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茶畑に眠る星


 茶畑は、夜になると目を閉じるのだと、幹夫少年は思っていた。

 昼間の茶畑は、よく働く顔をしている。丸く刈りそろえられた畝が、丘の斜面に沿っていくつも並び、葉の表は太陽を受けて明るく光る。風が吹けば、緑の波がいっせいに身じろぎし、そこには人の手の入った整い方と、植物の持つ静かな強さがあった。

 けれど夜になると、茶畑は別のものになる。

 畝の境目は闇にほどけ、茶の木はひとつひとつの形を失い、大きな緑の眠りのように丘を覆う。葉は昼間の光を胸の奥へしまい込み、土は根を抱き、露はまだ生まれる前の夢のように空気の中で息をひそめている。

 幹夫は、その夜の茶畑が好きだった。

 何かを言わなくてもいいからだった。

 昼間の世界では、言葉が多すぎる。

 「どうしたの」 「元気ないね」 「気にしすぎだよ」 「そんな顔しないで」

 どれも、幹夫を傷つけようとして言われた言葉ではない。むしろ、心配してくれた言葉もあったのだと思う。けれど幹夫には、それらの言葉が、まだ柔らかい傷口に当てられる乾いた布のように感じられることがあった。

 元気にならなければならない。 気にしないようにしなければならない。 笑える顔に戻らなければならない。

 そう思えば思うほど、胸の中の小さな灯は、かえって暗くなった。

 その日、幹夫は学校で、何も失敗していなかった。

 誰かと喧嘩したわけでもない。叱られたわけでもない。けれど、教室の窓際で一匹の小さな虫が死んでいるのを見つけてしまった。誰も気づかず、掃除の時間には箒で簡単に集められてしまうような、小さな命だった。

 幹夫は、それを見て胸が詰まった。

 どうしてこんなに小さなことが悲しいのだろう。

 自分でもわからなかった。

 虫一匹のことで、日が暮れるまで心が曇っているなんて、誰にも言えない。言えば、きっと困った顔をされる。優しい人ほど、どう慰めればよいかわからなくなる。

 だから幹夫は、黙っていた。

 黙ったまま家に帰り、夕飯を食べ、母に「疲れたの」と聞かれて「ううん」と答えた。そして夜、みんなが寝静まったころ、そっと外へ出た。

 行き先は、丘の上の茶畑だった。

 月は細かった。

 夜空には星がいくつか出ていたが、銀河が見えるほどではなかった。町の明かりが遠くににじみ、空の低いところは少し白く濁っている。それでも高い場所には、弱い星が静かに光っていた。

 幹夫は農道を歩いた。

 茶畑の土は、昼の熱をもうほとんど失っていた。靴の裏から、夜の湿り気が伝わってくる。茶葉は風もないのに、ときおり小さく鳴った。

 さわ。

 それは、眠っている子どもが夢の中で小さく息をつくような音だった。

 幹夫は畝のそばにしゃがみこんだ。

 「きみたちは、眠れるんだね」

 そう言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。

 茶の木に話しかけるなんて、誰かが見たら笑うかもしれない。

 けれど茶畑は笑わなかった。

 茶葉は、ただ静かに夜を抱いていた。

 そのとき、畝の奥で小さな光がまたたいた。

 幹夫は顔を上げた。

 露ではなかった。まだ露がはっきり降りるには少し早い。蛍でもない。光は葉の上ではなく、茶の木の根元、土の近くから漏れていた。

 幹夫は、茶葉を傷つけないように畝のあいだへ入った。

 光は、茶の木の根元にある小さなくぼみから出ていた。そこには、落ち葉と細かな土がたまり、茶の根が細く絡んでいた。

 その中に、星が眠っていた。

 掌にのせれば隠れてしまうほどの、小さな星だった。

 形は、丸いようで、角があるようで、はっきりしない。光は弱く、白と金色のあいだでかすかに揺れている。空の星のように遠く鋭い光ではなく、湯呑みに残った最後の温もりのような、やわらかな光だった。

 幹夫は息を止めた。

 星は眠っていた。

 確かに眠っているのだと、幹夫にはわかった。光は消えているのではない。閉じられている。まぶたの内側で、静かに息をしている。

 「起こしてはいけないよ」

 背後で声がした。

 幹夫は振り返った。

 茶畑の農道に、一人の女の人が立っていた。

 年はわからなかった。若いようにも見え、ずっと昔からそこにいたようにも見えた。紺色の作業着を着て、頭には白い手ぬぐいを巻いている。手には小さな茶摘み籠を持っていたが、その籠の中には茶葉ではなく、暗い夜のかけらのようなものが入っていた。

 女の人は、静かに畝の中へ入ってきた。

 「この星は、今夜は眠る番なの」

 「眠る番?」

 幹夫は小さく聞いた。

 女の人はうなずいた。

 「星だって、いつも光っていられるわけじゃない。遠くで光り続けているうちに、心の芯が疲れることがある。そういう星は、ときどき地上へ降りて、茶畑の根元で眠るんだよ」

 幹夫は、土のくぼみの中の星を見つめた。

 星も疲れる。

 その言葉は、幹夫の胸の奥にすっと入ってきた。

 星は、いつも光るものだと思っていた。暗い空で道しるべになり、誰かに願いをかけられ、遠くから黙って見守るものだと。

 でも、見守るものにも疲れがあるのかもしれない。

 光るものにも、光らなくていい夜が必要なのかもしれない。

 「眠っているあいだ、空は困らないんですか」

 幹夫が聞くと、女の人は少し笑った。

 「空は広いからね。一つの星が眠っても、ほかの星が少しだけ場所を分け合う。でも、眠った星が戻らないと、空のどこかが少し寂しくなる」

 「戻るんですか」

 「目が覚めたらね」

 女の人は、星のそばにしゃがんだ。

 「無理に起こしてはいけない。眠りは、光の根を育てる時間だから」

 幹夫は、その言葉を聞いて胸が震えた。

 眠りは、光の根を育てる時間。

 自分にも、そういう時間が必要なのだろうか。

 元気が出ない日。 笑えない日。 何もしたくない日。 小さな虫の死に、いつまでも心を置いてきてしまう日。

 そういう日は、怠けているわけでも、弱すぎるわけでもなく、光の根が静かに伸びている時間なのだろうか。

 幹夫は、土の中の星に顔を近づけた。

 星の光はとても弱かった。

 けれど、その弱さの中に、深い安心があった。

 「この星は、どうして茶畑で眠るんですか」

 「茶の根が、静かだから」

 女の人は言った。

 「茶の木は昼間、光をたくさん受ける。でも夜になると、受けた光を土へ返しながら眠る。光を無理に抱えない。だから、疲れた星にはちょうどいい」

 幹夫は茶の木を見た。

 昼間、あれほど緑に輝いていた茶葉は、今は暗く沈んでいる。けれど、それは枯れた暗さではない。光を失った暗さでもない。光を内側へしまい、根へ渡している暗さだった。

 幹夫は、ふと自分の胸に手を当てた。

 自分の暗さも、何かを根へ渡しているのだろうか。

 答えはわからなかった。

 けれど、そう思ってみるだけで、胸の重さがほんの少し変わった。

 女の人は、籠の中から小さな黒い布を取り出した。

 夜そのものを折りたたんだような布だった。星を覆うには暗すぎるように見えたが、女の人がそれを広げると、布の内側には淡い星屑が散っていた。

 「星の掛け布」

 女の人は言った。

 「眠る星には、暗さと少しの光の両方がいる」

 「暗さだけではだめなんですか」

 「暗さだけだと、帰る場所を忘れてしまう。光だけだと、休めない」

 幹夫は黙った。

 暗さと、少しの光。

 それは、今の自分に必要なもののようだった。

 何もかも明るくされるのはつらい。 でも、完全な暗闇に置かれるのも怖い。 誰かに無理やり励まされるのではなく、ただそばに、小さな灯があればいい。

 女の人は、星に掛け布をそっとかけた。

 星の光は少し弱くなったが、消えなかった。布の下で、呼吸するようにゆっくり明滅している。

 幹夫は、思わず小さな声で言った。

 「おやすみ」

 星が、かすかにまたたいた。

 返事のようだった。

 その瞬間、幹夫の胸の奥で、昼間見た小さな虫のことが浮かんだ。

 教室の窓際。 埃の近く。 誰にも見つけられずに横たわっていた小さな体。

 幹夫は、急に涙がこみ上げてきた。

 「ぼく」

 声が震えた。

 女の人は、何も言わずに幹夫を見た。

 「今日、虫が死んでいるのを見ました」

 言葉にすると、涙が一粒こぼれた。

 「小さな虫です。誰も気づいていませんでした。ぼくも、どうしてそんなことで悲しくなるのかわかりません。でも、ずっと苦しくて」

 幹夫は袖で目をこすった。

 「みんなは、きっとそんなこと気にしません。ぼくも気にしなければいいのに。でも、できなくて」

 女の人は、茶の根元に眠る星を見つめながら言った。

 「小さいものの終わりを、心が拾ったんだね」

 幹夫は息を止めた。

 責められなかった。

 大げさだとも、気にしすぎだとも言われなかった。

 ただ、心が拾ったのだと。

 その言葉だけで、幹夫の胸は少しほどけた。

 女の人は続けた。

 「拾ったものは、すぐ捨てられないことがある。小さな命の終わりは、小さいから軽いわけではないよ」

 幹夫の涙がまたこぼれた。

 「でも、ぼくには何もできませんでした」

 「見たでしょう」

 「見ただけです」

 「見たことは、何もしなかったこととは違う」

 女の人の声は、茶葉の夜露のように静かだった。

 「誰にも気づかれずに消えていくものがある。その中で、ひとつでも誰かの心に映ったなら、その命は完全な無音では終わらない」

 幹夫は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 自分が見たことに意味があるのかは、まだわからなかった。けれど、見てしまった自分を責める気持ちは、少しだけ弱まった。

 女の人は、畝の奥を指さした。

 「ついておいで。茶畑には、星だけでなく、いろいろなものが眠っている」

 幹夫は立ち上がった。

 眠る星を起こさないように、そっとその場を離れた。

 茶畑の奥へ進むと、茶の木の根元に小さな光がいくつも見えた。すべて星なのかと思ったが、よく見ると違った。

 あるくぼみには、古い笑い声が眠っていた。

 茶摘みの途中で誰かがこぼした笑いが、丸い光になって根元に休んでいる。もう声としては聞こえない。けれど近づくと、胸の中が少し温かくなった。

 別のくぼみには、ため息が眠っていた。

 疲れた人が腰を伸ばした時に吐いた息。収穫を心配した夜の息。雨が降らず空を見上げた人の息。それらは灰色の小さな雲のようになって、茶の根元で静かに眠っていた。

 また別のところには、誰かが言えなかった「ありがとう」が眠っていた。

 薄い金色の種のようだった。

 幹夫は、ひとつひとつを見つめた。

 茶畑は、こんなにもたくさんのものを眠らせている。

 人の笑い。 人の疲れ。 言えなかった言葉。 落ちた星。 小さな悲しみ。

 昼間は緑の葉に隠れて見えない。けれど夜になると、根元の暗がりにそっと現れる。

 「眠ることは、忘れられることではないんですね」

 幹夫が言った。

 女の人はうなずいた。

 「眠るものは、消える準備をしているのではない。形を変える準備をしていることもある」

 「形を?」

 「笑い声は、いつか茶の香りになる。ため息は、土の湿りになる。言えなかったありがとうは、誰かが湯呑みを包んだ時の温かさになる」

 幹夫は、胸が静かに満ちていくのを感じた。

 悲しみも、どこかで形を変えるのだろうか。

 今日見た小さな虫のことも。 胸に刺さったままの寂しさも。 いつか何かになるのだろうか。

 女の人は、幹夫の問いを聞いたように言った。

 「悲しみは、急いで別のものにしなくていい」

 幹夫は顔を上げた。

 「すぐには?」

 「すぐには。悲しみには、悲しみの眠りがある。早く元気になろうとして掘り返すと、根が傷つく」

 幹夫は、眠る星の掛け布を思い出した。

 暗さと、少しの光。

 悲しみにも、それが必要なのだ。

 「じゃあ、ぼくの今日の悲しみも、眠らせていいんですか」

 「もちろん」

 女の人は、足もとの土をそっとならした。

 「ここへ置いていく?」

 幹夫は、少し迷った。

 悲しみを置いていけるなら、楽になるかもしれない。けれど、全部置いていくのは違う気がした。あの小さな虫のことを、なかったことにしたいわけではない。

 幹夫は胸に手を当てた。

 「少しだけ」

 そう言った。

 女の人は微笑んだ。

 「少しだけでいい」

 幹夫は、茶の木の根元にしゃがんだ。

 土は柔らかかった。幹夫は指で小さなくぼみを作った。

 そして、胸の中にあった悲しみの一部を、言葉にしようとした。

 でも、うまく言葉にならなかった。

 小さな虫。 誰にも気づかれなかったこと。 自分が何もできなかったこと。 そんなことで苦しくなる自分を、恥ずかしく思ったこと。

 それらが胸の中で絡まっていた。

 幹夫は、言葉にできないまま、ただ息を吐いた。

 すると、幹夫の口元から小さな青い光がこぼれた。

 それは涙でも、声でもなかった。けれど確かに、幹夫の悲しみの一部だった。

 青い光は、土のくぼみにそっと降りた。

 幹夫は、その上に落ち葉を一枚のせた。

 「眠っていいよ」

 自分でも驚くほど、やさしい声だった。

 青い光は、落ち葉の下で一度だけまたたき、それから静かになった。

 胸が空っぽになったわけではなかった。悲しみはまだ残っている。でも、さっきより少し呼吸がしやすくなっていた。

 女の人は言った。

 「全部を抱えなくていい。でも、全部を捨てなくてもいい」

 幹夫はうなずいた。

 その言葉は、今夜の茶畑の土のように、胸の奥にゆっくり沈んだ。

 空を見上げると、星が少し増えていた。

 茶畑の根元にも、眠る光がいくつもあった。

 空の星と、土の中の星。

 上にも、下にも、光は眠っている。

 幹夫は、ふと尋ねた。

 「眠っている星は、夢を見るんですか」

 女の人は少し考えた。

 「見るよ」

 「どんな夢を?」

 「もう一度、光る夢。でも、前と同じ光り方ではない」

 幹夫は、眠る星のほうを振り返った。

 「違う光り方?」

 「眠る前の星は、自分だけで光ろうとすることがある。眠ったあとの星は、茶葉や土や夜露のことを少し覚えて帰る。だから、次に空で光る時、地上のやわらかさが混じる」

 幹夫は、その星が空へ戻るところを想像した。

 茶畑の根元で眠った星が、やがて目を覚まし、夜露の匂いと土の静けさを抱いて空へ帰る。そして前より少しやさしく光る。

 それは、とても美しいことに思えた。

 「人も、眠ったあとに違う光り方ができますか」

 幹夫は聞いた。

 女の人は、幹夫を見た。

 「できるよ」

 「ぼくも?」

 「もちろん。ただし、無理に急いではいけない。眠りには、眠りの時間がある」

 幹夫は、小さく息を吸った。

 今夜、自分の中で何かがすぐ変わったわけではない。明日になっても、また小さなことに傷つくだろう。誰かに笑われれば苦しくなるだろう。教室の隅の小さな命に気づけば、また胸が痛むだろう。

 でも、痛みをすぐ消さなくてもいい。

 少しだけ茶畑に眠らせればいい。

 暗さと少しの光の中で。

 やがて女の人は、茶摘み籠を持ち直した。

 「そろそろ星の眠りを見回らなくては」

 「あなたは、毎晩いるんですか」

 幹夫が聞いた。

 「いる夜もある。いない夜もある」

 「また会えますか」

 女の人は、夜の茶畑の奥を見た。

 「茶畑に何かを眠らせに来た夜には、会えるかもしれない」

 「何かを?」

 「悲しみでも、疲れでも、言えなかった言葉でも。けれど、眠らせるために来るのよ。捨てに来るのではなく」

 幹夫は、強くうなずいた。

 その違いは大切だと思った。

 捨てるのではない。 眠らせる。

 それなら、悲しみにも失礼ではない気がした。

 女の人は、眠る星のほうへ戻っていった。幹夫も少しだけついていった。

 最初に見つけた星は、掛け布の下で静かに眠っていた。光はさらに穏やかになり、呼吸の間隔もゆっくりになっている。

 幹夫は、もう一度そっと言った。

 「おやすみ」

 今度は、星はまたたかなかった。

 深く眠ったのだろう。

 それが幹夫には嬉しかった。

 返事がなくても、届いていないわけではない。 返事をしないほど安心して眠っていることもある。

 女の人の姿は、茶葉の闇の中に少しずつ溶けていった。

 最後に声だけが聞こえた。

 「幹夫、心にも畑がある。何かが眠る場所を、少し残しておきなさい」

 幹夫は返事をしようとした。

 けれど、声が出る前に女の人は消えていた。

 茶畑には、夜の静けさだけが残った。

 幹夫は農道へ戻った。

 来た時より、足どりが少しゆっくりになっていた。軽くなったというより、自分の重さを少し受け入れられるようになった感じだった。

 空には星がある。 茶畑には眠る星がある。 そして幹夫の胸にも、小さなくぼみができた。

 そこには今日の悲しみの一部が、落ち葉をかぶって眠っている。

 家に帰ると、母はまだ台所にいた。

 「こんな時間に、どこへ行っていたの」

 母は驚いた顔をした。

 幹夫は少し申し訳なく思いながら答えた。

 「茶畑を見てた」

 母は眉を寄せたが、幹夫の顔を見て、それ以上強くは言わなかった。

 「お茶、飲む?」

 幹夫はうなずいた。

 湯呑みに注がれたお茶は、普通のお茶だった。

 けれど湯気の奥に、茶畑の根元で眠る星の光が少しだけ見えた気がした。

 幹夫は両手で湯呑みを包んだ。

 温かかった。

 その温かさは、何かを急いで治すものではなかった。ただ、胸の中にある眠りの場所を冷やさないようにしてくれる温かさだった。

 幹夫は、お茶をひと口飲んだ。

 苦みがあった。

 そのあとに、やわらかな甘みが来た。

 翌日、幹夫は学校へ行った。

 教室の窓際は、きれいに掃除されていた。昨日の小さな虫はもういなかった。

 幹夫は少しだけ立ち止まった。

 胸は痛んだ。

 でも、昨日ほど鋭くはなかった。

 幹夫は、心の中でそっと言った。

 眠っていてね。

 誰に向けた言葉なのかは、はっきりしなかった。 昨日の虫に。 茶畑に預けた青い光に。 自分の胸の中に残った悲しみに。

 窓の外には、朝の空があった。

 星は見えない。

 けれど幹夫は知っていた。

 見えないだけで、星はある。 空にも。 茶畑の根元にも。 心の奥にも。

 その日の作文の時間、幹夫は新しい紙に題を書いた。

 茶畑に眠る星。

 そして、ゆっくり書き始めた。

 星は、いつも光っているわけではありません。 疲れた星は、茶畑の根元で眠ります。 暗さと、少しの光をかけてもらって、もう一度光るための根を育てます。 人の心にも、そういう場所が必要です。 悲しみを捨てる場所ではなく、眠らせる場所です。

 そこまで書いて、幹夫は鉛筆を止めた。

 胸の奥が少し震えていた。

 また笑われるかもしれない。 先生に不思議がられるかもしれない。 うまく伝わらないかもしれない。

 でも、今度は消さなかった。

 幹夫は続けて書いた。

 ぼくは、小さな命の終わりを見て悲しくなりました。 その悲しみを全部なくしたいとは思いません。 でも、全部ひとりで抱えることもできません。 だから、少しだけ茶畑に眠らせました。 いつか、その悲しみが、やさしい光になって戻ってくるかもしれないと思います。

 書き終えると、幹夫は窓の外を見た。

 昼の光が校庭に満ちていた。

 茶畑はここから見えない。

 けれど幹夫には、丘の上の茶の木が、夜の記憶を葉の奥に静かにしまっているのがわかるような気がした。

 眠る星も、まだきっと根元にいる。

 深く眠りながら、次の光り方を夢見ている。

 幹夫少年は、自分の胸の奥にも小さな畑を感じた。

 そこには、まだ名前のつかない悲しみや、言えなかった言葉や、消えそうな希望が眠っている。すぐに芽を出さなくてもいい。すぐに光らなくてもいい。

 暗さと、少しの光の中で。

 いつか静かに目覚めるまで。

 
 
 

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