唄じゃないの。葉っぱに、怖がらなくていいよって知らせる唄なのよ」

「葉っぱが怖がるの?」

「そりゃあ、摘まれるんだもの。少しは怖いでしょう」

 母は笑った。

「だから、やさしく歌うの。春を傷つけないように」

 幹夫はその言葉を今も覚えていた。

 母は去年の冬に亡くなった。雪も降らない、ただ空気だけが冷たい日だった。葬儀のあと、家から母の声は消えた。台所にも、縁側にも、茶畑にも、母の歌はなかった。

 けれど五月になると、新茶の香りの中から、母の声が少しだけ戻ってくる気がした。

 その朝も、祖母の茶摘み唄を聞いているうちに、幹夫は母の声を思い出した。

 思い出した瞬間、胸が痛んだ。

 痛いのに、逃げたくはなかった。

 幹夫は畝の前に立ち、若葉に指を添えた。露が指先に触れた。冷たく、澄んでいる。茶の芽はやわらかく、まだこの世に慣れていないもののようだった。

 ぷちり。

 一枚摘む。

 籠へ入れる。

 祖母の声が風に揺れる。

 畑の向こうでは、近所のおばさんたちが唄に加わっていた。声はぴったり揃わない。少し遅れる声、少し高くなる声、途中で笑いに変わる声。その不揃いさが、かえって茶畑に似合っていた。

 銀河の星も、きっとこんなふうに並んでいるのだろうと、幹夫は思った。

 一つ一つは離れている。 光り方も違う。 けれど遠くから見ると、ひとつの流れになる。

 茶摘み唄も同じだ。

 祖母の声、母の記憶、畑にいる人々の声、葉を摘む音、風の音。全部が重なって、地上の銀河のような流れをつくっている。

 幹夫は、思わず小さく口ずさんだ。

 声は自分でも聞こえないほど弱かった。けれど唇の内側で、唄の節が静かに揺れた。

 そのとき、父が隣に来た。

「歌っているのか」

 幹夫は驚いて、口を閉じた。

「ううん」

 父は幹夫の顔を見た。

 幹夫はうつむいた。恥ずかしかった。父に聞かれたくなかった。母の唄を思い出して歌ったことを知られると、胸の中をのぞかれたような気がした。

 父はしばらく黙っていた。

 それから、若葉を摘みながら言った。

「母さんも、よく歌っていたな」

 幹夫は顔を上げた。

「お父さん、覚えてる?」

「忘れようとしても、忘れられん」

 父の声は低かった。

 幹夫は、その言葉に胸をつかまれた。

 父は母の話をあまりしない。母の名を出すと、家の空気が少し深くなってしまうからだ。父はその深さを避けるように、いつも仕事の話だけをした。

 けれど父も、忘れていなかった。

 茶摘み唄の中に、母を聞いていたのだ。

「お父さんは、歌わないの?」

 幹夫が尋ねると、父は少し苦い顔をした。

「俺は歌えん」

「どうして」

「下手だ」

 それだけ言って、父は黙った。

 幹夫はそれ以上聞かなかった。

 けれど、父が歌えない理由は、それだけではない気がした。下手だからではなく、歌えば母の声が近くなりすぎるのかもしれない。近くなりすぎて、いないことがまた分かってしまうのかもしれない。

 茶摘み唄は、懐かしい。

 けれど懐かしさは、時に鋭い。

 午前の茶摘みが終わるころ、空はすっかり明るくなっていた。

 茶畑には新茶の香りが満ち、籠の中には若葉がふんわりと積もっていた。幹夫は指先についた青い匂いを嗅いだ。そこには露の冷たさと、若葉のやわらかさと、祖母の唄のかすれた声が混じっているようだった。

 昼休み、柿の木の下で握り飯を食べながら、幹夫は空を見上げた。

 昼の空に、銀河は見えない。

 けれど、ないわけではない。夜になればまた現れる。見えないものが消えたわけではないことを、幹夫は少しずつ知り始めていた。

 母の声もそうだ。

 昼間の忙しさの中では聞こえない。けれど茶摘み唄が流れると、ふいに戻ってくる。新茶の香りに包まれると、胸の中で揺れる。夜の茶畑に立てば、風の中に混じる。

 見えないもの。 聞こえないもの。 けれど、消えないもの。

 それらは銀河に似ていた。

 昼の光に隠れても、空の奥で流れ続けている。

 その日の午後、学校の音楽の時間に、先生が茶摘み唄を歌わせた。

 村の子どもたちは、毎年この季節になるとその唄を習った。けれど学校で歌う茶摘み唄は、畑で聞くものとは違っていた。伴奏があり、拍子が決まっていて、声をそろえるように言われる。

 幹夫は、少し苦手だった。

 唄がきれいに整えられると、畑の風が抜けてしまう気がした。祖母の声のかすれも、おばさんたちの笑いも、摘む音の小さなずれも、みんな消えてしまう。

 先生が言った。

「幹夫くん、もう少し大きな声で」

 幹夫は喉が詰まった。

 声を出そうとすると、母の声が胸の奥で揺れた。祖母の声も、朝の若葉の匂いも、父の「母さんも歌っていたな」という言葉も、全部が喉へ集まってきた。

 出したいのに、出ない。

 歌いたいのに、歌うと泣きそうになる。

 隣の健太が小さく笑った。

「幹夫、声ちっちゃ」

 悪気のない声だった。

 けれど幹夫の胸には刺さった。

 幹夫はうつむき、唄の残りをほとんど口の中だけで歌った。音楽の時間が終わると、急いで教室を出た。廊下の窓から見える茶畑は、午後の光の中でまぶしいほど緑だった。

 あんなに明るいのに、自分の胸だけが暗い。

 幹夫はそう思った。

 帰り道、幹夫は遠回りして茶畑へ向かった。

 畑にはもう人が少なかった。摘み取りの終わった畝は、朝より少し整って見えた。風が吹くと、葉の先がさわさわと揺れる。その音は、声にならなかった唄のようだった。

 幹夫は畑の端にしゃがみ込んだ。

「僕は、歌えない」

 小さく言った。

 茶畑は答えなかった。

 ただ、風が通った。

 幹夫は自分の喉に手を当てた。そこには、出てこなかった声がまだ残っているようだった。母のことを思って泣きそうになる声。友だちに笑われて縮んだ声。父に聞かれたくなくて隠した声。

 声は、どこへ行くのだろう。

 出なかった唄は、胸の中で腐ってしまうのだろうか。

 幹夫は、泣きたくなった。

 そのとき、祖母が畑の坂を上ってきた。

「ここにいたのかい」

 祖母は幹夫の隣に腰を下ろした。手には小さな布袋を持っている。中には朝摘んだ茶葉が少し入っていた。

「学校で、唄を歌った」

 幹夫は言った。

「声が出なかった」

「そうかい」

「笑われた」

「つらかったね」

 祖母は、そう言ってくれた。

 それだけで、幹夫の目に涙が浮かんだ。慰められるより前に、つらかったことをそのまま受け取ってもらえると、人は泣きそうになるのだと知った。

「茶摘み唄はね」

 祖母は茶畑を見ながら言った。

「大きな声で歌えばいいというものじゃない」

「でも、学校では大きく歌えって」

「学校の唄は、そうかもしれないね。でも畑の唄は違う」

「どう違うの」

「畑の唄は、手と息のためにある。若葉に触れる指が乱暴にならないように。疲れた人の息が、少し楽になるように。亡くなった人の声を、忘れすぎないように」

 幹夫は祖母を見た。

「亡くなった人の声?」

「そうだよ」

 祖母は目を細めた。

「私が歌うとき、私の母の声が少し混じる。幹夫の母さんが歌っていた声も、きっと混じっている。茶摘み唄は、一人で歌っているようで、一人じゃないんだよ」

 幹夫の胸が震えた。

 一人じゃない。

 それなら、幹夫が歌えなかったのは、一人で歌おうとしたからかもしれない。母の声も、祖母の声も、畑の風も、全部を背負って一人で声にしようとして、苦しくなったのかもしれない。

「小さな声でもいい?」

 幹夫は尋ねた。

「いいとも」

「心の中だけでも?」

「それも唄だよ」

 祖母は布袋から茶葉を一枚取り出した。

「声にならない唄も、どこかへ届く。ちょうど昼間の銀河が見えなくても、空にあるようにね」

 幹夫は空を見上げた。

 青い空だった。

 銀河は見えなかった。

 けれど、その見えない銀河を思うと、少しだけ胸が広くなった。

 夜、幹夫は眠れなかった。

 学校で笑われた声が、まだ耳に残っていた。けれどそれよりも、祖母の言葉が胸の中で静かに響いていた。

 声にならない唄も、どこかへ届く。

 幹夫は布団を抜け出し、窓を開けた。

 外には星が出ていた。昼間は隠れていた銀河が、山の上に淡く流れている。夜の茶畑は闇に沈んでいたが、ところどころの露が星明かりを受けてかすかに光った。

 幹夫は上着を羽織り、そっと家を出た。

 茶畑へ向かう道は静かだった。田んぼでは蛙が鳴き、草むらでは虫が細い声を重ねている。昼間の茶摘み唄とは違う、夜の小さな合唱だった。

 畑に着くと、幹夫は畝の端に立った。

 頭上には銀河。 足元には茶畑。 そのあいだに、自分の出なかった声がある。

 幹夫は深く息を吸った。

 新茶の香りが胸いっぱいに入った。青く、甘く、少し苦い。その香りの中に、朝の祖母の声が残っているようだった。母の声も、遠いところからかすかに混じっている気がした。

 幹夫は、小さく歌いはじめた。

 誰にも聞こえないくらいの声だった。

 唄はすぐに震えた。音程も定まらなかった。喉の奥に涙が混じり、声は何度も途切れた。けれど幹夫はやめなかった。

 歌うというより、息を茶畑へ返しているようだった。

 朝、茶畑からもらった香りを。 祖母からもらった唄を。 母からもらった記憶を。 笑われて縮んだ小さな痛みを。

 少しずつ、夜へ返していく。

 すると不思議なことに、歌っているうちに幹夫の声は、自分だけのものではなくなっていった。

 風が葉を揺らす音が、唄の後ろに入った。虫の声が細く重なった。遠くの川の音が低く支えた。頭上の銀河は何も聞こえないほど遠いのに、その静けさが一番深い伴奏のようだった。

 幹夫は、ふと涙を流していた。

 けれど今度の涙は、恥ずかしさだけではなかった。悲しみだけでもなかった。胸の中に長く閉じ込めていたものが、ようやく出口を見つけたような涙だった。

「幹夫」

 背後から声がした。

 幹夫は驚いて振り返った。

 父だった。

 作業着の上に薄い上着を羽織り、畦道に立っていた。いつからいたのだろう。幹夫は顔が熱くなった。泣いていることも、歌っていたことも、全部聞かれてしまった。

「ごめんなさい」

 幹夫は反射的に言った。

 父は近づいてきた。

「謝ることはない」

「聞いてた?」

「少し」

 幹夫はうつむいた。

 父は畑の端に立ち、しばらく空を見上げた。

「母さんの唄に似ていた」

 その言葉で、幹夫の胸がまた震えた。

「似てた?」

「声じゃない」

 父は言った。

「歌い方が」

「下手だったでしょう」

「下手だ」

 父は正直に言った。

 幹夫は少し傷つきそうになったが、父は続けた。

「でも、やさしかった」

 幹夫は顔を上げた。

 父は茶畑を見ていた。暗闇の中の畝は、星明かりでかすかに浮かんでいる。

「母さんも、上手い下手で歌っていたんじゃない。葉に触るみたいに歌っていた」

 幹夫は何も言えなかった。

 父が母の声をそんなふうに覚えていることが、胸に沁みた。

「お父さんは、歌わないの」

 幹夫はもう一度尋ねた。

 父は長い間黙っていた。

 夜風が二人の間を通った。茶畑の葉がさわさわと揺れる。銀河は遠く、白い川のように流れていた。

「歌うと」

 父は低く言った。

「母さんがいないことが、はっきり分かる」

 幹夫の胸が痛んだ。

 やはりそうだったのだ。

 父の歌えなさも、幹夫の歌えなさも、どこかでつながっていた。母の声を失った場所が、二人の喉にそれぞれ違う形で残っていた。

「でも」

 父は続けた。

「歌わないでいると、母さんがいたことまで遠くなる」

 その声は、幹夫が今まで聞いた父の声の中で、一番弱かった。

 弱かったけれど、一番近かった。

 幹夫は父の手を見た。

 大きく、荒れた手だった。茶の若葉を摘むときだけ、驚くほどやさしくなる手。その手が今、少し所在なさそうに垂れている。

 幹夫は言った。

「一緒に、小さく歌う?」

 父は驚いたように幹夫を見た。

「俺は、本当に下手だぞ」

「僕も下手だよ」

 父は少しだけ笑った。

 その笑いは、夜の中で不器用にほどけた。

 幹夫はもう一度、茶摘み唄を歌い出した。

 小さな声で。

 父はしばらく黙っていた。けれど途中から、低い声がほんの少しだけ重なった。節は外れ、言葉もところどころ曖昧だった。歌というより、息のような声だった。

 それでも幹夫には、その声がとても美しく聞こえた。

 父の声は、土の音がした。 重い籠を背負った背中の音。 夜中に畑を見回った足音。 母を思っても泣けなかった沈黙の音。

 祖母の声は朝の茶畑に似ていた。 母の声は若葉を撫でる光に似ていた。 父の声は、土の奥からゆっくり上ってくる根のようだった。

 二人の小さな唄は、夜の茶畑に広がった。

 広がったといっても、大きな音ではない。村の家々へ届くほどでもない。けれど、茶の葉には届いたような気がした。露には届いたような気がした。銀河の遠い光にも、ほんの少しだけ触れたような気がした。

 歌い終わると、二人は黙っていた。

 沈黙は冷たくなかった。

 父が空を見上げた。

「銀河というのは、あれか」

「うん」

「歌も、あんなふうかもしれんな」

「どういうこと?」

「一人の声は小さい」

 父は言った。

「でも、昔の人の声や、今歌う人の声や、もういない人の声が混じると、ああいう流れになるのかもしれん」

 幹夫は銀河を見た。

 無数の星が集まり、遠い川になっている。

 茶摘み唄も、無数の声が集まった川なのだ。

 祖母の母、そのまた母、村の人々、母、祖母、父、そして幹夫。声は消えていくようで、消えない。誰かがまた歌うたび、古い声は少しだけ戻ってくる。

 茶摘み唄と銀河のあいだにあるもの。

 それは、時間だった。 それは、記憶だった。 それは、声にならなかった悲しみが、いつか声へ戻るための長い道だった。

 家へ帰ると、祖母が起きて待っていた。

「二人で畑かい」

 祖母はそう言っただけだった。

 父は少し照れたように「歌っていた」と言った。

 祖母は驚いたように父を見た。

 それから、目を細めた。

「そうかい」

 その「そうかい」は、幹夫が聞いたことのある中で一番やさしかった。

 祖母は急須を出し、新茶を淹れた。

 夜更けのお茶だった。湯を少し冷まし、茶葉を入れる。湯気が白く立ち、新茶の香りが台所へ広がった。仏壇の前にも、小さな湯呑みが置かれた。

 幹夫は母の写真を見た。

 写真の母は、茶畑で笑っていた。白い手ぬぐいを結び、目尻に小さな皺を寄せている。

「聞こえたかな」

 幹夫は小さくつぶやいた。

 祖母が言った。

「聞こえたと思えば、聞こえたんだよ」

 父は何も言わなかった。

 けれど、母の写真の前の湯呑みを少しだけ近づけた。

 幹夫はその仕草を見て、胸がいっぱいになった。

 新茶を一口飲むと、舌に淡い苦みが広がった。そのあと、甘みがゆっくり戻ってきた。

 幹夫は思った。

 歌も、お茶に似ている。

 最初は苦い。悲しみが喉に詰まる。声が震える。泣きそうになる。けれど歌い終わると、胸の奥に少し甘みが戻ってくる。それは、悲しみが消えたからではない。悲しみの奥に、大切だった時間があることを思い出すからだ。

 翌日、学校でまた茶摘み唄を歌った。

 先生は前と同じように伴奏を弾き、子どもたちに声をそろえるように言った。健太は元気よく歌い、真紀は小さめの声で歌っていた。

 幹夫は、最初だけ少し怖かった。

 また笑われるかもしれない。声が震えるかもしれない。母のことを思い出して、泣きそうになるかもしれない。

 けれど、昨夜の茶畑を思い出した。

 銀河の下で父と並んで歌ったこと。父の低い声。風の伴奏。見えない母の湯呑み。祖母の「そうかい」。

 幹夫は声を出した。

 大きな声ではなかった。

 けれど、昨日より少しだけ前へ出た声だった。

 声は震えていた。けれど幹夫は、その震えを止めようとしなかった。震える声には、夜風が入っている。茶の葉を傷つけまいとする指先のやさしさが入っている。

 先生がちらりと幹夫を見て、少し微笑んだ。

 健太は何も言わなかった。

 幹夫は最後まで歌った。

 歌い終わったあと、胸はまだ痛かった。けれどその痛みは、昨日のように冷たいものではなかった。新茶の苦みのように、奥に甘みを含んでいた。

 その日の夕方、幹夫は茶畑へ行った。

 畑は西日に照らされ、若葉の先が金色に光っていた。昼の銀河のようだった。幹夫は畝の端に立ち、そっと口ずさんだ。

 今度は、誰に聞かせるためでもなかった。

 自分の胸に戻すための唄だった。

 茶摘み唄と銀河のあいだ。

 そこには、幹夫の声があった。

 小さく、震え、時々途切れる声。 けれど、母の声を忘れすぎないための声。 父の沈黙に橋をかける声。 祖母の記憶へ寄り添う声。 若葉と夜空の間を、そっと渡っていく声。

 夜になれば、銀河が出るだろう。

 今日の唄は、昼の光に隠れて見えない銀河のように、幹夫の胸の奥で流れ続けるだろう。

 幹夫は茶の若葉に指を触れた。

 葉は薄く、やわらかかった。

 薄いから、光を通す。 揺れるから、風を知る。 傷つきやすいから、やさしく触れようとする。

 幹夫は、自分の震える声も少しだけ好きになれそうな気がした。

 遠くで、製茶場の音がした。

 風が吹き、茶畑がさわさわと揺れた。

 それはまるで、村じゅうの若葉が、声にならない茶摘み唄を歌っているようだった。

 そして頭上のまだ見えない銀河もまた、夜を待ちながら、遠い遠い声でそれに応えているように思えた。


 
 
 

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